第4話 Escape




 見知らぬ誰かが、俺をあざ笑っている――。


 すれ違う制服姿の小学生、改札でぶつかりそうになったOL、駆け込む俺を奇異な目で見る駅員——。


「お前は人殺しだ」


 違う。俺は、違う。






 コンコン、と目の前の扉がノックされた。


「……雄介?」


 おそるおそる訊くのは、達也の声だ。


「ああ、いるよ」


 狭い間から覗いた達也を見て、俺は大いに安心した。ただ、男二人も入れるほどトイレの個室は広くはない。


「大変だったな」


「ああ、すまん」


「何かしこまってるんだよ。困ったときに助け合うのがダチってもんだろ?」


 ダチか。そうだよな。俺、一人じゃないんだよな。


「——まあ、ここまですげえ遠かったけど」


 それを今いうか。俺は、自然と頬が緩んだ。電車に乗る勇気が出せず、最寄り駅でうずくまっていた俺に、達也は何もいわず協力してくれた。昨日のあれの罪滅ぼしする意味もあるのだろうが、片道一時間かけてやって来てくれたことに感謝できないはずがない。


「はい。これが帽子でサングラス、それとジャンパー。多少、暑くなるのは我慢してくれ」


「大丈夫。たぶん、電車はクーラーがよく効いてると思うし」


 俺は黒いジャンパーに袖を通した。達也のサイズに合わせてあるのでもちろんぶかぶかだ。だが、これくらい大きいほうがかえって安心感をもたらしてくれた。加えてキャップとサングラスをして変装完了。鏡で見た自分はどうみても売れないラッパーのようであった。見事に似合っていない。だが、達也は「おー! めっちゃ似合ってんじゃん」とほめてくれた。大げさだろ。


 ホームで次の急行を待っているとき、「なあ、雄介の学校見たいんだけど」と唐突に言い出した。


「はぁ?」


「だって、都会の学校なんてめったに行かないからさ。どんな感じかなって一目見たいしさ」


 俺は呆れた。よく、こんな状況下で呑気にいられるものだと。でも、うれしいのは確かだった。


「……文化祭、やるからさ、秋に。それ来いよ」


 達也はニヤッと笑った。「ぜってー約束だぞ」





 電車の中で、俺は不思議に思った。席を横にする達也にひそひそ声で訊く。


「なぁ、なんで俺の写真だけ流失してんの?」


「え? いや、知らねえよ」


「だって、中学のときのことをいうなら、その――達也とか、あと朱音もいなきゃおかしいじゃん」


「んー、そういわれてもなぁ……」達也は困ったように頭を掻く。


 俺はこれ以上、何も追求しなかった。連帯責任を押し付けているような気がするからだ。達也も朱音も何も関係ない、ただ三人の中では晴人と長い付き合いだった、というだけでターゲットになったのかもしれない。

 さらに事態を悪化させたのは、母親からのLINEだった。その文面を見て、大きく目を見開く。


『あんたなんかしたの? 家の前に変な人いっぱいいるんだけど』 


 俺はその瞬間、感情がはじけた。

 ちくしょう。ふざけんなよ――。

 罵声を浴びせられている母親を想像する。家で一人の中、日常的な午後のひと時を切り裂くような雑言。

 息子は犯罪者――。お前も同罪だ――。逃げるな――。

 家の前にきた連中の言葉を信じるのだろうか。息子の暴言を聞かれてどう感じるだろうか。胸が痛むだろうか。傷つくだろうか。悲しむだろうか。それとも、ただ失望するだけなのだろうか――。

 歯をギリリと噛んだ。

 スマホを持つ手が震える。ぎゅっと、小さな長方形を五本の指で握る。母親へのあざ笑うような声が心臓の奥で鳴っている。自分の無力さにひたすら地団駄を踏みたかった。なんて浅はかなんだろう。


「くそっ」


 俺は小さく呟いた。誰にも聞こえない程度に、弱々しく、卑怯者のように。


「おい、雄介」達也が焦った声色で肩を叩いた。「大丈夫か……」


「あ、ああ」


「ちょっと、見せてみろ」


 達也は俺のスマホを強めの力で奪った。俺は取り返す気力もなく、明け渡した。

 横目で母親からのメッセージを読んでいるのが分かる。達也の横顔を見るのが怖くて、じっと俯いていた。


「……言い返せ」


「え?」


「俺はやってねぇってことだよ」


「でも、お前——」


「早くしろ! こうしているうちにもてめえの母ちゃん……」


 達也の語尾が元気なくしぼんでいく。ただ、あまり見せない悲壮感ただよう表情に、俺は拳を強く握った。


「分かった」


 キーボードのフリック機能を使いながら、母親への返事を打った。


「俺は何もやってない。信じてほしい」


 そう書いて、返信した。


 既読は一分後に付いた。


『外はあたしがなんとかするから、今はどっかに隠れてなさい』


 敵わないや、親は。俺は目に水が滲むのを必死で堪えていた。


 光るオレンジ色の夕日を背に、電車は到着した。





 その日の夜、俺への暴言は鳴りやんだ。というのも、中学時代のいじめっ子であったバスケ部の先輩が炙り出さると同じくして、佐藤雄介はその件とは無関係なただのクラスメイトであったということに落ち着いた。

 今度はそっちの先輩が大炎上中である。ちなみに、俺を殺人者呼ばわりしたアカウントの吊し上げもところどころで見た。ご丁寧に、「刑事訴訟したほうがいいですよ」となどという一文も加えられて。









 









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