六、愛を語る女
1
大学進学が決まって、高校生活も残すところあと数か月となったときも、いつものようにあのアパートの前を歩き続けていた。
いつもの売店で買うドーナツをしっかり残して鞄に入れておく。幸子さんがいつものように中学校を見ている様子を観察することは、私の日課になっていた。
今日もいつものようにドーナツを持って歩く。幸子さんがいつものように踊り場でドーナツを食べながら中学校を眺めていた。
幸子さんはこちらに気づき、手を振ってくれた。
私も、手を振る。すると、私の身体に中学生がぶつかってきた。その拍子に手に持っていたドーナツを落としてしまった。
「あ、ごめんなさーい!」
ぶつかってきた中学生が私に走りながら謝罪し、その場を去った。
地面に落ちたドーナツを眺めた。なぜか虚しく思えた。
このドーナツは、私にとって特別なアイテムだった。そのドーナツを一口しか食べていないのに。かじった跡をじっと見つめ、涙を浮かべた。
いや、まだいける。三秒ルールだ。ドーナツを拾おうとした。
「こら!落ちたもの食べちゃだめよ!」
幸子さんが降りてきて注意してくれた。
「でも・・・」
「高校生になってドーナツで泣くんじゃない」
呆れたように笑う幸子さん。
「こっちおいで」
そういって幸子さんはアパートに戻っていった。手招きをされ、そのまま幸子さんの部屋に入った。
初めての幸子さんの部屋。鼓動が止まらない。
幸子さんの部屋は、味気ないと言ったら悪口になるが、シンプルなインテリアで、ごちゃごちゃしたようなものは飾っていなかった。
「そこ、座ってな」
リビングのソファーに座る。座り心地がいい。
幸子さんは、キッチンで何かをしている。
この部屋は日当たりがよさそうだ。リビングには大窓があり、そこから中学校が見える。日差しも綺麗に注ぎ込み、リビングでお茶をする時などにはリラックスできそうな空間だ。
そう思っていると、机にお茶とドーナツを用意してくれた。
「さ、私のドーナツ食べな」
「ありがとうございます」
なんということだ。ドーナツを落としたという不運は奇跡に変わった。幸子さんがいつも食べているドーナツを、ここで一緒に食べることができる。しかも、お茶まで。
嬉しくて、その場で食べるのがっもったいないぐらいだ。だけど、せっかくいただいた幸子さんのドーナツ。腐らせるわけにはいかない。
手に取って一口、ドーナツを食べた。
「それ、私が好きなオールドファッション」
これが、幸子さんのドーナツ。
「近くのドーナツの店で買うのよ。味気なくてシンプルだけど、それが一番好きなの」
なんて無垢な、ドーナツなんだろう。
「おいしいです。本当においしい」
「でしょ?!」
幸子さんも同じドーナツを食べた。
「よく行く店で、いろんなトッピングしてあるドーナツが人気なんだけど、私はこのドーナツが一番好きなんだよね。なんか、「本当のドーナツ」って感じじゃない?」
確かに。このドーナツは見た目も中身もシンプルな、誰が見ても「ドーナツ」と言えるもの。今、お菓子でもいろいろな組み合わせをして作られているドーナツを見ているけど、このドーナツはドーナツという執念を貫いている。
「これくらい、自分がシンプルに生きれればいいんだけど」
幸子さんは、ドーナツを見てつぶやいた。
「幸子さん」
「うん?」
「幸子さんは、いつも何を覗いているんですか?」
幸子さんのドーナツを食べることができた感動の勢いのままに、幸子さんに抱いていた長年の疑問をぶつけた。
「・・・」
「あ、あの他意はないです。ただ、いつも幸子さんが何をしているのかとか、何を考えているのかとか、そういうことが知りたかっただけで・・・。すみません」
幸子さんの顔が直視できず、下を向いてしまった。何て質問をぶつけてしまったんだと後悔ばかりが先走る。幸子さんを困らせてしまった。幸子さんに嫌われてしまった。後悔が先走り、体中に熱を感じた。
「このドーナツと関係があるっちゃあるかな」
幸子さんは言葉を選ぶようにゆっくりと語りだした。
「このドーナツに出会ったとき、なんてシンプルで美しいんだろうって思ったの。手に取って食べたとき、なんて「ドーナツ」らしい味をしているんだろうって思ったの」
ドーナツを一口かじり、幸子さんはたべながら語り続けた。
「だから、このドーナツを持って眺めていると、自然と勇気が出てね。「あなたは間違っていない。」「あなたは愛を貫いている。「その迷いは正しい方向にいくよ。」って語ってくれるような気がしてるんだよね」
幸子さんが抱えている問題と、ドーナツとの関係性。何を思ってその場所を見つめているのか。ずっと抱き続けていた疑問を紐解くようにして、幸子さんは今までのことを話してくれた。
「中学校の方を眺めているのはね、そこに私の大好きな人がいるからなの。監視とかじゃないわよ。ただ、このアパートからだと、その大好きな人が見えるじゃない。だからここに住んで、ずっと見てるの」
幸子さんの好きな人は、あの中学校の中にいる。それでいつも見ていたのか。
「でも、そういう行為も気持ち悪がられるかなって思って自信はなかった。だからドーナツを見つけてからは、ドーナツに励まされながら見てるって感じ」
幸子さんは、この悩みを誰にも言えなかったのだろう。毎日アパートから人を覗く行為を、一般社会では不審者だと定義される傾向がある。普通の人が行うことではない。だけど、幸子さんが覗いていることに深い意味がある。私にはその観点さえあればその行為も肯定的にとらえることができた。
「私はいいと思います」
心から、その言葉を幸子さんに告げた。
「幸子さんがいつも見ていることがずっと気になっていたんです。大好きな人を見ることに、何の偏見があるかって、それはただの「一般論」だと思うんです。私は少なくとも、意味を知る前から普通の行動じゃないとか、変質者とか、そういう否定的な考えで見たことは一度もありませんよ」
幸子さんは、目にいっぱいの涙を浮かべて泣いた。ワンワンと大声を出して泣いた。それほどまでに辛かったのだろうか。私ももらい泣きした。誰を見ているかとかどんな人が好きなのかとか、そういう詳細は聞かなくても、少なくとも幸子さんは大好きな人を見ながら何か闇を抱えている。そんな気がしてならなかった。
「ありがとう。想いを打ち明けてよかっ」
幸子さんが泣き止んで落ち着くのを待って、私はお礼をしていつもの帰路に就いた。
幸子さんのいつもの行為が、私の思った通り「純粋」な想いで成り立っていることに喜びを隠しきれないほどに躍動した。
道を歩く足取りは軽く、幸子さんをもっと知りたい。その想いが強く強く湧き出てくる。
でも、幸子さんが話すときでいいや。無理はしない。だってまだ大学生になってもたくさんこの道を歩くのだから。また、幸子さんに会って、いろいろおしゃべりをして、ドーナツを食べて語る。その繰り返しの中で幸子さんを知ればいい。
そんなのんびりとした時間を過ごせることにも、将来への期待が膨らむばかりであった。
携帯のバイブが鳴る。
「今学校終わったんだけど、一緒に帰らない?」
聡さんからのメール。私は電車に乗り込んだ。
こいつは、別れて尚連絡を取ってくる。しつこい。
「もう帰った」
嘘の塊よりも、純粋な人との時間を過ごしたい。あなたなんてどうでもいい。別れるエネルギーを使うことも勿体ない。速攻返信をして、すぐに形態の電源を落とした。
幸子さんを少し知ることができてから、その幸せが私の中での優先順位の首位に立った。もちろん、あの光景を見てからも幸子さんが優位に立っていたのは間違いなかったが、一度裏切りを知ってしまった相手を順位に参加させることが幸子さんに失礼だと思った。
だから、もう時間を作らない。適当にあしらう。
奴はゴミくずだ。
そうきっぱりと思えた。まるで小学校の頃の母だった女のような扱い。それと同等の扱いが妥当だと、私も心穏やかに整理することができた。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日はみんな早く帰ってきてるわよ」
「そう」
“それ”とまで言わないが、家族はあの日以来ゴミより上の嘘つきだ。
弟を覗いて。父と新しい母は、私に嘘を貫き通してきた嘘つきだ。
二人も、私の中では除外した。ゴミくずとまではいかないが、もはや順位をつける枠ではない。除外だ。
部屋に戻る。机の上に手帳を広げ、手帳の後半のページにあるフリースペースにたくさんの嘘を記すために、優先順位と除外の一覧を書き上げていった。
こうして人を整理する。自分の中で「いらない」と思う人を上げていく。
それが、私のもう一つの日課になっていた。
このメモを見られないように、鞄の中に手帳をしまうことも癖付けよう。
幸子さんがいる私の中の世界。素晴らしい世界。いらない人を優先せずに除外する世界。
素晴らしい。素晴らしい。
にやけが止まらない。
高校生の青春を、幸子さんに捧げたい。大学生になっても、社会人になっても、ずっと傍にいて、どんどん新しい幸子さんを知りたい。パソコンのように、すぐに新しいデバイスにアップグレードするように、綺麗な無垢な幸子さんを知りたい。
私の興味は、どんどん膨らむばかりだ。
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