a button in the wrong hole 5

 蒸し風呂のような体育館に、玉の汗がしたたり落ちる。シューズが床とこすれる音とボールの弾む音とが鈍く響いていた。

「和成!」

 掛け声とともに放たれたパスは指先をかすめ、エンドラインの端を割った。足が出るのが一瞬遅れた。

「悪い」

 謝罪の意を込めて手を上げる。ボールは体育館を二分するように天井から下ろされたネットと壁の隙間を縫って、女子バスケ部のいる隣のコートに転がっていく。休憩中だったゆかりがそれを拾った。


「よし、今日はここまで」と背後でコーチが手を叩く。「ストレッチ、ちゃんとしろよ」

 そこかしこで「あちぃー」という悲鳴が聞こえた。

「悪い」

 再び同じセリフを今度はゆかりに向かって吐いた。ネットの裾を手繰り上げ、手を差し出す。てっきり手渡ししてくれるものだと思ったが、ゆかりはボールを叩きつけるように床にバウンドさせた。危うく顔面に直撃しそうになった。

「……ありがとう」

 ゆかりは一言も言葉を発しなかった。その様子を見ていたチームメイトがスポーツドリンクの入ったボトルを差し出してきた。

「月村、ご機嫌斜めみたいだな」

「斜めどころか真っ逆さまだ」

「ケンカでもしたのか?」

「いや、10対0ジュウゼロで争う余地はない」

「……なるほど」

 何かを感じ取ったらしく、納得した表情を浮かべる。「なぁ、今更感しかない質問だけど、お前ら付き合ってんだろ?」

 何気なく投げかけられた問いに思わず窮した。以前なら「まぁな」と曖昧に肯定していただろう。だが、いまはそれも躊躇われた。

「え、違うの?」

「よくわかんねぇよ」

 スポーツドリンクを一口含み、ボトルを押し返した。


 シャワーを浴び、着替えてロビーに出ると、ゆかりがいた。

「着替えてくるから待ってて。一緒に帰ろう」

「あぁ」

 言っていることは可愛らしいが、その表情はにこりともしていない。

 俺は下駄箱に寄りかかり、「じゃあな」と手をあげて帰っていくチームメイトたちを見送った。やがて髪をまだわずかに湿らせたゆかりが現れ、どちらともなく連れだって体育館を後にする。外に出た途端、やかましいほどの蝉の声に包まれた。

「世界の回る音だ」と俺は言ってみた。

「それにしても暑いわね」

 恨めしそうに夏空を見上げながら言った言葉が、俺への返事だったのかはよくわからない。


 俺たちは茹だるような暑さの中、古びた駅のホームを目指して歩いた。




 三日間の帰郷で俺はいくつかの事実を知った。葵が高校を卒業後、東京で暮らしていたこと。吉村からの誘いを断り、海外に行くと話していたこと。吉村は葵が好きだったに違いない。奈津は、葵が言ったとおり、俺のことが好きだったのだろう。「好きだった」と過去形で言うのは、たとえ衝動に駆られての行動だったとしても、勇気を振り絞った奈津に対して卑怯な言い方かもしれない。



 背伸びをして唇を合わせていた奈津は、やがてゆっくりと踵を地面につけた。顔を伏せ、俺のシャツを握りしめたまま、「ごめん」と消え入るような声で囁いた。一瞬、抱きしめたい思いが俺の胸をよぎったが、その思いを振り払うように奈津の体をゆっくりと押し戻した。

「帰ろう」

 奈津は静かに頷いた。


 隣を歩く奈津は終始俯いていた。履きなれない下駄を見つめながら、沈黙する奈津の姿が三年前の葵に重なった。信じていいのか、という問いに、泣きそうな顔で葵が頷いたあの夜——。思わずこぶしを握りしめる。心の中で叫びたくなる。事あるごとに目の前の奈津に葵の姿を重ねている自分が許せない。

「お姉ちゃんね」

 奈津が振り絞るように話し始めた。「いま海外にいるらしいんだ。でも、どこにいるのかはよくわからない」

 吉村の言葉が蘇る。


 ――働いて金貯めて、海外にサックスの修行に行くって。


「サックスの勉強のために?」

 奈津が頷く。

「東京で二年間必死に働いて、三百万貯めたって」

「三百万?」

「夜の仕事もしてたみたい」

「……そう」

「一回だけ、東京でお姉ちゃんに会ったことがあるの。お姉ちゃん、タバコの匂いがした」

 おそらく奈津は、夜の仕事にもタバコにも嫌悪や偏見はない。ただ、夢のために夢とは程遠い世界で身を粉にして働く姉を応援できない自分に苛立ちを覚えていたに違いない。

 うちは父親がいないから——。かつて奈津は言った。葵が中学生、奈津が小学生の時に二人の両親は離婚していた。父親の不倫が原因だったらしい。詳しいことは知らない。中学生のころ葵の家に行った時にある光景を目にした。葵の父親が乗り込んだ車の窓に靴が投げつけられていた。開け放たれた玄関の前で鬼の形相で仁王立ちする葵の母親がいた。いかにも肝っ玉母ちゃんといった風体で豪快に笑う葵の母親の違う一面を目にした気がした。それは同時に葵と奈津の抱える闇だった。


「さっきのことは忘れて」

 家の前で「じゃあね」と手を振ったあとに奈津は言った。

「それで……いいのか?」

「いいの。ただの名残だから。感情の残骸」

 そう言うと、奈津は軽やかに玄関の前の段差を上った。


 感情の残骸——。

 その夜に触れたいくつかの想いは、確かに残骸だったのかもしれない。葵の意志、吉村の思惑、奈津の恋心。すべてはかつて俺の知らないところで確かな形を持っていたもの。俺が触れたのは、その残骸に過ぎない。俺はいつだって遅すぎる。




 四両編成の黄色い車体は単線の線路の上で停車した。踏切上に立ち往生した車があるとアナウンスが告げる。ゆかりは大きなため息を吐くと、左腕にした腕時計に目を落とした。席はほとんどが空いていたが、俺たちはドアの前でつり革を握っていた。

「なぁ、ゆかり」

「なによ?」

「俺たちの関係ってなに?」

 ゆかりは一瞬だけこちらを見たが、すぐに窓の外に視線を戻した。

「ケンカ中」

「そうじゃなくて……」

「訊く前に言ってみなさいよ」

 確かにそのとおりだった。

「……付き合おう」

 俺の言葉に、ゆかりは呆れたような笑いをこぼした。

「遅すぎるわよ」


 何の前触れもなく、ゆらりと足元が揺れた。景色が動き出す。遅れていた電車はそれでも着実に目的地に辿り着こうとしていた。


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