a door to the world yet to be seen 2

 カーテンを開ける音に目を覚ました。差し込む光に目が眩む。続いてクレセント鍵を下ろす音。窓が開き、涼気を含んだ風がふわりと室内に舞った。

「いい天気」

 そう呟きながら、ゆかりが濡れた髪をバスタオルで拭いていた。

「もうそんな時間か?」

「そんな時間かどうかはわかんないけど、七時半よ。朝ご飯食べるでしょ?」

 俺は体を起こし、あくび交じりに頷いた。

「軽くでいいよ」


 洗面所で顔を洗い、髭を剃る。冷蔵庫から牛乳を取り出し、グラスを二個とフォークを二つ、テレビとベッドの間のスペースに置かれたローテーブルに運ぶ。焼けたトーストの香りが鼻孔をくすぐった。リモコンのスイッチを押すと、今日は秋の空気だといつも元気なお天気お姉さんが言った。

 ゆかりがトーストとスクランブルエッグの載った皿を両手に抱えてくる。しばらくの間、テレビからの音声に交じって俺たちがトーストを頬張るサクッ、サクッという音だけが聞こえた。


「ねぇ?」

 トーストの最後の一切れを口に含み、ゆかりが言った。

「うん?」

「引っ越そうかと思うの」

「あぁ、前にも言ってたね」

「そしたら、あなたも来ない?」

「え?」

「両方で家賃がかかるのってもったいないじゃない?」

 お互いの家は直線距離で五キロほどしか離れていなかったが、地下鉄で行くには乗り換えが必要だった。就職してしばらくはお互いの家を行き来していたが、じきにその移動が面倒くさくなりどちらかの家で生活をすることが多くなった。必然的に物の移動と無駄な生活費が発生するようになった。

「たしかにそうだけど」

「まぁ、いますぐってわけじゃないから考えておいてよ」


『それでは、今日も一日頑張っていきましょう! じゃん、けん、っぽん!』

 ゆかりがパーを出し、俺はチョキを出した。お天気お姉さんはグーだった。

「いぇーい」

 時刻が八時を告げる。俺は舌打ちを一つすると、空いたゆかりの皿を自分の皿に重ねた。




 昼過ぎに丸の内のオフィスに行くと、だだっ広いフロアに人影はまばらだった。

「おはよう」

 隣の島でぽつんと弁当を食っていた同期に声をかける。よく見ると、パソコンの画面を見ながら、耳にはイヤホンが入れられている。見ながら、食べながら、聞きながら。忙しいやつだ。

「よう、いま出勤かよ? 重役さん」

 山瀬勘太郎という名の同期はイヤホンを片方だけ外し、椅子を半回転させて言った。

「昨日出張から帰ってきたばっかりだから、午前休取ったんだよ」

「あぁ、そうだったな。どこだっけ? バリ?」

「パリ。わざとだろ」

 笑いながら、背後で動いているパソコンの画面に目が行く。バンドのライブ映像のようだった。

「それ、何だ?」

「シルバーレイン」

「え」

 よくぞ訊いてくれましたというように得意げに答え、イヤホンのコードをパソコンの端子から抜き取った。しんとしたオフィスに重厚なギターの音が流れる。勘太郎は、古風な名前に似合わず現代的な趣味の持ち主で、洋楽好きだった。


「ひょっとして、ライブ行くの? 明日だよな?」

 俺は昨日車の中で聴いたラジオを思い出して言った。勘太郎は、ふっふっふっと意味ありげな笑みを浮かべ、足元のバッグを漁っていたかと思うと、「じゃーん!」という自前の効果音とともにコンビニの名前が入った封筒を取り出した。それを取り上げて中を見ると、チケットが二枚入っている。

「やっぱり行くんだ」

「行くぜ、もちろん! 好きなんだよ、シルバーレイン。三年くらい前に武道館で来日公演やった時も大学の友だちと行ったんだよな」

 気持ちよさそうにパソコンから流れる曲にあわせて鼻歌を歌っている。俺はふと思いついて言った。

「そういや、今回のライブって日本人が後ろでサックス吹いてるらしいな」

「え、そうなの?」

 勘太郎は知らなかったらしく、「どれどれ」と呟きながらネットで検索を始めた。「なんだ、詳しいな。お前も好きなの? シルバーレイン」

「いや、そういうわけじゃ」

「行けばいいのに、彼女さんと。えっと……あかりさん?」

「ゆかりだ。わざとだな」

「ていうか、結婚しないの? もうずいぶん長いんだろ?」

「え? なんだよ、藪から棒に」

「いや、余計なお世話だと思うんだけど、お前、肝心なところで優柔不断なところあるじゃん? 奥手と言うか」

「本当に余計なお世話だな」

「そろそろ考えてもいいんじゃないかって話」


 そこでオフィスのドアが開き、がやがやとした喧騒を引き連れて上司たちが昼食から戻ってきた。

「お、仲村、出張どうだった?」

 課長が席に戻りながら訊いてくる。

「無事に終わりました。午後、報告します」

「会議入ってるから、十六時で頼むわ。部長も一緒に」

「わかりました」

 そう答えて部長席を見ると、「ちょうどよかった」と声を上げた部長と目が合った。

「仲村か山瀬、明日の夜、空いてるか?」

「え」

 声が重なる。十中八九、飲み会の誘いだろうが、用件を言わないのは実に卑怯な訊き方だ。だが、いずれにしても勘太郎は明日は空いていない。部長は「仲村『か』山瀬」と言った。おそらく空席はひとつなのだろう。

 勘太郎を見やると、その表情には無言の懇願が見て取れた。頼む、ここは犠牲になってくれ、と。

「私は特に予定はないですが」

 しぶしぶ答える。

「お、よかった。じゃあ、メール転送する」

 この期に及んでも要件を言わない。俺は形だけ礼を言うと、どさりと席に腰を下ろした。


 部長からメールが転送されてくるよりも早く、私用の携帯電話が震えた。LINEの通知を開くと、「借りは返す!」というメッセージが現れた。すぐ後ろの勘太郎からだった。古風な名前に違わず律義なこの男は、きっと本当に返してくれるだろう。


 ふと、もう一つ未読メッセージがあることに気がつく。

『あさっての夜、空いてる?』

 ゆかりだった。

「お前もかよ」

 思わず独り言が漏れた。


 ——そろそろ考えてもいいんじゃないかって話。


 ゆかりからのメッセージを見て、ゆかりについて言った勘太郎のセリフを思い出していたのに、そのとき頭に浮かんでいたのはなぜかサックスを吹くおぼろげな姿だった。


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