第9話:駄犬
◆◇◆◇◆◇
私はガラス戸を開くと、沓脱ぎ石の側に置かれた突っ掛けを履いて庭に出た。
「おい駄犬、それくらいにしておけ」
昔から、私の口調は変わらないものだ。私の言葉に、ちょうどよそを向いていた少年がこちらを見てびっくりした顔になる。
「な、なんだ貴公は!」
人のことを言えた義理ではないが、少年もずいぶんとかしこまった物言いだ。
どうやら、よそを向いていたせいで、私が家から出てきた所を見ていなかったようだ。駄犬から逃げるのに必死で、周りを見る余裕などなかったのだろう。冷静に考えれば、私が白梅の飼い主でありそうなことが分かるだろうが、今の少年の状況を見ればとてもそこまで気が回るとは思えない。
一方で、駄犬は少年に続いて大好きな飼い主まで出てきたことで、ますます盛り上がったらしい。ワンワンと吠えると、尻尾をなおいっそう振りながらこちらに向かって駆けてくる。憎たらしいまでのアホな面構えだ。
「あ、危ないぞっ!」
私にむかって走ってくる駄犬を見て、少年は転びそうになりながら必死に駆け寄る。
どうやら、私が襲われそうになっているように見えたらしい。つんのめった拍子に、少年がそれまで手に握っていた何かが地面に落ちた。恐らく、翻訳用の印紙だ。無我夢中で枕を抱いて火事から逃げる人のように、何気なく持ったそれを今までずっと握りしめていたのだろう。それに気づかず、少年は私と駄犬との間に立ちはだかると、両手を広げる。
「Yko Yken Kmoeu! Abaok ieugatd! Nokahonkio iuipy obpn ahresao uenizs!」
案の定、少年が何を言っているのか分からない。ただ、仕草を見るに、怖いのを我慢して私を駄犬から守るつもりらしい。たいした根性じゃないか。
「お座り!」
だからこそ、少年は私の一喝で白梅がその場に座り、こちらを期待に満ちた目で見つめるのを目にし、目をまん丸にしていた。
「君、悪かったね。こいつはうちの飼い犬だよ。ほら、お手!」
私が手を差し出すと、白梅はゆさゆさと尻尾を振りながら手を出す。いい子いい子、と頭を撫でてやると、今にも飛びついて顔を舐め回しそうな勢いだが、そうはさせない。
「こ、この猛獣は貴公のペットなのか!?」
ようやく印紙を拾った少年は、現実が信じられないといった様子で叫ぶ。
「ああ、そうだ。粗相をしてすまないね。こいつは見ての通り人好きで困る。これではまったく番犬にならない」
誰彼構わず吠えつくような番犬はごめんなのだが、渋面を取り繕って私はそう言う。
「く、食い殺されると思ったぞ!」
「そのわりには、私を置いて逃げなかったが?」
「……き、騎士の家の男児たるもの、女性を見捨てるものか!」
少年の言うことは何とも勇ましい。改めて少年の顔をよく見てみる。涙と少しの鼻水でやや見苦しいことをのぞけば、まるでビスクドールのようにきれいに整った顔をしている。白い肌なんて、まるで陶器そのものだ。遠目に見れば少女のようにも見える華麗さを秘めているけれども、よく見れば体格や顔の造作はやっぱり少年のそれだ。
「それは素晴らしい。よい心がけだ。だが、無意味だったようだね」
私が嫌みを言うと、むっとした様子で少年は顔を赤らめる。
「き、貴公はどうしてそう意地悪なことを言うんだ」
「悪いね、これが我が家の特徴なんだ」
さて、そろそろいったいなぜ彼が我が家の庭で白梅に追い回されていたのか、それを私が聞こうとしたその時だった。
「鈴、どうした?」
ちょうど父母が帰宅したようだ。枯れ木のような痩身と、それに寄り添う人影がやってくる。客人を連れてきたとのことだが、どんな人か……と私がそちらを見たのと同時に。
「おやおや、すっかり仲良くなっているようだね、アシュベルド」
父母の側に立っていたのは、これまた金髪碧眼のびっくりするほど背の高い男性だった。
「ち、違いますお父様! 僕はむしろ――――」
親しげに彼は少年に近づくと、肩を叩く。お父様? ということは、少年はどうやら我が家の客人らしい。御伽衆の家に西洋人が客として招かれるなど、ずいぶんと珍しいことがあるものだ。何やら両手を振り回して鼻息も荒く、少年は自分の身に降りかかった惨状を父親に説明しようと息巻いている。
「ええ、そのとおりです。騎士としての名に恥じない振る舞いを見せてもらえました。実に眼福ですね」
けれども、少年が我が家の駄犬を猛犬として表現し、ただ単にちょっと追いかけられたのを決死の逃避行と針小棒大に語る前に、私は先手を打つことにした。実際、面白いものを見せてもらった。
「え、ええっ!? いえお父様、そうじゃなくて――」
「ははは! そうかそうか。さすがは私の息子だ。父は鼻が高いぞ」
少年の言い分は聞き入れられず、彼の父は私の発言の方を真実と取ったらしい。なおも上機嫌で少年を誉めちぎる彼の言動に、少しずつ少年の機嫌も直っていく。私はその様子を、自分も仲間に入れて欲しいとうずうずしている白梅と一緒に、してやったりと見つめているのだった。
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