第3話
「…とまぁ、これがさっき経験したおかしな話だよ。」
校舎裏でのエピソードを話し終えた僕は、コーヒーをすすりながらマスターの反応を待つ。
するとマスターは何やら考え込んだ後で、ゆっくりと口を開いた。
「前々から思ってはいたんだけどさ、涼ちゃんってマザコン気味だよね。」
その言葉を聞いて僕の頭の中に疑問符が浮かぶ。
マザコンっていうのは、もっと母親にべったりくっつくものじゃないのか?
「マザコンじゃないと思うけどなぁ。」
僕は自分が思ったことを素直に口に出す。僕には母に甘える時間なんてないから。
困らせてしまうだけだから。
「いや、人生48年でいろんな人間とかかわってきたからこそ言える。涼ちゃんはマザコンだね。」
いやいやそれはないだろうと口に出そうとすると、マスターはこう続けた。
「さっき涼ちゃんが話してくれた子、翔君だっけ?彼も言ってたと思うけど、涼ちゃんは見てる世界が狭すぎるよ。」
「狭いも何も、僕はこの世界で十分だよ。」
自分の世界なんてそんなものじゃないのか?親を困らせない。それだけでいいんだ。
「マスター、何度でもいうけど僕は…」
僕が言いかけると、マスターが待ったをかけ諭すような瞳で僕に語りかける。
「いいかい涼ちゃん。人生っていうのはね、70万800時間なんだ。」
「どういうこと?」
「人間が80年生きるとして、それを時間に直した数字さ。長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだけど、平均すればこのくらいの時間になる。」
だから何だというんだ。僕の脳裏に浮かんだ言葉をかき消すようにマスターは続ける。
「涼ちゃんはまだ、その時間の1/4も生きてないじゃない。でも君のお母さんは違う。涼ちゃんの倍は生きて、そのうちのいくつかの時間を使って涼ちゃんを育ててるわけだ。」
「だから長く生きてる母さんを困らせたくないんだ。」
当然じゃないか、親は正しい。いつだってそうじゃないか。
「でもね涼ちゃん、人間っていうのは間違いを犯すものなんだ。涼ちゃんだって間違えてきたろ?その倍近く生きてる僕や君のお母さんは、もっと間違いを犯してきてるわけだよ。」
「それは、母さんが間違ってるって言いたいのか?」
少し怒気を帯びた声でマスターに詰め寄る。それでもマスターは、その瞳でまっすぐ僕を見つめて続けた。
「そうとも言えるね。間違いを犯さない人間なんていないよ。ありきたりなセリフだけど、人間は間違えるから強くなれるんだ。もちろん涼ちゃんもね。証拠にほら!」
そういって両手を広げて、自信たっぷりにこう続けた。
「僕はたくさん失敗してきたよ。でもだからこそ成功もしてきた。今日涼ちゃんにふるまうメニューもね。」
そう言ってマスターはカウンターの上を指さした。
そこには、いつの間にか新メニューであろうパスタが置かれている。
「食べてみてよ。」
マスターに促され、僕はそのパスタを口に運んだ。
「…おいしい。」
「でしょ!今回のは自信作なんだ!あーよかったぁ。これで美味しくなかったらかっこ悪いからなぁ。」
マスターの新メニューにしてはおいしい。いつもは失敗続きなのにどうして今回は…
「…ぁ」
思わず声が漏れた。僕の心の奥にある何かに、触れた気がする。
それを見越したかのように、マスターは口を開いた。
「なにかつかんだかい?それとも引っかかった?」
「多分、引っかかったって表現の方が近い気がする。それが何かはわからないけど。」
「答えは自分で見つけるべきだからあえて言わないけど、失敗は成功の元って意味が心の底から理解はできたと思うよ。」
僕は何かを見落としてるぞ…
今、そのかけらに触れた気がする。
「話を戻そうか。つまり何かを学ぶっていうことは自分の世界を広げる事なんだ。失敗を恐れちゃいけない。」
これ以上はあえて言わないよ。
マスターは最後にそう付け足して、この話を閉めた。
「でもマスター、僕はわからないことが増えた。モヤモヤが、広がった気がする。」
「それがきっと学びにつながるって、僕はそう思ってるけどね。」
僕は何を学ぶべきなんだろうか。漠然とした疑問を浮かべながら、僕は店を後にした。その時にマスターがつぶやいた言葉が、僕の耳には入ってこなかったんだ。
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外はすっかり暗くなっており、夕立でも降ったようで道路には小さな水たまりができていた。
僕は母さんを困らせたくない。自分の世界を広げるには失敗するしかない。でも失敗すると母さんを困らせてしまう。だから僕の世界は広がらない。
どうすればいいんだ…とつぶやいきながら雨上がりの夜道を歩く。
溶けた月が、憐れむように僕を見つめていた。
その視線に、この時の僕は気づけなかったんだ。
愛飢えたゆえの青い春 @Shou_K
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