まだ見ぬ世界に続くドアのように

a door to the world yet to be seen 1

 羽田空港には予定より一時間遅れて着陸した。暗澹たる雲の垂れ込める滑走路は、すでに薄暮の中だった。「気温は摂氏二十四度」 機内アナウンスでそう言っていた。夏はもうすぐ終わろうとしていた。


 キャリーケースを引き、到着ロビーに出たところで、目の前の光景に思わず足を止めた。黒山の人だかりが何重にも折り重なってフロアを埋め尽くしている。回り込むようにして広いところに出ると、パンツスーツ姿の長身の女性が小さく手を上げているのが目に付く。

「すごい人だかりだな。有名人でもいるのか?」

 一週間ぶりの再会の挨拶もそこそこに言った。

「シルバーレイン」

「シルバーレイン?」

 ゆかりが顎で俺の背後をしゃくりあげた。振り返ると、詰め寄せた人々の多くは同じ黒のTシャツを着ているのに気づく。その背中には「Silver Rain」と白字で書かれている。

「アメリカのロックバンドらしいわよ」

「へぇ」


 手ぶらで歩き始めるゆかりの後に従う。駐車場ではなく、車寄せに駐車しているようだった。

「ずいぶん遅れたわね」

「雷雲が発生してるとかで、雲の上を何周か旋回してた」

「まぁ、そのおかげで迎えに来れたからよかったじゃない」

 フィアットの後部座席にキャリーケースを置き、助手席に乗り込む。エンジンが掛かると小さな車体がぶるんと揺れた。ラジオが流れ始める。

『続いては、あさって幕張メッセで二回目の来日ライブが予定されているアメリカのロックバンド「シルバーレイン」の最新シングル……』

 お、と思い、ラジオのボリュームを上げた。

「おなかすいてる?」

「家で何か軽くつまめればいいよ」


 走り出してまもなく、雨粒がフロントガラスを打ちつけ始めた。すぐにワイパーが必要な雨量になる。環状七号線に入ると交通量が急激に増え、車窓にブレーキランプが滲むようになった。

「こないだ言ってた契約、うまくいったの?」

 俺はずっと気になっていたことを尋ねた。ゆかりはちらっとこちらに視線を寄越してから、「おかげさまで」と言った。


 ゆかりは大学を卒業するとある住宅メーカーに就職したが、丸二年経った今年の春先にあっさりと退職した。その後は、顧客だったある経営者の紹介で、メーカーから業務委託を受けて健康器具の営業をしている。自身の売り上げによって報酬が決まる完全歩合制の仕事だ。ゆかりは仕事の話はしても愚痴はまったく言わないが、おそらく相当シビアなはずだ。その証拠に、月によって収入は倍ほども違った。ある月は学生のバイト代に毛が生えたほどだったが、次の月は並みのサラリーマンよりも稼いだ。


 俺はと言うと、新卒で大手商社に就職し、いまもそこで働いている。日本の農産物、特に牛肉をヨーロッパに輸出する事業を担当しており、今回の出張ではパリの卸売業者と日本食レストランをいくつか訪れていた。いまヨーロッパでは日本食がブームなのだ。


「お祝いにケーキでも買っていこうか?」

 俺はふと思いついて言った。少しの間があってから、ゆかりは噴き出した。

「どういう風の吹き回し?」

「なんだよ」

「あ、わかった。自分が食べたいだけでしょ?」

「そうじゃない。別に無理にとは言わないし」

 俺がふてくされてると思ったのか、ゆかりはそれからしばらく面白そうに笑っていた。


 いまの仕事で満足しているかと問われれば、よくわからない。やりがいはあるが、一日のほとんどの時間を費やしていることに疑問はあった。間違いなく自分の人生を賭けるつもりはなかった。俺は、日本の牛肉をヨーロッパの人に食べてもらうために生まれてきたわけではない。じゃあ、何なら人生を賭けられるのかと言われれば、答えは持ち合わせていなかった。

 悶々とした日々を送っていたのは事実だが、それが生きていくということなんだと言い聞かせている自分がいた。


「ゆかりは、いまの仕事に満足してる?」

 俺は思いたってそう尋ねた。ゆかりは「なにそれ?」と笑ったが、忘れたころになって「仕事はよくわかんないけど、人生には満足してるわ」と言った。

「その『人生』には俺も含まれているんだろうか?」

「わざわざ空港まで迎えに来てくれた人にひどくない?」


『あさって来日公演を行うシルバーレインですが……』

 再びつい先ほど知ったバンドの名前に、注意がラジオへと向く。『今回のツアーではアンプラグドでの演奏やバラードを中心とした編成が大きな話題を集めています。なかでも注目は、バックでサックスの演奏をしている女性。実はこの方、日本人なんですね。お名前を……』


 言葉を失った。誰かがその名前を声に出すのを久しぶりに聞いた。胸の奥が締めつけられる感覚がある。夢を、それを本人から聞いたことはないけれど、あいつはきっと叶えたんだ。


「あ、よかった。まだやってる」

 いつの間にか車はゆかりの家の近くまで来ていた。何度か行ったことのあるケーキ店の駐車場に小さなフィアットが入っていく。


 雨はまだ止む気配がなかった。


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