第7話:憧憬
◆◇◆◇◆◇
「もう大丈夫だ。安心したまえ」
昏倒したガレードが運び出され、それにミゼルが付き添っていくのを確認した後、アシュベルドは少年に声をかける。
「あ、ありがとうございます。ええと、お兄さんは……」
たどたどしく名を聞こうとする少年に、彼はほほ笑む。
「私の名はアシュベルド・ヴィーゲンローデ。血族と戦う月の盾を率いる者だ」
「は、はいっ」
少年はぎこちなく一礼する。少年の目にはアシュベルドが英雄のように見えるのだろう。
「貴公はなかなかの勇気の持ち主だ。よく、今まで泣かなかった」
彼の指摘に、少年はうなずく。
「……妹がいたから。あそこに」
少年がアシュベルドの後ろを指差す。そこにあるのは大きなクローゼットだ。その扉がゆっくりと開く。
「……おにいちゃん」
中から出てきたのは、少年よりも一回り小柄な寝間着姿の少女だ。今までずっと、クローゼットの中に隠れていたのだろう。少年の妹の目に見る見るうちに涙が浮かび、兄に縋り付いて泣き始める。ようやく緊張が解けたのだろう。少年もまた妹を抱きしめて泣く。今まで、恐怖のあまり泣いてしまうのを必死でこらえていたのだ。
「自分が泣けば、つられて妹も泣いてしまう。そうすれば血族に感づかれてしまう。だから、貴公は今まで涙を我慢していたのか」
強い家族愛をまざまざと目にし、やがて泣き止んだ少年にアシュベルドは告げる。
「私は貴公の勇気に敬意を払おう。勇敢なる少年よ。貴公の勇敢さと優しさに、月光の導きがあらんことを」
「――っていうことが少し前にあったんだ」
「ふむふむ」
今夜もまた、私はアシュベルドの傍耳として彼の話に耳を傾けている。今回は悩み事の相談ではない。ただ、最近あったことを語る世間話の類だ。
「正直に言っていい?」
「もちろんだとも。私は君の傍耳だぞ」
内心で少しだけ、私は身構える。これは……いつものが始まるな。
「じゃ、じゃあ――あれは我ながら百点満点だったね!」
「左様か」
拳を握りしめるや否や、彼は熱っぽく早口で語り始める。
「絶体絶命の窮地に颯爽と現れ、失態を犯した部下を激励し、しかも健気な家族愛に敬意を払う。どう? 厳しさという料理の中に優しさというスパイスをきかせた、まさに月の盾長官として完璧な振る舞い! 決まったな!」
これが「いつもの」である。人心とは実に複雑怪奇。アシュベルド・ヴィーゲンローデの心思は、相反する要素が複雑に絡み合ったモザイクの様相を呈している。気弱で小心者の内面と、それを隠すために冷徹かつ傲慢で武装された外面。しかしながら、同時に彼はかなりの見栄っ張りで、明らかに時折格好良く装った自分に酔っている節があるのだ。
「……君のその自己陶酔の気について、今はあれこれ私は言わないがね。しかしその真綿は少しずつ、君の首を絞めていると知りたまえ」
彼は目立ちたくない、と普段から私の前で口にしている。しかし、同時に明らかにわざわざ目立つことをしては、周囲の賛嘆の視線に怯えつつ胸を躍らせているのだ。いやはや、実に業が深い。だが同時に、実に興味深い。
「そ、そうかな?」
「君がそうやって格好をつければつけるほど、大総帥の座は確実に近づいているぞ」
私が警告するのはそのことだけだ。
「でも、あの男の子には感動したのは本当だよ。俺が同じ年で同じ状況だったら、とてもあんな風に勇敢には振る舞えないな」
「なるほど、ならば化粧部屋に隠れていたのが、私だったらどうかな?」
「鈴が?」
私がいたずらっぽくそう言うと、彼は目を丸くした。
「そうだ。いたいけな少女だった頃の私が、君の家を訪れていた時、血族に襲われたのだよ。それでも君は、我が身可愛さに私を血族に差し出して助かろうとするのかね?」
「そ、そんなことは絶対にしない!」
「さすが月の盾長官。やはり君は勇敢だよ」
私の賛辞に対し、彼は少し困った顔をする。
「いや、そうじゃなくて……」
やや言い淀んでから、彼は思いきった顔で私を見る。
「月の盾とは関係なくて、俺は鈴を見捨てたりしたくないんだ。俺個人として、鈴のことは守りたい」
「……光栄だね」
私の頬が少し赤くなったのが、彼に分かってしまっただろうか。まったく美形は得だよ。陳腐な言葉でも、この御伽衆の心をざわつかせるのだからね。
一方その頃。少年は寝付けないでいた。今両親は、月の盾と繋がりのある病院で治療を受けている。少年と妹は親戚の家に引き取られ、両親が退院するまではそちらで寝泊まりしていた。少年は隣で寝ている妹を起こさないようにそっと起き上がると、窓を開ける。空にかかるのは、神秘の象徴であり、闇を優しく照らす白い月。
「アシュベルド・ヴィーゲンローデさん……」
少年は彼の名を、まるで聖人のように呟く。口にするだけで、胸が高鳴っていく。黄金の鷹。親戚に教えてもらった、彼の称号。自分はあの、黄金の鷹に誉められたのだ。自分も是非、あの方のお役に立ちたい。あの方の側に立ちたい。
――この出会いが、後に少年の将来を月の盾へと導くのであった。
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