第43話 提案

 クレオパスは分厚い本を開いたまま膝の上に置き、息を吐いた。根を詰めて読んでいたので疲れてしまったのだ。


 腕で汗を拭う。


「暑いな」

「そろそろ夏だから」


 つぶやくと、すぐにミーアから返事が返って来た。そのミーアは算術の教科書とノートを前に計算問題と格闘中だ。どうやら学校の宿題らしい。それを横目で見ながら、クレオパスはさわやかな香りのする薬草茶を口に運んだ。


 ミーアは最近いつもにも増して勉強するようになった。ついこの間、テストの総合得点で一点差で次席になってしまったのが悔しかったらしい。リルに首席の自慢に来ていたフランクがミーアのあまりの落ち込みようを見て、何もせずに帰ってしまったのを思い出す。あの時はミーアをなだめるのがとても大変だった。ミーアはどうやら負けず嫌いのようだ。


 ちなみにフランクがさっさと帰ったのは、リルが『ごめん、今はちょっとこっちに来ないで』とばかりに後ろ手でシッシッとやったせいで落ち込んだというのもあるのだが、ミーアを慰めるのに必死なクレオパスはそのやり取りは知らなかった。


 今はミーアと二人でリビングのテーブルで勉強をしている。最初は自室で過ごそうかと思っていたが、ミーアがお茶を淹れるからリビングで一緒に勉強しよう、と誘って来たのだ。


 リルはいない。二人で何かすると聞いて最初は混ざろうとしていたのだが、それが勉強だと知った途端に自室に逃げたのだ。曰く『リルはあっちでビオンちゃんと遊ぶから!』だそうだ。ビオンが守ってくれるならそれでいい。


 ミーアが真剣に計算問題に取り組んでいるのをもう一度見てからクレオパスも本に戻る。


 今読んでいるのは基本の魔術書だ。師匠がビオンに預けてくれたものだ。会えない間はこれを読んで基礎を改めて固めろ。誰かを守るつもりならそれだけの実力を持て、と言われているのだ。一緒に送られた手紙にもそう書いてあった。魔石を使っているのなら魔力持ちと同じ対応でいいとも書いてあったので次は彼らに容赦はしない事に決めた。手紙にはクレオパスの対応の甘さと師匠の言いつけを破った事への叱責も書いてあった。それは反省するしかない。

 この本とは別に、精霊学の入門書も送ってくれたので今から読むのを楽しみにしている。あれを読めばビオンの事をもっと知れるのだろう。


 クレオパスが魔術に関する本を読んでいる事はミーアも知っている。説明したときは小さく悲鳴を上げていたが、皆を守るために改めて勉強をするんだ、と言ったら納得してくれた。


 ただ、ミーアの頬がほんのり赤くなったのをクレオパスは見てしまった。『守る』という言葉に反応したのだろう。口元までもがほころんでいた。


 本人の気持ちが全くない告白も困るが、気持ちがみえみえなのに何も言われないというのも結構きついものがある。


 クレオパスがこの土地出身なら、自分から動く事も出来ただろう。しかし、こんな状況で恋愛について彼女達と話すのはよくない。中途半端に傷つける事になってしまう。


 せめてミーアが告白をしてくれれば少しは動けるかもしれないのに、と考えてから慌てて首を振る。そんな事を考えている場合ではない。


「ク、クレオパスさん、どうしたの?」


 突然のクレオパスの奇行に、ミーアが驚いたように尋ねて来る。

 ミーアが照れたのを思い出していたなんて言えないので、何でもないとごまかした。


 大体、恋愛などしている場合ではないのだ。ビオンから、それを利用してクレオパスをここから追い払えれば、と考えている者達がいるという報告も受けている。つけあがらせるわけにはいかない。


「ところで、キュッカさんの家に行くのって来週からだっけ?」

「え? そうだけど。それがどうかしたの?」


 キュッカはリルの親友だ。そしてミーアの友人でもある。クレオパスのお披露目会の時に仲良くなったようで時々家に遊びに来る。その前はリルの家に行く事が友人の親の間であまり推奨されていなかったらしいのに、最近はこんなに簡単に許可を出すなんてどういう事だ、と陰でリルがぼやいていた。すぐミーアに『クレオパスさんのおかげで家で友達と遊べるんだからよかったじゃない』となだめられていたが。

 そして、近いうちにショコラ豆の収穫期が来るので、双子の姉妹はキュッカの家に遊びに行く名目で避難する事になっている。


「ミメットさんじゃなく、おれがミーアさんを送って行った方がいいのかなと思って」


 クレオパスがそう言った瞬間にミーアの瞳が輝いた。


「学校まで迎えに来てくれるの? 毎日?」


 ミーアの頬がまたピンク色になっている。明らかに彼女は喜んでいた。防犯上の心配だったのだが、過剰反応をさせてしまった。この提案は失敗だったかもしれない。

 何故か尻尾を立てて幸せそうな表情でクレオパスを見て来る。そんなに期待されても困る。


「ほら、この間狙われたのってミメットさんと二人きりの時だっただろ? 女二人で大丈夫かなって心配で……。リルさんにはビオンをつけようかと考えてるけど。あ、でも、ミーアさんはおれと歩く方が怖いからビオンと一緒の方がいい? それもきついなら見えないようにしておくけど。あ、でもカーロさんに付き添ってもらった方がいいのかな……」

「こ、怖くない! 怖くないから! リルはビオンちゃんと仲いいし、それでいいんじゃないの?」


 そうっと提案を引っ込めようとしたが、それはミーアが許してくれなかった。しっかりと手を握られる。こんなぷにぷにした肉球でどうやったらこんな強い力が出せるのか不思議だ。


「分かった。じゃあ後でカーロさん達に話して……ミーアさん、何やってるの?」

「へ?」


 手に何か感触を感じて見てみると、ミーアが何故かクレオパスの手に計算式を書いていた。

 ミーアもクレオパスに言われて気づいたようだ。少しだけ顔が青ざめている。


「ニャ!? うそっ!? ご、ごめんなさい。あ、あたし、とりあえず勉強しなきゃと思って……その……。ごめんなさい」

「大丈夫だよ。……洗えば消えると思うから」

「そ、そうね。あたしが洗うから。せ、洗面所行きましょう! さ、行きましょう!」

「自分で洗えるから」


 パニック状態になっているミーアをなだめる。このままでは本当に洗面所に直行しそうな勢いだ。

 わたわたしているミーアを見ているとつい笑いがこみ上げて来る。慌てて手で口を押さえようとしたが、そこに書かれた計算式が飛び込んで来て余計おかしくなってしまう。


「笑わないで!」

「ごめんごめん」

「もう! クレオパスさん!」


 ミーアが抗議して来る。そういえば前にも同じようなやり取りをした気がする。クレオパスは笑いながらそんな事を思い出していた。


 この騒ぎを聞きつけてやってきたリルの『……お姉ちゃん、クレオパスさんはノートじゃないよ』という言葉でクレオパスの笑いが止まらなくなってしまったのは言うまでもないだろう。

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