怪少年

 かくが失踪してから数日が経った。

 郭の雇い主は、いつもきびきびと働く郭のことを気に入っていたから、郭と同郷で特別仲良くしていたしゅという男を、郭の母親の所へ使いに遣った。

 ところが、郭は親元にさえ姿を見せていないという。正真正銘、行方をくらましてしまったということである。

 朱はその後も、単独で自主的に、郭の足跡を追っていた。朱にはどうしても、郭が誰にも何も言わずに出奔してしまったことが信じられないでいたのだった。朱は市の人々に聞き込みを続けるうちに、郭が例の絵売り老爺の絵を眺めていたことを突き止めた。なおも調べを続けると、その同日に若い男が件の老爺の後をつけているのを目撃したという証言も聞くことが出来た。

 朱のすべきことは、あと一つに絞られた。絵売り老爺が市に来るのを待つだけである。老爺の居場所を知る者が市の何処にもいないことは、朱も知る所であった。

 老爺は、それから待つこと二月ふたつき、とうとう市に姿を現した。

 老爺は絵を幾つか持ち込んでいたものの、その目の前はがらんとしていた。かつては市の者たちがこぞって絵を見に来ていたから、老爺の前は人々がひしめき合っていたものだが、今はもう閑古鳥が鳴いている。

「郭という若い男についてもしご存知でしたら、教えて頂けないでしょうか。」

 単刀直入に、朱は訪ねた。老爺は何も言わず、押し黙ったまま首を振った。この老人が、郭の失踪に関わっていることは明白である。というより、今の朱にはそれ以外には手掛かりは何もなかった。

 朱は一端は引き下がることにしたが、諦めたというわけではない。その後、日も傾いてきた頃合いで老爺が絵を抱えて市を後にするのを見た朱は、こっそりとその後をつけ始めた。老爺は日の沈む方角へ、ずんずんと歩いて行った。予想だにしなかった老爺の健脚ぶりに、朱は何とか必死についていっていたが、いつの間にか、老爺の姿を見失ってしまっていた。

 しまった、と朱が思う頃には、もう空は大分暗くなっていた。随分と歩いたのか、朱は全く見たこともない場所に辿り着いてしまっていたことに気づいた。見慣れぬ土地と名も知れぬ虫や鳥の怪しげな鳴き声が、朱の心を段々と冷やしていく。朱はじっとりと流れ出す嫌な脂汗に塗れながら、辺りに視線を巡らせた。

 すると、左方に、何やら小さな灯りが灯っているのを見ることが出来た。朱は疲労で重くなっていた足を叱咤しながら、殆ど藁にでもすがるような思いでその方へ向かった。

 そこには、立派な屋敷と庭があった。妙に明るい灯りが闇をかき分けているお陰で、その全容もそれなりにはっきりと分かった。それこそ、郭が辿り着いた所と同じであったのだが、朱には知る由もないことである。

 随分と広い庭だ、この屋敷の主は余程の財を築いているに違いない。箪食豆羹たんしとうこうを啜って日々を過ごす自分にとってはきっと雲上の人に違いないであろう、と、朱はそのようなことを考えていた。

 突然、松の林から、鳥獣が数匹、まるで客人を出迎えるかのように飛び出してきた。それは一見、鹿や猿、かささぎなどてんてんばらばらであったが、よく見るとどれもこれも、奇怪で不気味極まる姿の怪鳥怪獣たちであった。四本角の鹿のような獣は前脚が人の腕のようであったし、猿のような獣は顔が人間の男のそれで、かつ手足が一本ずつしかない。鵲のような鳥は全身が赤黒く、首が二つ、脚が四本もあった。灯りがなければ、朱は恐らくこれらの鳥獣の異様さには気づかなかっただろう。いや、煌々こうこうと照っているこの灯りのせいで、気づいてしまった、と言うべきか。鳥獣たちは、暫くの間朱の方をじっと見つめると、そそくさと松の林の方へ去っていった。頭上で、ばさばさと羽音が聞こえた。朱が驚いてその方を向くと、松の枝に何かの鳥——いや鳥ではない、翼の生えた魚たちが止まっていた。

 朱は、恐怖のあまり、すっかり脚が石仏せきぶつのように固まってしまっていた。最早、前進も後退もかなわない。

「お前は朱裕徳しゅゆうとくではないか。」

 その時、松の林の方から、聞き覚えのある声がした。やがて朱の目の前に、一匹の獣——一見白馬のような見た目でありながら、尾は黒く、立派な一本角があり、虎のような脚と爪を持ち、これもまた虎のような牙を剥き出しにしていた——が、松の林からのそりと姿を現した。

 聞き覚えがしたというのは他でもない。その声は朱が探している郭の声そのものであったからだ。

「その声は郭安陵かくあんりょうか。俺だ。探しに来たぞ。」

「俺はここだ。」

 驚くべきことに、目の前の奇獣が、郭の声で返り事をしたのである。朱は、この獣が郭の声を発したことを、すぐには信じることが出来ないでいた。

「何者だ。」

 朱は威勢よく怒鳴って見せた。こうでもして自身を奮い立たせていないと、朱自身、どうにかなりそうであった。

「いいか、よく聞いてくれ。俺こそが郭だ。故あって、このような獣に成り果ててしまった。どうか一つ、その訳を聞いてはくれないか。」

 真に信じがたいものであったが、確かに、声は郭のそれなのだ。朱はだんだんと、目の前の奇獣に対する恐怖であるとか、怪しむ心であるとか、そのような感情を薄れさせていった。

 郭と名乗るその獣は、滔々とうとうと、自身がこのような姿になった経緯を語った。揚州の市場で、件の老爺の絵を欲し、その絵を奪い取ろうという邪な衝動を起こしたこと、老爺を追った先にこの屋敷に辿り着いたこと、屋敷にいた、老爺の絵に描かれたそれと瓜二つな美少年と交わり、その後気を失って、目覚めた時には獣になっていたこと……

「俺は浅はかだった。これは天罰なのだ。目覚めた時、俺は四つ脚で立っていて、腕が獣の前脚になっていることに気づいた。すぐに俺は屋敷を飛び出して、外の池の水面に姿を映した。絶句したよ。」

 朱は、息を飲んで獣の話を聞いた。今はもう、この奇怪な獣が、失踪した郭の成れの果てであることを信じるに至っていた。

「最初は、気が狂いそうになって遮二無二走った。ここを出て、何処か遠くにでも行きたかった。けれどもそれは叶わなかった。庭を出ても、暫く走ればいつの間にかこの庭の松林に戻ってしまう。それに気づいた次には、俺はこの爪と牙を以てかの少年への復讐を試みた。俺がこんな目にあったのはあいつのせいだと。でも出来なかった。不思議な事だが、奴を目の前にすると、途端に奴を手にかけてやろうという気が失せてしまうのだ。」

 朱は黙って獣——今はもう郭その人だと思っている——の話を聞き続けた。

「最後にお前の顔がみられて良かった。段々と、己の人間としての心も失われていっているんだ。最初は一日に一度だけ、ものの半刻ほど気を失うだけだったが、今はもう、一日の内で、己を郭であると認識している時間の方が短いほどだ。お前の顔など、たった今、思い出したばかりなんだよ。今はまだ、一日の内で少しだけは郭安陵かくあんりょうでいられるが、もうじき人の心を失って、ただの獣に成り果てるだろう。」

 獣は、悲しげな面持ちで語った。少なくとも、朱には、獣の表情がそう見えた。

「朱よ、お前には脚の悪い父と病がちの母がいるだろう。だから、今すぐ引き返して、この俺のことなど忘れてしまうがいい。それが、親友としての、最後の頼みだ。間違っても屋敷に入ってはいけないし、その童子に会ってもいけない。……ああ、もうこれまでだ。今生の別れだ。もうじき俺は人間でなくなる。さらば、友よ。」

 そう言って、獣は松の林の方へ引き返し、そのまま何処かへ行ってしまった。

 朱は言葉を失った。あまりにも現実離れしたことが起きすぎて、頭がどうにかなってしまいそうだった。雇い主や、郭の郷里の母には、何と話せば良いのだろうか。郭の母は、郭の母方の祖父母に当たる両親を侯景の乱で亡くし、郭の父に当たる夫を隋の南征で失った、まさしく戦乱に翻弄された女性であることを、朱は知っていた。

 夜闇は、すでに空を深く暗く覆っていた。灯りは未だめらめらと赤い舌を揺らしながら、朱の頬を照らしている。空には丸い月がかかり、その下を小鳥が二つ三つ飛び急いでいるが、もしやすると、それも先程の翼の生えた魚であるかも知れない。

 夜の冷えた空気が、幾分か朱の頭を冷やすと、ようやく脚が動くようになった。朱は、郭の言う通り、きびすを返して引き返そうとした。

 その時であった。何処からともなく、甘い香りが朱の鼻孔をふんわりと包み込んだ。それと同時に、正面の屋敷の方から、誰かが一人で歩いて来るのが見えた。朱は郭の話を思い出した。もしや、正面に見えるのは、件の少年なのではないか、と。

 それが近づくにつれ、はっきりと姿を目に捉えることが出来た。確かに、それは今までに見たことがないぐらいに眉目秀麗な美少年であった。

 少年はもうすぐ近くまで接近していた。朱は、郭の言葉を思い出して一旦は逃げようとした。しかし、鼻をくすぐる香りと、少年の妖冶ようやな姿に、次第と心が溶けていった。そしてついには、逃げ出そうという気をすっかり無くしてしまったのである。

「客人かな?歓迎するよ。」

 少年に手を引かれるままに、朱は屋敷の中に入った。最早朱は何の抵抗もしなかった。

盗跖とうせきのように生きるか。それとも伯夷はくい叔斉しゅくせいのように死ぬか。それを選べるのは人間だけだよ。」

 言いながら、少年は朱に抱きついて、えんな手つきで背中をさすり始めた。

「彼らは獣にされたんじゃない。自ら望んで獣になったのさ。」

 それでは、郭の話と違うではないか。朱はそう言いかけたが、もうそのようなことはどうでもよくなっていた。少年は、見上げるような形で、熱っぽい眼差しを送りながら朱と見つめ合っていた。朱の内側の情欲の炎は、既に消すこと出来ない大火となって、その心の内に燃え上がっていた。

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