第39話 ふわふわ2

 まただ、とリルは思った。


 また、あの『ふわふわ』がリルの前を漂っている。


 このふわふわは特定の時にしか現れない。

 それは、リルと同い年くらいの猫獣人の女の子がリルを見ている時だった。そうしてふわふわはリルを彼女とは逆方向に連れて行こうとする。


 彼女は何か悪いものなのだろうか。リルをいじめようとしているのだろうか。そういえば、リルを見るその猫獣人の目はきつかった。


 自分は彼女に何かしてしまったのだろうか。心当たりなどリルにはない。


「待って」


 とりあえずいつものようにふわふわに従う事にする。ただ、今回は少しだけ迷いがあった。


——リルさん、フランクから聞いたんだけど、ふわふわしている生き物に会ってるんだって? おれもそれ見たいから会わせてくれる?


 昨日、クレオパスに、にこやかな顔でお願いされた事が頭をよぎるのだ。


 クレオパスの目はどこか笑っていなかった。会わせたらふわふわは徹底的に彼によって調べ尽くされるのではないだろうか。それではふわふわが可哀想だ。


 後ろから舌打ちと『何なの、あの変な犬はっ!』という声が聞こえる。それはリルの憶測が間違っていないという証明になってしまった。


 何となく納得がいかない。とりあえずリルは『変な犬』ではない。


 それにしてもかなり遠ざかったはずなのに、あんなにはっきりと聞こえるのはどういう事だろうか。


「別に何も悪い事してないのにねえ……」


 ぶつぶつと独り言を言う。ふわふわはそんなリルを見て心配したのか側に寄って来てくれる。どうやら心配しているようだ。

 こんなにいい生き物なのにクレオパスは酷いと思う。


 走ってて楽しくなって来たので速度をあげた。ふわふわが慌てる。


「ワンワン!」


 吠えながら追いかける。別にいじめているわけではない。


 どうやらこのふわふわは他の人には見えないようだ。友人はリルがここ数日ジョギングに目覚めたと思っている。訂正するのも面倒なのでそういう事にしておいた。


 ただ、フランクは走り始める最初の時に見られてしまったので、一応真実を話した。それくらい信用していたのだ。姉やクレオパスの友達だし、悪い人ではないと信じていたのだ。

 なのに勝手にふわふわの事をクレオパスに言いつけるなんて酷いと思う。


「何してるの? リル」


 畑の近くまで戻って来ると姉の声が聞こえたので足を止めた。とりあえず昨日フランクにしたのと同じ答えを返す。


「あたしには見えないけど……」


 ニャア……、と不満そうな声を出している。ふわふわが困ったように揺れた


 リルも困っている。見えないなんておかしいと思う。やはりこのふわふわは怪しいのだろうか。


 ふわふわがもう一度揺れた。姉が視線を固定した。どうやら見えたようだ。

 なのに、姉は息を飲み、それから動かなくなってしまった。


 唇が動くが、声に出してもらわなければ何を言っているか分からない。いくらリルに猫語が分かるとは言ってもさすがに読唇は出来ないのだ。


「どういう事?」


 声が聞こえたが、何を不思議がっているのか分からない。


「お姉ちゃん、どうしたの?」

「ニャー」


 リルの疑問など聞いていないみたいだ。ふわふわに手を伸ばしている。ふわふわはビクッと震えた。つつかれるのは苦手なようだ。


「クレオパスさんは……」


 姉がぽつりとつぶやいた。何故そこで急にクレオパスの名前が出てくるのか分からない。


「リル、ちょっとクレオパスさん呼んで来て。気になる事があるの」

「ふわふわを調べるの?」

「調べるの」


 きっぱり言われる。ふわふわもどこか戸惑っているように見えた。こんなかわいいふわふわをいじめるなんて酷い。


 そう言ってみるが姉は引かない。ふわふわはどこか観念したような雰囲気を出しているのはリルの願望なのだろうか。


「ごめんね」


 ふわふわに謝ってから、リルは温室の方に歩いて行った。



***


「クレオパスさん?」


 リルが離れたのを確認してからミーアは小声でおそるおそる「ふわふわ」に呼びかける。


「クレオパスさんなんでしょ?」


 もう一度声をかける。なのに、ふわふわした光は『なんだ、バレたのか』とクレオパスに変わったりはしない。リルが名付けた通り、困ったようにふわふわ浮いているだけだ。


 外見的には『ふわふわ』とクレオパスは似ても似つかない。なのに、なんだか『これはクレオパスだ』という感じがするのだ。


 ただ、他の人に『一体どこが?』と聞かれたら答えられない。『なんとなくそう思ったの』くらいしか言えない。


 リルは本当にクレオパスを連れて来られるだろうか。このふわふわがクレオパスなら絶対に来ない、いや、来れないはずだ。


 うーん、と考え込んでいるとふわふわがそーっとその場から離れようとした。


「逃げちゃ駄目!」


 ニャッ! と怒鳴る。逃がさない。逃がすわけにはいかない。そうやってそっと立ち去ってクレオパスに戻るのなら、いくら好きな人でも許すつもりはない。


「いーい? ふわふわをいじめないでよ!」


 リルの声が聞こえた。そちらを見ると、偉そうに注意をしているリルと、それに苦笑しているクレオパスが見えた。


「本当に分かってるの? いじめちゃダメだよ」

「分かってるっての」


 クレオパスは何度も念を押しているリルに呆れているのか、やれやれ、というような声で相手をしている。


 ふわふわは、と気になりそちらの方を見ると、何故かふわふわは緊張しているように見えた。これでは『ふわふわ』ではなく『がちがち』だ。


 クレオパスが近づいてる事でがちがちになっているという事は同一生物ではないのだろうか。


「ミーアさん、大丈夫? 『ふわふわ』とやらに何もされてないよね?」


 クレオパスがこちらに来て話しかけて来る。ミーアはこくんとうなずいた。


 とりあえず、ニャア、と鳴きながらクレオパスの頬や腕などを触ってみる。ちゃんと感触はあった。


「……え? ちょっと、何?」


 クレオパスは戸惑っている。当たり前だ。


 そしてその隙にまた逃げようとしているふわふわにはもう一度怒っておいた。


「お姉ちゃん! ふわふわをいじめちゃダメ!」


 リルが怒って来る。別にミーアは悪い事をしているわけではないのに納得がいかない。


 クレオパスはそんなミーア達にため息をついてからふわふわに目をやる。そして何故か目を見開いた。


「お前は……。どうして……」


 クレオパスがつぶやくのが聞こえる。その声は間違いなく動揺しているように聞こえた。


 ふわふわはゆっくりとクレオパスに向かって行く。そうして目の前で止まる。


 なんだかふわふわが喜んでいるように見えた。

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