3

 

 授業が終わった。今日は部活が休みなので、そのまま家に直帰した。

 

 帰宅する道中で、私はあるまじきミスをした。

 

 机の中に、今日復習をしなければならない教科書を置き忘れていた。

 

 痛恨のミス。その瞬間、自分を恥じた。

 

 急いで帰路を引き返し学校に戻った。

 

 教室は、階段を上ってすぐにある。

 

 階段を上った先の教室の扉に手をかけた。すると、中から物音が聞こえた。教室内を人が歩く音。私が忘れ物をしたという状況を誰かに見られたくない。教室内に人がいるということは、クラスメイトの可能性が高い。

 

 まずい。完璧な自分を演じていたのに、こんなところで崩されるなんてまっぴらごめんだ。

 

 扉に手をかけたまま、私はひたすらこの状況を逸脱するための言い訳を必死に考えていた。

 

 「・・・榊さん?」

 

 クラスの後ろ側にある扉から、小林さんが私を見て声をかけてきた。教室の中には、小林さんがいたのだ。なぜこんな時間に教室にいるんだ。なんでこのタイミングでここにいるんだ。憤りを感じた。

 

 「今、怒ってるでしょ」

 

 また、背筋が凍った。

 

 「まあいいや。教室に用があったんでしょ?入りなよ」

 

 そういって扉から顔を出していた小林さん、顔をひっこめた。

 

 言い訳することも思いつかず、ただ教室に入っていった。

 

 小林さんは、制服をラフに気崩していた。上履きのかかとを踏んでペタペタと音を立てながら席に向かって歩いている。

 

 私も席に用事があったので、小林さんと同じ方向に向かって歩いていた。

 

 「忘れ物したの?」

 

 一番恐れていたことを聞かれてしまった。私は、何も答えることができない。とっさの言い訳も、唐突な質問で思いつくことができない。あれだけ、小林さんには気をつけなきゃと思っていたのに。

 

 「まあいいや」

 

 小林さんは、自分の席について「ふう」吐息を出した。

 

 「それじゃあ」

 

 この場をすぐに去りたいと、目的の教科書を鞄に押し込んで小林さんを見ると、小林さんが座っている足と足の間に挟んでいた両腕の、手首から血がだらだらと流れていた。

 

 「小林さんっ!血っ!」

 

 咄嗟に小林さんに駆け寄って手首をハンカチで抑えて握った。厚手のタオル生地のハンカチでも、滲むほどの血があふれて出ている。

 

 「大丈夫?痛くない?保健室行こう!今ならまだ先生も・・・」

 

 小林さんが、首を振った。

 

 「いつもここで切ってるの」

 

 すっきりとした、満足している表情を見せた。

 

 「切ってる・・・?」

 「うん」

 

 そういうと、小林さんは止血している私の手を優しくどけた。目の前に差し出してくれた手首には、数十本の線があった。


 今日切った場所であろう傷から、まるで人の口のような美しい楕円で、そこからあふれ出る湧き水を奏でるかのように緩やかに流れる血。背中がぞっとするほどの、ジャム状に見える傷口。


 その光景を、私は「怖い」よりも「美しい」を表現しているものとしてとらえてしまった。

 

 「うらやましい」

 

 他から理解を得ることは難しいだろう。でも、この美の世界は、自分を嘘偽りなく表現している。自分を、正直に表現すること。このリストカットを通じて、小林さんは私に「嘘のない自分」を見せてくれたこと。


 私は感動した。小林さんの生き様を、この場で証明されたことに。

 

 「榊さんもやってみる?」

 

 小林さんは笑顔を見せてカッターを差し出した。

 

 「私、小林さんが切っている姿が見たい」

 

 そういうと小林さんは驚いた様子を見せた。だが、私の表情を見て、笑顔を見せて言った。

 

 「いいよ。榊さん。今とってもいい表情してるから」

 

 そういうと、小林さんは古傷の何本もある傷の上を手慣れた手つきで切った。

 

 その瞬間、ぱっくりと口が空く。まるで花が開花したような。


 そこから赤い液体があふれだす。ドクドクトと、生きた紅蓮の水が流れていく。

 

 その羞恥心なき、「美の世界」に翻弄している小林さんを私は美しく感じ、うらやましく思った。

 

 私とは、正反対だ。







 あの感動が忘れられずに、放課後には教室に残る日々が続いた。部活動がある日は行けず、そんな日は、あの感動に会いたいという衝動に駆られ、集中できない自分を必死に抑え込むほどだった。そして部活の休みの日には必ず教室で落ち合う。

 

 そんな日々が中学三年生まで続いた。年数がたつと、段々と生活リズムの中に組み込まれるようになってくる。進路も決まり、部活動も引退した。ランクは下げても、小林さんと一緒の高校に行きたかったのだが、これに関しては小林さんから「高校は上を目指した方がいい」と説得され、仕方なく有名私立校の進学を決めた。

 

 「ねえ」

 

 小林さんが言う。

 

 「榊さんは、お母さんがいないんだよね」

 

 実は、小林さんとこうして語り合っていきながら、家族のこともいろいろと話すことが出てくるようになった。特に悩んでいるという相談ではないが、ただ家族のことを話していただけの話。

 

 「うん」

 「お母さん、会いに行かないの?」

 

 そうか、中学生だから、会いに行こうと思えば会いに行けるんだ。

 

 「家族の話をしているときに、お母さんのことを話しているときの榊さん、なんかもどかしい顔してるから」

 「そうだね、中学終わっちゃうし、この機会に行くのもいいかもね」

 「そうだね。節目になるかも。話しづらいなら、遠くから見るだけでもいいし。事情が事情だしね」

 「うん」

 

 小林さんは手を止めた。

 

 「電車の時間を調べて、お金も調べれば大丈夫。勇気出していってみたら?」

 「そうだね」

 

 小林さんの傷を見る。血が少しだけ固まった箇所を、指で触り、傷の線を準える。

 

 なんだか進まない気持ちでありながらも、小林さんが言うならと、自分を勇気づけた。

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