第2話 双﨑 志歩の悩み

 無言でペンを走らせる姫乃の顔には疲労の色が窺えた。

 放課後の生徒会室、今度行われる会議の資料を作成しているのは会長の姫乃と書記の志歩の二人だけだった。

 あと二人、生徒会役員がいるのだが、その二人は別件で先生から駆り出されており、しばらく帰って来ない。

 明らかに疲れている姫乃に、志歩は心配そうに尋ねた。


「お疲れですね、紅神会長。大丈夫ですか?」


「ありがとう双崎さん。私なら大丈夫だ。ちょっとさっき色々あってね」


「また……逢真先輩ですか?」


 姫乃はこめかみを押さえながら、ため息をついて頷いた。


「……女子テニス部の着替えを覗いているとの通報があってな。まったく……あの不埒者は。まぁ、今度はきっちり花壇の肥料にしてやったがな」


「あはは……」


 苦笑いしか出ない。

 姫乃の言っていることが冗談や比喩ではないことを知っているからだ。

 何故なら以前、暁が何か粗相をした時、半日逆さ釣りにされているのを見たことがあったからだ。


「大変ですね。いつもいつも」


「こんなことをしてかれこれ十年以上になるからな。もう慣れたさ」


 姫乃は一旦ペンを置いて体を伸ばす。

 さらりと姫乃は述べたが、よく十年以上もあんなことに付き合っているなと改めて感心した。

 姫乃が人一倍お節介焼きだからというのもあるのだろうが、やはり幼い頃からの縁もあるのだろうなと志歩は思った。


「逢真先輩はラッキーですね」


「ん?」


「会長みたいな素敵な人と幼馴染で。そうじゃなければ人一倍気にかけてもらえなかったかもしれないのに……」


 志歩の言葉を聞いて、今度は姫乃が苦笑いをした。


「二つ誤解だな。私は素敵な人でもないし、暁を特別扱いしているつもりもないよ。単純に私がお節介焼きなだけさ」


 お節介焼きの自覚はあるようだ。

 それでも、やはり暁に対する接し方は他の人とは違うように感じる。

 暁が学園のほとんどの生徒から敵視されているのはそれも原因の一つだった。

 現に姫乃に憧憬しょうけいしている志歩も暁に対してあまり良い感情は持っていなかった。


「まぁ、お節介焼きになったのはアイツの影響かもしれないが……」


「え?」


 姫乃がぽそりと呟いた言葉を志歩は聞き取れなかった。

 姫乃は「何でもない」と誤魔化して、またペンを手にすると黙々と作業を始めた。

 再び作業を始めた姫乃を、志歩はジッと見つめた。

 今、自分が抱えている問題について話そうかどうしようか決めあぐねていたのだ。

 そんな志歩からの視線に気づいたのか、姫乃は顔を上げると少し困ったような顔をして笑った。


「どうした? 何か私の顔についてるか?」


「い、いや! そういう訳じゃ……」


「じゃあ、何か話したいことでもあるんじゃないか?」


 志歩はビクリと肩を上げる。

 決めあぐねていたところに本人からの傾聴の申し出があり、志歩は慌ててしまった。

 せっかく姫乃が自分の話を聞いてくれようとしているのだ。このまま相談してしまった方がいいのかもしれない。

 志歩の口から言葉が出ようとした瞬間、あることが脳裏をよぎり、喉元まで来ていたその言葉がそこで止まってしまった。


「いえ……何でも……ないです。すいません、じろじろと不躾に見てしまって……」


「いや、別にいいんだ。責めたわけじゃないんだから謝らなくてもいい」


 困ったように笑う姫乃を見て、志歩は言わなくてよかったと心の底から思った。

 危うく憧れの先輩を危険な目に巻き込むところだった、と軽率に相談しようとしていた自分を戒め、「これでよかった」と心の中で自分に言い聞かせるのだった。



 ※



「はあっ……はあっ……」


 空はすっかり彩度を失い、周囲は暗色に包まれていた。

 星は厚い雲に隠され、街灯だけが細々と道を照らす中、志歩は帰路を急いでいた。

 この通りは繁華街からも離れており、人通りも少ない。

 だからこそ急がなくてはならなかった。

 こんなところでもしに出くわせば……。

 そんな思いが志歩の足を更に早くさせた。

 今日はまだ一度も見ていないが、今日はが現れる日なのは間違いない。

 とにかく今日一日は、一人になるのを避けていたが、そんな日に限ってこんな時間まで遅くなってしまった。

 近所の踏切の前まで来た志歩は、けたたましくなる踏切の音と電車の走り抜ける音、そして自分の心臓の音を聞いていた。

 この踏切のを越えれば自宅はもうすぐだ。

 そう考えると少し心臓の鼓動が和らいだ。

 もうすぐこの恐怖から解放される。

 そう思いながら、電車が走り去り、遮断機の上がった踏切を駆け抜けようと前を向く。

 踏切の先を見て、志歩の和らいでいた心臓の音が再びけたたましく鳴り出した。

 踏切の先、そこに確かには立っていた。

 星のない夜の闇を凝縮したかのように黒い霧状の物体。

 霧状なのになぜ物体と表現したのか。

 それは、その黒い物体が明らかに人の形を象っているからだ。

 そんなに大きくはない。

 自分と同じくらいの背丈しかない、その異様な物体が存在しない目でこちらを見ていた。


「あっ……ああっ……」


 志歩は思わず後ずさる。

 しかし、志歩が動いたと同時に踏切の先にいるも動いた。

 20メートル以上は離れているだろう距離を一瞬にして詰め、志歩の眼前は黒い霧で覆われた。

 志歩の口から悲鳴が出ようとした瞬間、その発生源である喉に手の形をした霧がまとわりつき、締め付けられる。

 出かかっていた悲鳴が無理やり抑えつけられ、代わりに志歩の口から短く空気を飲む音が出た。

 喉に触れている感覚から、そんなに手も大きくない。

 しかし、喉を締め付ける力は人間のものとは思えない程だった。

 ゴムボールでも握りつぶすかのように首元が歪み、志歩の目からは涙が、口元からは涎があふれ出た。

 ギチギチと自分の喉を握り絞める音を体中で聞きながら、徐々に志歩の意識は遠くなっていく。

 そのまま意識を手放し、永久に目覚めない眠りに誘われようとしたその時だった。

 突然、首からの締め付けがなくなる。

 首の締め付けがなくなったことで、志歩は咳き込みながら必死に肺に空気を取り込む。

 絞められていた首に触れると、指先に血が付いていた。

 手が無理やり引き剥がされたことで裂傷してしまったようだった。


「大丈夫か? 双﨑さん」


 空気を取り込んだことではっきりしてきた意識の中、聞き覚えのある声が耳に届く。

 涙で歪む視界で前を見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 志歩は涙を拭う。

 今度ははっきりとした視界でその光景を見る。

 見間違いでも夢でもない。

 自分に襲い掛かってきたが赤い無数の糸で雁字搦めにされ、地面に倒れ伏している。

 しかし、それ以上に志歩を驚かせたのは別のものだった。

 赤い糸の伸びる先、今自分を守るかのように前に立つ人物。

 髪の色がいつもの深い青色ではなく、装飾品のような煌びやかな銀色。

 瞳の色も深い赤色に染まっており、一見別人のようだが、見間違う訳がない。

 何せ、自分の憧れる人物なのだから。


「こう……紅神……会長……?」


 名を呼ばれ、姫乃は小さく笑い頷く。

 姫乃のいつも通りの優しい笑みを見て、志歩は確信した。

 自分を救ってくれたのが、憧れの存在である姫乃であることを。

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