a door to the world yet to be seen 3
二日後の土曜日の昼すぎ。俺がシルバーレインのライブの感想を訊くよりも早く、勘太郎が『昨日の夜はどうだった?』とLINEをよこした。俺が部長の飲み会に生贄として参加したことを気にしているのだろう。
『いつもどおり、ただの飲み会だったよ』と返した。いつもどおり、長くて退屈でつまらない飲み会、だ。『そっちは?』
『最高だった』
『それなら俺も本望だ』
気になったのは事実だが、バックで演奏していたはずのサックス奏者については尋ねなかった。
ゆかりとの待ち合わせは、池袋駅の改札に夜の八時だった。日中は仕事があるらしかった。一般の会社員とはちょっと違うので、土日も関係なく仕事が入ることが多い。俺は休日の午後を一人で何をするでもなく過ごし、約束の時間にあわせて池袋を目指した。
ゆかりは五分だけ遅れて現れた。てっきり電車で来ると思っていたから改札の向こうを見ていたら、突然横から声をかけられた。
「え、どこから来たの?」
「車で来たのよ」
北口を出て、文化通りを北上する。土曜の夜の池袋は喧騒としていた。二人でこの街に来るのは初めてだった。
「なんで池袋?」
「仕事で埼玉に行ってたのよ」とゆかりは答えた。もっともらしくは聞こえたが、それでも疑問は残る。ゆかりとこの雑然とした街がうまく結びつかなかった。
しばらく歩き、いくつかの角を曲がったところで、ゆかりがスマホと目の前の店を見比べて「ここよ」と口にした。一面ガラス張りの向こうに照明の抑えられた店内がぼんやりと浮かんでいる。『Blue Moon』の文字が入り口の上に見える。
「ここ?」
「そう、ここ」
ゆかりが俺の腕を取って店内に導いた。
不思議な雰囲気の店だった。段差のついたフロアに、スペースに余裕をもっていくつかのテーブルが配置されている。外から見た時の印象同様、店内の照明はかなり落とされており、ほかの客の表情が読み取れないほどだった。予約をしてあるらしく、店の奥の一番高いフロアの席に案内された。
「こんな店、どうやって見つけたの?」
「目がいいのよ」とゆかりは真顔で答えた。
「その冗談、久しぶりに聞いた」
落ち着いた雰囲気からてっきり高級フレンチか何かだと思ったが、メニューには意外にもハンバーガーやステーキが並んでいた。シーザーサラダとジャンバラヤとリブロースステーキを注文して二人で分けることにした。俺は店名にちなんでブルームーンを、ゆかりはジンジャーエールを頼んだ。
メニューを閉じたところで、一番低いフロアの片隅にグランドピアノが置かれているのに気がついた。
「生演奏とかあるのかな?」
「かもね」
ぶつ切りの会話が続く。なんとなくいつもと違う。妙な違和感を抱きながら、じきに運ばれてきたジャンバラヤとステーキを口に運んだ。
やがて真っ赤なドレスを着た女性がどこからともなく現れた。明らかに客ではない。案の定、客席を見渡すこともなくフロアの端を進むと、ピアノの前に腰かけた。やはり生演奏があるらしかった。女性は特に言葉を発することもなく、静かに演奏を始めた。俺の知らない曲だった。
曲が一つ終わり、客席から遠慮がちな拍手が聞こえる。女性は立ち上がって嬉しそうに腰を折ったが、やはり何も言わずに再びピアノの前に座ると二曲目を引き始めた。今度も曲名は知らなかったが、聴いたことはある曲だった。
俺はゆかりの顔を盗み見た。口元に軽く笑みを浮かべてはいたが、ほとんど感情の読み取れない表情でピアノを弾く女性を静かに見つめていた。ゆかりがこの店を選んだのは、この演奏に理由があるような気がしてならなかった。
二曲目も終わり、再度女性は立ち上がって拍手に応える。俺はこのタイミングでトイレに行こうと、膝の上のナプキンをテーブルの上に置いた。そんな時に限って、これまで一言も言葉を発していなかった彼女が初めてマイクに向かって話し始めた。マイクがあったことすら初めて知った。
「えー、ありがとうございます。ピアニストの黒瀬といいます。今日は……」
「真っ赤なドレスを着た黒瀬さん。ややこしいわね」とゆかりが呟いた。
「たしかに」
俺は席を立つタイミングを失い、真っ赤なドレスの黒瀬さんの話を聞いていた。彼女の話によると、この店では毎週土曜日に誰かしらが何かしらの演奏を行い、彼女もおおよそ月に一度の頻度でピアノを弾いているという。
ゆかりは彼女の演奏を聴きたかったのだろうか。そんなことを考えていると、真っ赤なドレスの黒瀬さんが気になることを言った。
「今日はスペシャルゲストをお呼びしています。昨日幕張メッセで来日公演を行ったシルバーレインというバンド、ご存知の方も多いと思います。彼らのステージでサックスを演奏されていたのは実は日本人なんですが、なんと今日はその方にお越しいただいています。日向さん、よろしくお願いします!」
「え……」
開いた口がふさがらないとはこのことだった。俺は唖然としながら、フロアの前方に目を走らせた。キッチンのある方向から、一人の女性がサックスを携えて現れた。
その姿を見るのは高校を卒業してから初めてだったから、もう七年ぶりだった。二十歳前後の女性というのは、七年でここまで変わるのだろうか。俺が知っている葵はそこにはいなかった。すっかり一流の演奏者としての気品と風格をまとった大人の女性がそこにいた。それでも俺は懐かしさに似た感情を抑えることはできなかった。
ふとゆかりのことが気になり、横目で見やる。相変わらず無表情で前方を見つめていたが、口元に浮かんだ笑みは少し深くなっているに見えた。
少なくとも、この状況に驚いてはいないようだった。
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