第5話:敵性
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月が満ちていく。少しずつ満月へと、空にかかる月の形状は変わっていく。満ちて欠ける月。それは二面性、不安定、曖昧、変化と流動の象徴。故に月は古来より狂気と関連づけられ、魔物たちは月の盈虚に強く感応するとされてきた。それは単なる迷信ではない。ヒトの血中に潜む線虫たちの行動パターンは、確かに月の満ち欠けとリンクしている。
「何も怖がらなくていいんだよ」
月明かりの照らす静まりかえった室内に、一人の男性の声が響く。この家の住人の声ではない。それどころか、住人の親戚でもなければ、隣人でもない。赤の他人の声だ。
「怖いことなんて一つもないんだ」
不気味なまでに落ち着き払った声だ。話しかける相手に対し、慈しんでいるかのような感情さえ見受けられる。
だが、室内の状況を一目見れば、彼に慈しみの感情など何もないことが分かるだろう。部屋の片隅で縮こまり、怯えた目で男性を見つめる少年がいる。まだ年齢は十代前半だろう。寝間着のままがたがたと震える少年に対し、男性はにっこりと笑ってみせる。
「最初はちょっとだけ痛いけど、注射みたいなものだからさ」
少年の目が、開きっぱなしになったドアに向けられる。そこを通れば玄関にたどり着き逃げられるかもしれない。だが、ドアと自分の間には、男性が立ちはだかっている。そして外には、彼の両親が倒れている。いずれも首筋からわずかに血を流し、その体はぴくりとも動かない。少年は知っている。この凶行の原因は、目の前の男性だということを。
「俺だって最初は怖かったさ。安心した?」
男性はなおも笑いかける。四十代程度の、特徴のない男性だ。どこにでもいる一市民、といった風体でしかない。だが、今彼の血中には線虫という異質な蟲が蠢き、その行動を操っている。彼のような線虫に感染した人間を、血族と呼ぶ。そして古くは、ヴァンパイア、と呼んだ。
「なんて言うか、頭が二つあるみたいなんだ。今まで以上にスッキリして、ハッキリして、クッキリする」
線虫は宿主である人間の行動をある程度操作する。仲間を増やすために、宿主を駆り立てる。そして同時に、宿主を保護するために様々な恩恵も与える。古来よりヴァンパイアが超常の能力を有するとされるのは、決して無知蒙昧な迷信ではないのだ。
「体験すれば君も分かるよ。今なら言える。俺たちが自動車なら、人間なんてよぼよぼのロバ同然だ。速さが違うんだよ、速さが」
男性は言いつつ、少年に手を伸ばす。少年は目を限界まで見開いて怯えの表情をはっきり顔に出しているが、それでも決して泣こうとしない。
「じゃあ、そういうことで。改めて血族に――兄弟になろうじゃないか」
男性の口から、犬歯の変化した乱杭歯がかすかにのぞいたその時だ。背後に気配を感じたのか、男性が電光石火の勢いで振り向く。
「誰だッ!」
照らされる強力な光に、男性と少年が目を細める。無骨な懐中電灯を片手に、一人の眼鏡をかけた女性が彼に拳銃を突きつけていた。黒いタイトな制服の胸元には、月の描かれた盾のエンブレムがある。
「ガレード・シュページン。あなたを潜血症感染と判断し月の盾が保護します」
女性の名はミゼル・オリュトン。対血族対策機関『月の盾』の構成員である。
「――――そうか」
ガレードと呼ばれた男性の顔から、笑みが消える。表情の一切が消えた昆虫のような顔で、彼は跳躍し、壁を蹴り、頭上からミゼルに襲いかかる。
昆虫の牙のように突き出された両の手を、ミゼルは転がって避け、次いで発砲する。だが、人間ならばなすすべもなく両脚を貫かれたはずのその弾丸を、見えているかのようにガレードは回避した。
「遅い、遅すぎるんだよ」
表情が変わらないのに、口だけが独立して動く不自然な動作だ。
「いいえ、遅いのはあなたです」
ミゼルの言葉と共に、銃声がガレードの背後、窓の外から聞こえた。割れるガラス。足を撃たれ倒れるガレード。ミゼルが発砲したのは、外にいる狙撃手が撃ちやすい場所まで彼を誘導するためだったのだ。
「くそっ!」
線虫にとって致命傷となるルーンを刻んだ弾丸で傷つけられ、ガレードは呻きつつもなおも跳び、部屋の隅にいた少年を捕らえる。
「う、動くな! 近づいたら、こいつの首をへし折ってやるぞ!」
少年を人質にし、ガレードは吠える。
「武器を捨てろ、早く!」
線虫に操られているとは言え、血族は人間の知性も持ち合わせている。線虫の衝動と、人間の狡猾さ。この二つを平然と両立させて使い分ける故に、血族は人種の天敵として恐れ忌み嫌われているのだ。
「チェックメイトです。この建物は私たちが包囲しています。逃げ場なんてどこにもありませんよ」
油断なく銃口をガレードに突きつけつつ、ミゼルは告げる。
「はったりはやめろ!」
「はったりではありません」
「嘘だ!」
頭ごなしに自分の意見を否定され、だんだんとミゼルの顔付きが変わってきた。冷静さのメッキが剥がれていくのが、見ていて分かる。
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