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 「ごめんね、今日ドーナツないの」

 

 購買のおばちゃんが言う。

 

 「あー、いつものドーナツないんだ。奈子ちゃん残念」

 

 加奈子ちゃんが慰めてくれた。

 

 

 高校一年生からずっと同じものを買い続けていることもあり、購買のおばちゃんが私の購入するものを覚えているのも無理はない。少し残念だったが、代替えの商品も見当たらない。あきらめることにした。

 

 そしていつもの帰り道、中学校が見えてきたあたりで鞄からドーナツを取り出そうとした。

 

 「あ、今日なかったんだ」

 

 いつもの習慣となったものが、今日はないという現実。少し寂しい思いと、ドーナツがないという不安感。

 

 この道を通るときは、ドーナツを食べながら歩く。

 

 という自分の習慣が、いつしか

 

 この道を歩くには、ドーナツがないと。

 

 という考え方に変わっていた。

 

 何の変哲もない道なのに、今日はドーナツがないだけで、緊張が走った。足取り重く、その道をゆっくりと歩く。少しずつ歩くと、いつもの女性も見えてきた。恥ずかしい気持ちに苛まれる。まるで、学校に忘れ物をしてしまったような、そんな気分。

 

 下を向き、いつものように中学校を見ることもなく、ただ「恥ずかしい」その恥じらいの気持ちがよぎる。

 

 「ねえ」

 

 頭上から声が聞こえた。ふいに、声の先に視線を上げた。

 

 女性が、こちらを見ていた。いつも中学校を見ていた女性が、こちらを見ている。その光景があまりにも珍しく思えて、足を止め、女性を一転集中していた。

 

 「ねえ、あなた」

 

 私の方を見て話しかけてくる女性。視線が合う。その瞬間「あ、呼ばれているのは私だ」ようやく気づいてもらえたことに嬉しく思えた。

 

 「今日はドーナツ食べてないじゃん」

 

 綺麗な笑顔を見せて、こちらに話しかけてくる女性。私のことを見てくれていた。気づいてくれていた。胸の鼓動が止まらない。

 

 「今日は、買えませんでした」

 「そうなんだ。つい珍しいなと思って声かけちゃった」

 

 無邪気に笑う。女性が持っている食べ物も、下から見上げてようやくわかった。種類はわからないけど、同じドーナツだ。

 

 「ずっとここ通るとき食べてるよね。同じもの食べてるからびっくりしちゃった」

 

 また、笑顔を向ける。

 

 「ドーナツ、好きなんです!」

 

 大声で叫んでしまった。話しかけられたことが嬉しくてつい。

 

 「同じだね」

 

 そういって女性は笑う。

 

 この一年弱、地道な作業がつづいたが、まさに「継続は力なり」とはこのことか。

 

 「じゃあ、気を付けてかえりなよ」

 「はい、ありがとうございます」

 

 手を振ってくれた。嬉しかった。頭を下げて、その場を後にした。

 

 今日という日が、私にとっての最高の記念日にもなりそうだ。さしずめ「ドーナツの日」と命名づけても他言ではない。

 

 歩きながら手帳を出し、ペンを取り出して書き込んだ。

 

 駅に着き、ホームで電車を待つ。

 

 先ほどの女性との会話のやりとりを、思い出して幸せな気分に浸った。

 

 よくよく考えてみれば、最近人と会話をするときに楽しいと思えたことはほとんどなかった。いや、最近どころか生まれてから人と会話をして楽しいと、心から思えることもなかった。人とかかわることを恐れていた。

 

 それが、自ら興味を持った人ができて、その人と関わりたくて、必死に努力をしていた自分に驚きを隠せなかった。

 

 こうやって自分を分析して、こうやって理性をもってしてでないと、この一年弱自分が何をやっていたのかがわからないほどに行動には理由もなかった。

 

 ただ、あの女性のことが気になって気になって。

 

 そう思うと、なんだか今日という日がとても最高の一日となった。ドーナツを買えなくてよかった。おばちゃんありがとう。

 

 それからも、その道を歩く。

 ドーナツの日以降少し変わったことがある。帰るたびに見かけていた女性が、こちらを見て手を振ってくれたり、踊り場からの会話を楽しむということが増えたということだった。

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