a door to the world yet to be seen 4

「それで、次はどこに行くんだ?」

「香港。明日の飛行機で飛ぶわ」

「すっかり大物ミュージシャンだな」

「バンドのおまけよ。大物なのはシルバーレイン」

「いったいどうやってシルバーレインと知り合ったんだ?」

「運がよかったのよ。たまたまメイルが私の演奏を聴いて気に入ってくれたの」

「メイルって?」


「シルバーレインのボーカルでしょ?」

 ステーキを口に運んでいたゆかりが割って入った。

「よく知ってますね」と葵が言う。

「気になって調べたの」

「だって、シルバーレインのこと、この間まで知らなかっただろ?」

「『この間まで知らなかった』は、『いまは知っている』と同義よ」

 ゆかりのよくわからない言い草に、葵が心底面白そうに笑った。

「それにしても世界ツアーってすごいわね。アメリカンドリームって感じ」

「運がよかっただけですよ」

 追加で注文したクラブハウスサンドにかぶりつきながら、葵がゆかりに向かってさっきと同じセリフを口にした。


 いったい何がどうなってそうなったのか。気がつくと演奏を終えた葵は俺たちのテーブルに加わり、会話に花を咲かせていた。たかだか二十五年の俺の人生だったが、もし「自分の人生に影響を与えた人物」をあげるとしたら、目の前にいる二人が真っ先に浮かぶのは間違いなかった。その二人が並んでステーキとサンドイッチを食べている。その状況がうまく理解できなかった。しかも、不思議と馬が合っている。


 日向葵と月村ゆかり。太陽と月。過去と現在。


 決して出会うことのないはずの二人がこうして出会った。それは何を意味するのか。俺は計り切れずにいた。


「お話し中に失礼します」

 顔を上げると、ウェイターがこちらを見ていた。「日向さん、あちらのお客様がぜひお話をしたいと」

 その言葉に全員の視線が入り口のほうに向けられる。レジの前で感じの良さそうな老夫婦がこちらに向かって会釈をしていた。

「ちょっとごめん」

 そう言って葵が席を立ち、颯爽とフロアを降りていった。


「本当にすごいね。まじで世界的アーティストじゃん」

 ゆかりがどこか羨ましそうにそうこぼした。俺はそれには答えずに、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「いったいどういうことなんだ?」

「うん? 何が?」

「全部だよ。どうしてここに葵がいて、一緒にご飯を食べてるんだ?」

 ゆかりは俺の言葉を聞き終えると、殊更ゆっくりとジンジャーエールを飲み干した。グラスをテーブルに置くと、氷がカランと鳴った。

「何か頼む?」

 問い詰めるつもりでも、非難しているわけでもないことを示すためにそう尋ねる。ゆかりは首を横に振った。


「私たちが来た店に彼女がいたんじゃない。彼女がいる店に私たちが来たのよ」

 しばらくして観念したようにゆかりが言った。

「やっぱり。知っててこの店を選んだんだ?」

 ゆかりが頷く。

「どうして?」

「会ってみたかったの。『ひまわり』に」

「それだけ?」

 その言葉に鋭く俺を睨んだ。思わずのけぞる。

「そんなわけないじゃない」

「じゃあ、なんで?」

「あなたがいつまでもそうやって過去に囚われてるから、私は安心できないのよ」

「……囚われてる?」

「そうよ」

 下唇を噛みしめてやや俯いたが、俺にはゆかりの言っている意味がわからなかった。


「大学三年の時、あなた、地元に帰ったじゃない? 私に何も言わずに。覚えてる?」

 もちろん忘れてはいなかったが、ゆかりがそのことを話題に出したのが意外だった。もともと根に持つタイプではないからだ。

「もちろん覚えてる」

「別に根に持ってるわけじゃないけど」と俺の思考を読んだかのようにゆかりはそう言った。「忘れられないのよね。彼女に会うために帰ったことよりも、あの瞬間に私のことが頭になかったことが」

 俺は何も言葉を返すことができなかった。葵に会うために帰ったわけでなかったし、実際会わなかったのだけれど、そんなことが重要でないことくらいは俺にもわかった。


 三年前の夏——。その時、俺の脳裏に浮かんだのは会えなかった葵ではなく、葵そっくりに成長した奈津だった。重なった唇の感触が蘇った。目をつむり、意識の中でかぶりを振る。両の拳をきつく握りしめ、叫び出したくなるのを必死にこらえた。ゆかりの言っていることはそのとおりだった。葵だけじゃない。葵と奈津。二つの太陽があったあの夏の残滓に、俺はいまも囚われている。いや、夢を見ているんだ。


 ゆかりはひとつ大きなため息を吐くと、ナプキンをテーブルに置いた。意を決したように言葉を紡ぐ。

「私だって何が正解かわかんないの。だけれど、このままだと私たちは……少なくとも私は、前に進めない。だから、はっきり答えを出してほしい」

 財布から五千円札を出し、テーブルに置いた。おもむろに席を立つ。

「金は要らないよ」

 そんなことしか言えない自分が情けなかった。俺がするべきことは、金を返すことではなく、答えを出すことだった。


 ゆかりは何も答えず、しかし、最後に一言だけ言い置いて席を後にした。

「信じていいんだよね?」



 それはあの夏に葵と吉村慎之介との関係を疑った俺が、葵に投げかけた言葉にほかならなかった。


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