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 ある日の仕事。私はあるまじき凡ミスをする。

 

 部下の入力ミスが発覚した。後に請求書の数字にミスが発覚したのだ。

 

 まあ、それほど大きい金額にはならなかったのが不幸中の幸いだった。失敗してしまったのは、本田さんだった。

 

 「谷口さん、本当にすみません」

 

 いつもポジティブに接してくれている彼女が、青ざめた様子で謝罪してきた。

 

 「いいよ。これから気を付けてね」

 

 実際にミスをしてしまった請求書の数字は次月で清算できる。何より普段から私に明るく接してくれる本田さんをカバーするのも私の本意でもあるし、直属の部下をフォローする管理職の責任もある。

 

 「大丈夫。そこまで大事じゃないから。私が何とかしておく」

 「・・・ありがとうございます」

 

 本田さんは下げた頭をあげたものの、視線は下方を向けたまま。相当落ち込んだ様子で凹んだまま自分のデスクに戻っていった。失敗をすることはどの人にも良くある話だ。仕事の休憩入ったあたりで慰めるか。

 

 課長という役職に就き、直属の部下が増えてからは部下とのコミュニケーションを取るよう心掛けている。これも自分の成長過程としては良い傾向なのか。

 

 いや、三十代のいい年した女が何を言っているんだ。

 

 自分が嫌になるけど、この瞬間だけは自分を貶していることが楽しく思えた。

 

 昼休憩に入る最中、先ほどの本田さんの処理を集中していたこともあり、昼休憩で本田さんが席を外していたことを気づかなかった。

 

 声かけそびれた。もしかしたらどこかで一人で食事を摂っているのかな。

 

 席を立ち、オフィスを出てあちこちの休憩室を探しに行く。本田さんは毎日お弁当を持ってきているのでどこの場所にいるかは絞れる。

 

 「きゃははは」

 

 昼休憩中の女性の笑い声は耳に残る。同じ女性でも、あんなに声を張って休憩を楽しむエネルギッシュな姿は「たくましい女性」を象徴しているかのようである。

 

 尊敬の意を持ち眺めていると、その女性グループの中に本田さんがいた。

 

 さっきまでの姿とは打って変わりいつもの明るく笑顔の溢れる本田さんの姿があった。周りの女性に元気づけられたのか。少し寂しいけど、あの姿を見て私も一息つける気持ちになった。

 

 安心してその場を離れようとした。

 

 「でさでさ、能面課長、最近どうなのよ」

 

 足が止まる。

 

 「能面課長って誰のこと?」

 「え?知らないの?!本田ちゃんがいる営業二課の課長だよ。谷口さん」

 

 女性陣が、どっと笑う。

 

 「ぶはっ!能面課長って!マジでウケるんだけど。誰よそんなニックネームつけたの」

 

 ゲラゲラと笑う女性陣。私はその場で硬直したまま動けなくなってしまった。

 

 「私だよ」

 

 聞き覚えのある声で、申し出たのは本田さんだった。

 

 「だって、笑わないし怒りもしないし、普段何考えているかわかんないし。今日だって仕事ミスったんだけど、顔色一つ変えずにカバーしてさ」

 「何々?それっていい上司じゃん」

 「違うよ」

 

 本田さんは、机にガンと音を立ててタンブラーを置いた。

 

 「あれ、ただの仕事できるロボットみたいなもんじゃん。どれだけ話しかけても笑わないし。こっちが無理っていうか」

 

 また女性陣が笑う。もう、先ほどの女性陣が「たくましい女性」という表現よりも、私の中では「ただの声を張り上げる塊」という認識になっていた。

 

 「でさ、この前」

 「・・・?!ちょっと!!!」

 

 一人の女性が、立ち尽くす私に気づいた。周りの女性は「何々?」とその女性の指先を視線でたどる。さっきまで笑っていた声も徐々になくなる。本田さんは、さっきまでオフィスで見せていた顔よりも真っ青になっていた。

 

 「あの・・・谷口さ」

 「お構いなく」

 

 本田さんが何か私に言いだそうとしていたが、何を伝えたいのかも知ることに興味がわかなかった。

 

 もう、塊に興味はない。さっきまでの感情は捨てた。もう、私の興味を抱くものの対象外となった。

 

 その場を立ち去る。背を向けている先から「待ってください!」声がする。でも、同じ同性だからこそわかること。今から私の姿が見えなくなったら同じことをするだろう。

 

 だから余計、興味がなくなったのだ。

 

 自分が一生懸命やってあげたとか、可愛がってあげたとか、そんな見返りを求めた精神論はどうでもいい。

 

 ただ自分が興味すら湧かなくなってしまったのだ。

 

 それが、「何が」原因で起きているかがわからないのだが。忽然と姿を消すように、興味が私の中からすっぽりとなくなってしま他人とのかかわりを持たなかった自分が、「他人」に対して興味を持つことを「魅力」があると認識するなら、その「魅力」が失われる原因はどこにあるのだろう。


 過去をさかのぼっても、なかなか解決に行き届かない。

 

 「課長!」

 

 デスクに戻って座り、仕事に没頭していたまま、部下の声に気づかなかった。

 

 「本田さん、早退するってさっき言ってましたよ。聞いてました?・・・なんか課長上の空ですよ。体調悪いです?」

 

 心配そうに尋ねる部下。本田さんが来たことすら全く気付かなかった。

 

 「教えてくれてありがとう」

 

 まあ、それすらももう心を痛めることはない。ただの塊の一部に何を言われても、こっちは何も理解できないし興味がないものと話したくないのだ。

 

 はっきり言って、どうでもよくなった。

 

 本田さんはその後、姿を一度も見ることがなく退職していった。

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