第5話

 1時間ほどすると、茜がびっこを引きながら海の家に引き返して来た。慌てた弘務の母親が訊ねると、割れた貝殻で右足の親指を切った、としかめっ面で茜は訴えた。

 傷の様子を覗った弘務の母親は、バッグからこんなこともあろうかと用意していたバンドエイドを取り出すと、傷口に何重にも重ねて貼った。

 これに懲りておとなしくしていると思った茜だったが、手当てが済むと同時に、礼もそこそこにみんなのところに駆け戻って行った。

 結局3人が海の家に戻って来たのは、それから2時間ほどしてからだった。

 3人は日に灼けて真っ赤な顔で、弘務の母親にあとどれだけ遊ぶ時間があるのか訊ねた。帰り支度をするまではあと1時間しかないのを聞くと、わあッと声を上げてまたしても海に突き進んで行った。

 シャワーを浴びて潮気を落とした3人は、すっきりとした顔になってソフトクリームを食べながらバス停に向かった。

 帰りのバスも電車も、3人は遊び疲れて泥のように眠りこけた。

 行きの電車では誰に送るのかしきりにスマホでメールを送っていた茜だったが、いまではまるで色の黒いフランス人形のようにあどけない顔で目を瞑ったままでいる。

 そんな3人だったが、N駅に着く頃には目を醒まし、茜が足を怪我した話に盛り上がっていた。それ以来ことあるごとに、弘務の発熱でキャンプに行けなかったことと、茜が貝殻で足を切ったことが話題になるようになった。

 それもこれもすべてが中学最後の夏休みの想い出になった。

 N駅に着くと、佑介の父親が迎えに来ていたが、佑介はみんなの手前気恥ずかしさが先に立って、父親の問いかけに終始愛想のない返事を返す。傍から見ていると、まるでこの日が愉しくなかったようにも見えた。

 車で送ってもらった佑介以外の3人は、これが佑介の父親を見るのが最後だとは、誰ひとりとして思わなかった――。

 その秋、父親の佐倉雄三が突然交通事故で亡くなった――2年前のことである。

 原因は対向車の飲酒運転によるセンターライン越えだった。

 祐介の家はアズマ商店街のなかほどにあって、『サイクルショップ・サクラ』という小さな自転車屋を営んでいる。その日自転車の納品の約束があって夕方から出かけた雄三は、3時間ほどで用事を済ませると、近道をするのに国道から脇道に入り、慣れない道を家に向かって車を走らせていた。

 あと少しで家だという時、雄三はスピードを出して走って来た対向車に気がついた。危険を感じて路肩に寄せようとしたが、時すでに遅く、雄三の車は見るも無残なほど大破した。

 45歳で他界した父親の死は、あまりにも早過ぎた。

 突然の訃報に、母の由美江、佑介、それに中学1年になる妹の典子の3人が、やり場のない憤りと悲しみに打ちひしがれ、泪に暮れる日がつづいた。

 いまでは父親の佐倉雄三が遺していったサイクルショップを母親の由美江が同業者に助けられながらようやく維持しているといったところだ。

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