第15話 ここはどこだ(後編)
それはクレオパスが見た事のない地図だった。正確に言えば上半分だけはいつも見慣れている世界地図だ。
それでは下の部分は何だろう。
「これは?」
「世界地図です。ね、リル」
「うん、これはいつも見てる世界地図だよ」
どうやら獣人姉妹には見慣れたもののようだ。
「おれは上の部分しか知りません」
その返答に姉妹が驚いた顔をする。
「そうなの?」
「はい。……勉強不足でごめんなさい」
しょぼんとするクレオパスにミーアがくすっと笑った。
そういえばミーアに笑いかけられたのは初めてだ。ミーアは笑うと軽く色気が出るのだとクレオパスはこの時に知った。
「だったらクレオパスさんは『火の道』の事も知りませんね」
確かにそんな道の事は知らない。ただ、名前を聞くかぎり、熱そうな道だなとは思う。
小さい頃に師匠に連れて行ってもらった曲芸でそういう道を見た。道の両端が火で囲まれている所。そこに猛獣を歩かせるのだ。『怖い』と言って早々に顔を背けたのをよく覚えている。
でも、そこまで言う気はない。だから『熱そうな道ですね』とだけ伝えた。
「熱くはないね。多分『暑い』けど」
リルがそんな事を言った。
余計に分からなくなる。ただ、気温の高い地域だという事は分かった。
「この世界の真ん中あたりには一年中暑い地域が広がっているんです。地図の真ん中に赤い線が引いてありますよね? そこらへんです」
地図を見ると、確かにミーアの言う通りの線があった。
「そこをはさんで北と南……この地図で言えば上と下では気候が逆なんだそうです」
「え?」
驚いてしまう。この世界は不思議がいっぱいだ。
理由が気になるが『話すと長くなる』と言われた。ついでにリルがそれを聞いてあくびを始めたので、もう少し後の時間に教えてもらう事になった。このままクレオパスの肩を枕に眠られては困るからだ。
ただ、天体が関係しているらしいという事だけは教えてもらった。
「で、あたした……あ、リル、ごめん、これから言うところ指差してくれる?」
遠くにいては地図を示す事も出来ないとミーアは今気づいたようだ。当たり前だが、リルは不満そうな声をだす。
「お姉ちゃんがこっちに来ればいいじゃない。なんでそんな遠い所にいるの」
「……それは……みゃぁー……」
「みゃぁじゃないよ! クレオパスさんは押さえておくから大丈夫!」
リルはそう言ってクレオパスの肩を両手で押さえつけ始めた。力を入れているので所々爪で刺される。地味に痛い。
おまけにリルが手を離したせいで地図帳が床に落ちてしまっている。
「い、痛い! リルさん! 爪は引っ込めてください!」
「あ、ごめんねー」
全く悪びれていない様子でそんな事を言う。その子供っぽい笑い顔を見ていると、しょうがないか、と思えて来る。
それを見て、ミーアは申し訳なく思ったようだ。クレオパスとリルが座っているソファーまで歩いてきて恐る恐るクレオパスの隣に座る。そうしてリルが放置した地図帳を開き直した。
これは外から見たら両手に花みたいだな、と余計な事を考える。可愛い獣人の女の子二人がクレオパスを挟んで座っているのだ。
でもこれは『獣人の女の子達を愛でる場』ではなく、『ミーア先生の地理講座』である。
おまけにその『ミーア先生』はクレオパスを好いているどころか怖がっている。
だから話ではなく、ミーアの濃茶の線が混じった薄茶のさらさらした長い髪の毛に集中していては駄目なのだ、とクレオパスは自分に言い聞かせた。
「それでね」
『ミーア先生』が話を始めたので地図帳にきちんと目を落とす。
「あたし達が今いるのはここらへんです」
そう言ってミーアは地図の右下辺りの広い土地を押さえる。
「で、季節が逆っていう事は、クレオパスさんが住んでいるのはこの上の方のどこかなんじゃないかと思ったんです。さっきこっちの地図しか知らないって言ってましたよね?」
「はい」
「じゃあもうクレオパスさんの故郷はここ、つまり北半球のどこかという事で間違いはないんじゃないですか?」
『北半球』という部分を手でぐりぐりと指し示しながらあっさりと言われる。
「ちなみにどこらへんに住んでるの?」
リルが尋ねてくる。なのでクレオパスはミュコスであろう場所を指し示した。
そのまま指をミーアが教えてくれた『今いる場所』にスライドしてみる。そしてやらなければ良かったと思った。
場所で言えば『右斜め下』。でも、距離は果てしなく遠いのが分かる。なにせ、広い海を通るのだ。
地図を指している腕ががくがくと震える。
カーロは、船を使えば帰れると言っていた。でも、それには何ヶ月かかってしまうのだろう。
ふと、腕にやわらかな肉球の感触がした。クレオパスの左腕。それはミーアがいる方向だった。
「ミーアさん?」
「『時空の彼方』ではないでしょう?」
ミーアはまんまるな瞳でクレオパスを見つめてて来る。
「火の道を挟んではいます。でも同じ世界ですよ。どんだけかかったとしても、『帰る』事は出来るでしょう?」
それは少なくともクレオパスにとっては希望なのかもしれない。ものは考えようなのだ。
「よかったね、クレオパスさん」
まだ何も解決していないのに、リルが嬉しそうにそんな事を言う。そんな無邪気な声を聞いていると本当に安堵してくるから不思議だ。
地図帳をぱらぱらとめくる。何故か書かれている文字は馴染んでいるミュコス文字だったので少なくとも地名は読めた。なので、それを参考に自分の住んでいる地域であるリスティア大陸を探し出す。
「アイハ、レトゥアナ、イシアル……」
国の名前をゆっくりと読み、噛み締める。それは、クレオパスのよく知っている近隣諸国だった。
その時のクレオパスは隣に獣人姉妹がいる事も忘れてていた。ミーアが彼をじっと見ている事にも気づかなかった。
もちろんミーアが、クレオパスが『文字が読める』という事の意味を察した事にも気づいていなかった。
満足のいくまで周辺諸国の名前を、それ以外にも遠くの、でも知っている国の名前も何度も口にする。
ここは知らない世界ではない、と心の中で何度も言い聞かせる。少しずつ、少しずつ心が落ち着いて来た。
ため息をついて地図帳を閉じる。
「ありがとう、ミーアさん、リルさん」
「いえいえ。元気出ましたか?」
「はい」
「よかった」
ミーアは花のように美しく微笑んだ。
「お姉ちゃん、だいぶクレオパスさんと仲良くなったね」
だが、その雰囲気を壊すのがリルだ。からかうようにミーアの手を指差している。そこでやっとミーアは、ずっとクレオパスの腕に触れていた事に気づいたようだ。
「にゃっ! ご、ごめんなさい!」
ミーアは小さな悲鳴とともに飛び上がった。そのままびくびくと震えている。きっとなれなれしくした事でクレオパスが気分を害するかもしれないと怯えているのだろう。
「ううん。希望をくれてありがとう、ミーアさん」
「ど、どういたしまして」
ミーアは明らかに固い顔をしてお礼に返事をする。
彼女の笑顔が見れない事をクレオパスは何故か寂しく思った。
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