5年目のルーキー
四万慧
第1話
耳元でDAOKOの『打上花火』が響く。スマホのアラームで迎える朝。瞼が開かない。最近、こういう朝が増えた気がする。
“あの日見渡した渚を 今も思い出すんだ…。”
柿坂友紀は枕元に右手を伸ばし、手探りでアラームを止めた。なにか夢を見ていた気がする。が、DAOKOの声に脳が支配されて、夢はかけらも残さず消えていた。
スヌーズ機能で、九分後に再びアラームが鳴るだろう。それまで寝ようと決め、再び布団にもぐる。
歯を磨いてひげを剃り、寝癖を整える。その間にパンを焼き、冷蔵庫のオレンジジュースで胃に流し込んで、朝食は終わり。着替えに要する時間を考えても、 十五分とかからない。
いつもと同じ朝。昨日も同じ。そしてたぶん明日も同じ…。そう考えて、友紀はすっかり目が冴えてしまったことを自覚した。二度目のアラームを待つことが苦痛になり、上半身を起こした。
カーテンを開ける。東京の住宅街のアパート。窓の外は、隣に建つ低層マンションの壁。陽の光は夏の一時期しか差さない。それでも大学で上京してからずっと住み続けている部屋には、適度な愛着があった。
睡眠時間は充分なはずなのに、日毎の疲れが減るどころか積み重なっていく。気づけばもう、社会人5年目。いつからか、爽やかな朝とは無縁になった。
テレビを付けると、高校野球のダイジェストが流れていた。春のセンバツ。そんな時期か…。少しだけ胸が騒いだ。でも一秒後には出勤の準備に向けて、体が自動的に動いていた。
柿坂友紀、27歳。昨日までと同じ今日がまた始まると思った。
午前は二つの会議で潰れ、午後は三件の顧客を訪問。会社に戻ったのは十七時を過ぎていた。溜まったメールをさばいているうちに定時は過ぎ、いつの間にか、オフィスは残業を忌避するキャンペーンの効果か、友紀を含めて数人が残るだけになっていた。
何が働き方改革か。残業を減らせというなら、仕事量も減らしてくれ…。
部長へ報告する日報を書くためパソコンに向かっていると、Googleハングアウトがチャットの着信を告げた。
《まだ会社にいるのか?》
同期の一人、佐野佑樹からだった。いまや商品企画室のエース。先月も大手メーカーに向けたプレゼンを完璧にこなし、受注につなげる金星をあげたと、社内で囁かれる噂話で聞いた。
しかしお互いに忙しいという理由が半分、友紀からしてみれば同期に遅れを取っているという負け犬気分が半分で、この一年ほどは、かつてのような付き合いはなく、やや疎遠になっていた。
《まだ会社にいるんだろ。これから飲まないか? 美来も誘ったから》
松原美来もまた、同期の一人だ。同期組の仲良し三人組。入社研修で同じ班になり、その後5年、事あるごとに集まって語ってきた間柄だった。
三十分後、友紀は佐野と美来とともに、焼き鳥屋でビールを傾けていた。丸メガネが似合いすぎる、繊細な顔立ちの佐野は胃袋もまた繊細で、昔から鶏肉しか口にしない。
佐野とは大学時代からの縁だった。同じゼミで二年間、社会経済学について学んだ仲だ。
乾杯してすぐだった。佐野が唐突に言った。
「会社を辞めることになった」
気負いもなく、もったいぶった前置きもなく。今年の広島カープの調子はどうだと、いつもの世間話をするような気軽さだった。
「会社を辞める?」
友紀と美来はお互いに呆けた顔を晒し合うしかなかった。佐野の言葉が、頭の中を駆け巡り、やがて『理解』という領域に収まるまで恐ろしいほどの時間を要した。
「辞めてどうするんだ?」
「外資のコンサル会社へ転職することにした。このまま今の会社にいても、今より上のスキルは身につかないと思ったんだ」
「そんなもんか? 今だってお前、ずいぶんと活躍してるんだろ?」
「だからこそだ。今のレベルでいいと、俺は思わない。もっと高いレベルで経験を積まなければ、十年後には使えないオッサンになって定年を待つだけの人生になる」
佐野は入社したときから、自らのキャリアについてシビアに見据えていた。「俺はこの会社で終わるような人間にはなりたくない」そう言って、友紀に挑戦的な目を向けてきた。未来を見据え、「お前はどうなんだ」と問うように。
大学のゼミでは、友紀の方が成績は良かった。教授からの期待も厚かった。その自負が邪魔をする。素直に佐野の転身を喜び、応援できない自分がいる。
「いつ決めたんだ」
「正式に退職願が受理されたのは昨日だ。誰よりも先に、二人に話そうと思ったんだ」
「おめでとう…。で、いいんだよね?」
美来が控えめに笑顔を作って言った。友紀の顔を覗き込む。
「ああ…おめでとう」
友紀は改めてグラスを掲げ、佐野のグラスにぶつけた。キン…という乾いたグラスの音が耳にこだまする。
「ありがとう。二人も頑張ってくれよな」
佐野の思い。未来を見据えた確かな覚悟。友紀には眩しく見えた。
翌日も仕事がある。それを言い訳に、早々に会はお開きになった。違う景色をその目に映す友との距離を痛感し、会話も盛り上がらなかったのだ。学生時代とは明らかに異なる空気がそこにはあった。
帰る方向が途中まで一緒ということで、友紀は帰り道、美来と語った。美来にとっても、佐野が退社する話は、やはりショックだったようだ。
「寂しくなっちゃうね。でも佐野くん、しっかりと目標があって羨ましい」
「お前はどうなんだ?」
「あたしはそろそろ結婚したいかな。子供を生んで母親になって、子育てに奮闘する人生を歩むんだろうな」
詳しく知っているわけではないが、美来は社内にいる年上の社員と交際しているという話は聞いていた。相手が誰なのか、部署の違う友紀は推測すらできない。社内恋愛はデリケートだ。根掘り訊くのも憚れる。
「そうなったら会社やめるか?」
少し考えて、美来は首を振った。
「たぶん辞めない。だってサラリーマンの給料なんて自分と似たようなもんでしょ。旦那さんの稼ぎだけで生活していけるとは思えないもの」
そう言って、クスクスと笑った。自虐とは違う。美来は美来で、そんな人生に夢や希望を抱いているように見えた。
「玉の輿なんて、望んでも仕方がないし。有り余るお金は魅力だけれど、わたしはやっぱり愛があればいい。大変だと分かっていても、平凡な生活がいいな」
友紀は思わず「フフッ」と笑みをこぼした。
「あ、なんか馬鹿にしたでしょ。ひどい…」
「いや、そうじゃないよ」
お前だって充分に目標を持っているじゃないか…。そう思って自嘲したのだった。佐野だけでなく、美来もまた急に遠い存在に思えた。
翌日も繰り返される仕事の日々。佐野の言葉が耳から離れない。
『俺はこの会社で終わるような人間にはなりたくない』
だったらこの俺はどうなんだ…。営業マンとしてキャリアをスタートさせて5年。ノルマを達成することだけに汲々とし、自らの将来なんて考える余裕もない。
「柿坂、ちょっと来い」
物思いに耽っていた友紀は、部長の澤田に肩を叩かれ、我に返った。
空いていた会議室に押し込まれると、そこには後輩の高橋の姿もあった。何を言われるのかと不安げな表情だが、部長からの叱責は友紀だけが標的だった。
「ぜんぜん成長しねえなお前。2年目の高橋のほうが使えるぞ」
いきなり比較級の対象にされて面食らったようだった。高橋は「そんなことはないです…」と照れながら否定していたが、表情にはまんざらでもない色がありありと浮かんでいた。
「期待されたルーキーだって、5年も二軍なら戦力外を通告されたって文句は言えねえだろ。柿坂、お前のこと言ってんだよ」
「はい…」
「昨日の日報、あれはなんだ。三件も取引先に行って、報告することは『何もありません』の一言か。そんな報告なら、うちの小学生のガキでもできる」
昨夜は佐野からの誘いがあって、日報を適当にやっつけたのだった。しかしそれが言い訳にもならないことは、友紀自身がよく分かっている。佐野からの誘いがなかったとしても、大した内容が書けたわけではなかった。
「その点、高橋の方がやる気もあるし、分析もきちんとできている。ただ闇雲に客先を回ったって、成果なんて上がらねえ。なんとか手を打とうと知恵を働かせてるんだよ。すぐにお前なんか抜かされるぞ」
思い出していた。友紀も2年目の頃、部長から同じように褒められた。成果の上がらない先輩社員の比較級として。
そして今、自分が発破をかけられている。社会人5年目。新人の頃と同じ仕事では認められない。そういう年齢になったのだと、改めて痛感する。
あの先輩はその後どうしたのだったか。度重なる部長の叱責に晒されて、いつしか姿を見なくなった。
後輩の同情するような視線が煩わしい。お前だって3年後は俺と同じ立場になるんだぞ…。得意げな高橋に、そう忠告してやりたかった。
転職するのか、この会社で出世を求めるのか。
自分は何がしたい? どうありたい?
住み慣れたアパートの部屋が、唯一心の落ち着く場所だった。PS4の美しいリアルなCGに没頭する。ゲームが特別好きというわけではない。現実逃避できるものであれば、何でもよかった。
強敵の大ボスと闘っている最中、スマホのLINEがメッセージの着信を告げた。高校時代の友人、河野からだった。
《今年も二十四期会やるってよ。お前もたまには顔出せよ》
二十四期会。友紀が高校時代に青春を傾けた、野球部の同窓会だった。野球部創立二十四年目の学年。毎年春に集まっているという話は、以前から河野から聞かされていた。しかし友紀は卒業以来、一度も顔を出したことはなかった。
《今年は綾香も来るってさ》
続けて送られてきたメッセージ。忘れていた淡い傷が胸の奥でチクリと痛んだ。
高校時代、お互いに惹かれ合いながらも実らなかった恋心。桐原綾香。野球部のたった一人のマネージャー。
告白はしなかった。だからいつまでも引きずっていた。大学に進学して上京してから、別の誰かと付き合っても、彼女のことは忘れられなかった。
それでも友紀は東京の暮らしを選び、綾香から離れた。
意味は分からない。ただ故郷のしがらみから縁を切りたかった。
“あの日見渡した渚を 今も思い出すんだ…。”
ふとアラームにしているDAOKOの曲が、耳の奥で鳴り響いた。
広島の駅を降りると、決まって鼻腔の奥に懐かしい匂いを感じる。お好み焼きのソースの匂いだ。呉線に乗り換え、呉駅に降り立つと、今度は潮の香りが街を包んでいた。
久々に会った綾香。結婚し一児の母となっていた。高校時代の若々しさはない。生活感の溢れる顔。でも充実が見えた。
「綾香ももう母ちゃんか」
「そう二歳。男の子じゃけん、手ぇ掛かって大変よ。でも高校で三十人の子供を相手にしとったから、全然大したことないけんね」
「それってわしらのことか?」
「当たり前じゃ」
少し離れた席から、そんな会話で盛り上がっている声が聞こえていた。チラリと視線を送ると、まるでそれを待っていたかのように綾香も視線を向けてくる。その度に友紀は目を逸らし、グラスのビールを煽った。
しばらくそんな時間を過ごしていると、友紀の隣の席が空いた。その隙をついて、綾香がすっとやってきた。
「久しぶりじゃね」
「まあな…」
「すっかり東京弁じゃね。元気にしおった? 少しやせたんやないの? ちゃんと食べとるの?」
母親みたいなことを言う…。そう言って友紀は笑ったが、綾香はじっと友紀の目を見つめていた。
「今も野球やっとるの?」
「野球?」
その瞬間、一気に記憶がフラッシュバックした。
汗と泥にまみれ、一心に白球を追いかけたあの頃。真っ黒な顔で、笑い涙した仲間の顔がそこにある。甲子園を望めるようなチームではなかったけれど、確かに夢を追っていた。だがそんなこと、すっかり忘れていた。
綾香はマネージャーとして、ただ一人の女子部員として、一緒にその夢を見続けていた。ひたすら野球だけに打ち込む友紀たちを、ずっと見守り続けていた。
「野球やっとる友紀が好きやった。輝いていた。カッコよかった」
素直に話す綾香の言葉が胸に突き刺さる。
時を経て、わだかまりも薄れた今だからこそ、相手に捧げることができた言葉には、魂が宿っていた。
「もしあのとき…」
俺が告ってたらどうした? 口から出そうになった言葉を、友紀は飲み込んだ。すでに吹っ切って、今の生活を選んだ綾香に何を期待するというのか。
綾香は口を膨らませ、「あほ」と声に出さずに言った。
「野球やっとる友紀を三年間、誰よりも近くで見れたけんね。その思い出が、今もここにあるんよ」
綾香は、大切な何かを大事に抱えるように、両手で胸を押さえた。
翌朝友紀は、東京へ帰る前に故郷の海を眺めに行った。防波堤と波消しブロックで囲われた海の先に、瀬戸内の島々が連なっている。
『今も野球やっとるの?』
昨夜の綾香の問いが、頭の中を駆け巡っていた。
「やっとるわけないじゃろ。そがん暇ないわ…」
呟いた言葉はしかし、瀬戸内の海風にかき消されて霧散した。
帰京してすぐ、押し入れにしまったままのダンボール箱を取り出した。大学の入学時に引っ越した際、押し入れの奥に突っ込んだダンボール。
「あった…」
そこに少しかび臭くなったグローブを見つけた。左手にはめると、革はだいぶ固くなってはいたけれど、手に馴染んだ感触は昔のままだった。涙が出た。
草野球でいい。野球をやろう。先のことはそれから考えよう…。
ちょっとずつでいい。何かを変えてみよう。そうすれば今日とは違う明日がきっと訪れる。そんな気がした。
5年目のルーキー 四万慧 @shimasato777
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