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すべての荷物を運び終えた。あまり荷物もなかったので引っ越しをするにはそこまで困るようなことはなかった。

 

「では、こちらにサインを願いします」

 

引っ越し業者さんの伝票にサインをする。「ありがとうございました!」そう言って業者さんは帰っていった。

 

私は、思い切って幸子さんが前住んでいたアパートの一室に引っ越して一人暮らしをすることにした。それも思い切った決断だとも思ったが、他の人に住まわれてしまうなら、という思いもありここに引っ越してきた。

 

つい前日までは別の人が住んでいたらしいが、運よく引っ越したらしい。問い合わせたタイミングがちょうどよく、空き家になったということもあり、引っ越しの手続きもスムーズに終わった。

問い合わせをした際、アパートの管理会社の看板から連絡をして、空き家であることと入居できるかの連絡をするときに不思議なことを聞かれた。

 

「ちなみに、こちらのアパートにこだわる理由は?お客様の勤め先からは近いけど、もうちょっと近くでも十分いいんじゃないんですか?もしよかったら物件探しましょうか?」

「いえ。ここがいいんです。ここ、私の高校生の頃から見てるあこがれの場所ですから」

「そうですか。なら。実はこの物件、ちょっと悪い噂が立った部屋でなかなか借り手が見つからなくて困ってたんですよね」

「そうなんですか。ちなみに「噂」というのは?」

「ああ!ごめんなさいね。契約した後に言うのもおかしい話なんだけど。亡くなったとかそういのじゃなくて。ここ。数年前に住んでいた住人さんがね、ほら、アパートから見える中学校あるじゃない。あそこの先生なのかは詳しいことはわからないんだけど、そこの愛人だったみたいでね。この部屋が隠れた愛の巣だったって・・・ってごめんね。あくまでも噂だから」

「いえ。実は噂はだいたい知ってるんです。でも、ここに住みたいんです」

「知ってるならよかった。ただし、気を付けてね。お祓いとかしてるけど、ここ、本当に気を付けた方がいいから。」

 

そういって管理会社の人に言われた。

 

何も気にすることはなかった。もともと知っているのだから。それに、知られる原因を作ったのも、私だ。




ベランダからは、中学校が見える。見下ろすと、昔の帰路が見える。ここからの景色ではない。幸子さんは、踊り場から見ていたんだ。

 

引っ越し業者さんにも差し入れをしたドーナツをもって、踊り場に出た。そこから見える景色は、やはり幸子さんが見ていた景色だった。

 

ドーナツを食べて、この景色を見ることが高校の時の興味そのものだった。そこからだんだん幸子さんに興味の目が行った。

 

その青春を思い出しながら踊り場でのドーナツを味わう。

 

ドーナツ。手にしているドーナツは、オールドファッション。

 

純粋で、素敵、素直なドーナツ。

 

このオールドファッションの意味を、幸子さんの心境と照らし合わせながら、ドーナツを食べ続ける。

 

半分食べたドーナツを見て、やはりシンプルなフォルムであることに安心感を抱く。

 

私は、このドーナツが「私」と同じだと思っていたんだ。

 

それは自然と湧いて出てきた言葉で、自分の「願い」でもあった。

 

自分がオールドファッションであること。それがごくごく当たり前のような、空いたパズルがくっついたようなそんな感覚。

 

だから、その偶像のような例えに、何の疑問すら湧くことがなかった。

 

だが、自分が「傲慢」であること。「嘘」に拘っていたこと。そんな自分がオールドファッションのようなシンプルな人間ではないということぐらいわかっている。どこでどういう風に自分がオールドファッションと同じだったというのか、自分に問い続けたいぐらいだ。

 

私は、オールドファッションに「なりたい」そう思っていたんだ。

 

ならあの時幸子さんは、どういう思いでこの場所で、この景色を見ながら、ドーナツにどんな思いを寄せていたんだろう。

 

オールドファッションとエンゼルクリームの違う想い。

 

それが、私の今の疑問であり、自分への課題でもある。




踊り場の柵に手をかけ、自然と涙がこぼれる。

 

何度も何度も、踊り場に足を運んではドーナツを食べて、ドーナツを想い、自分に語り、試行錯誤してまた、涙をこぼす。

 

気づけば、私は幸子さんと同じぐらいの年齢になっていた。年齢を重ねるごとに、毎日踊り場に行くごとに、想いは一層強くなっていく。

 

ここから見える景色が、何の答えを見せてくれるかはわからない。けれど、自分が少しでも幸子さんに対して「懺悔」をしたい。そのためにもっと知りたい。そう思っていた。

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