第53話 あの日

 クレオパスは、魔術実験室の床に魔法陣を書いていた。


 その目には厳しい決意がしっかりと込められている。


 今日は転移術の魔法陣を完璧に書けるように練習するのだ。


 師匠は眠っている。もし、この秘密の特訓が知られればまた烈火のごとく怒られてしまうだろう。夜は体を休めることで体力や魔力を休ませなければいけない時間なのだそうだ。


 でも、クレオパスはこれは聞けない。時間がもったいないと思うのだ。自分が寝ている間に他の魔術師見習い達は一歩先に進んでいるのだろう。それではクレオパスの将来の夢——最年少魔導師になる——が遠ざかってしまう。そんなのは認められない。


 自分はメラン一族の名誉をどうしても取り戻さなければならないのだ。当然自分自身でだ。それがせめてもの一族に対する罪滅ぼしだった。


 唇をしっかりと引き結び、魔法陣に真剣に向き合う。術式に書き漏らした文字が一つでもあれば、当然術は発動しない。だからじっくりと文字を一つ一つ確認する。


 転移術では何より大事なのが座標だ。これを間違うとすべてが台無しになる。ここを間違えるととんでもないところに転移してしまう。なので事前にしっかりノートに計算しておいた。それと魔法陣に書いた座標があっているのかはしっかりとチェックする。


「よしっ!」


 どこにも間違いはなかった。その成果に満足する。自然に口元に笑みがこぼれた。


 手書きで魔法陣を書くというのは大変なのだ。ある程度の実力のある者なら一瞬で陣を出すことが出来る。でもそれはまだ出来ない。とりあえず書き直しなしの一発で魔法陣を書くのが当面の目標だ。


 いつまでも呪文や手書きの魔法陣に頼っているようではまだ半人前である。それはクレオパス本人もしっかりと自覚している。


 これからもっともっと実力をつけるのだ。

 クレオパスは今十六歳だ。そして、今の魔導師の最年少記録は二十六歳。あと十年もないのだ。最低でも九年以内に資格を取らなければならない。

 なのに、気持ちばかりが焦って実力が伴わない。とにかく一歩一歩着実に進まなければならないのだ。


 まずはこの魔法陣を発動させるのだ。決意を新たにして魔法陣に魔力を流し込み始める。

 魔法陣に書いた魔術式が光るのを満足げな目で眺める。


 だが、クレオパスが穏やかな気持ちでいられたのはそこまでだった。視界の端で魔術式の座標が一瞬のうちに書き換えられた。それもとんでもない大きな数値に。


「なっ!?」


 思わず大きな声を上げる。無理もない。こんな大きな座標で転移したら間違いなく魔力を使い過ぎて死んでしまう。


 自分は発動させようとしていた以外何もしていない。つまり誰かに干渉されたということだ。


 この部屋で発動する魔術に干渉出来る者は限られている。師匠と当主一家——主として当主とその長男——しかいない。当主一家が干渉できるのは、一族に魔術で悪事をする者がいた場合、それを止めるためだ。


 師匠だということはありえない。それなら魔法陣全部が消され、すぐに頭上に軽い拳骨と、『今何時だと思ってるんだ! もう寝ろ!』という怒り声が落ちてくるはずだ。


 当主がこんな馬鹿な事をするはずがない。そうすると後は一人しかいない。

 六年前、クレオパスに真実をつきつけた者達、それを率いていた男。メラン一族の次期当主。


 一瞬でそれを理解する。そうして怒りがこみ上げた。


 許さない、と心の中でつぶやく。


 彼の事は苦手だ。だが、それとこれとは関係ない。


 あの男は言っていたのだ。ホンドロヤニスは神聖なる魔術を違法に使って悪さをしていたと。何人もの罪のない人間を陥れ苦しめたと。

 そうして、彼の血を一番濃く引いているクレオパスだって同じ事をするのだろうとなじられたのだ。


 その彼がただ魔術の自主特訓をしているだけの者を陥れようとしている。そんなことは許すわけにはいかない。クレオパスはすぐに発動を数分間停止させ、座標に飛びついた。すぐにこんな不名誉なものは書き直さなければならない。陣の文字を書き換えるのに魔力はいるが、そんな事は問題ではない。



 お前が! あの時おれを責めに責めたお前がメラン一族の名を汚すな!



 普段は恐ろしいと思っている男を心の中だけで責める。もちろんすべてが終わったら厳しく追及しようと決める。これは痕跡を消せば終わるような簡単な問題ではない。


 そう考えながら座標を修正しようと魔法陣にもう一度手を伸ばす。


 そうして少しずつ消して……いこうとした。


 だが、すぐに次の魔術が飛んでくる。その魔術式に頭の中がぐるぐるとかき回されていく。『自分のミス』、『失敗した』、『おれが悪い』などの言葉が心を支配しようとしている。

 記憶操作の術だ。そう気づいても何にもならない。とにかくまずは座標の数値を小さくしなければならない。そうしなければ、この座標で魔術が発動してしまう。


 とりあえず気力を記憶操作をある程度押さえ込み、指にしっかりと魔力を込め、慢心の力を振り絞り座標に手を伸ばす。


 その瞬間、頭が真っ白になった。


***


 やばい、座標を間違えた。

 そうクレオパスが思った時にはもう魔術は発動し始めていた——

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