a button in the wrong hole 2

 空港の到着ロビーを出ると、無邪気に手を上げる親父の姿が見えた。髪が全体的に白っぽくはなっていたが、見るからに健康そうだった。

「久しぶりだな」

「なんだ、元気そうじゃないか」

「元気で悪かったな」


 結局、「航空券代は出すから帰って来なさい」という母親の言葉に甘えて三日だけ帰省することを決めた。


 見える景色は三年前と何も変わっていなかった。家までの道も、家も、家から見える海も、記憶の中のそれらと寸分違わずそこにあった。唯一の違いは、その景色の中にいた自分がそれらを外から眺める存在になったことだけだった。



 店には母親の姿があった。俺を見ると、「おう、薄情息子が東京土産のひとつも持たずに帰ってきたか!」と憎まれ口を叩いた。俺はボストンバッグの中からとらやの羊羹を取り出すとカウンターに置いた。

「そっちこそなんだよ、意味深なLINEなんか送ってきて」

「意味深? あんたが勝手に深読みしただけだろ? 私はなんも嘘なんか書いてないよ」と不敵な笑みを浮かべている。

「まったく……」


 ぼやいたところで背後に人の気配を感じた。



 黄色い夕日を背に微笑む彼女の姿に、俺はめまいにも似た感覚を覚える。一瞬、ほんの一瞬だけ、自分がこの風景の中にいたころに戻った気がした。ひまわり……口を衝きそうになった名前を寸でのところですり替えた。

「……奈津」

「カズ兄、おかえり」

 髪が伸び、三年分大人になった奈津は三年前の葵そっくりだった。俺と葵が置き去りにしたあの夏に、いまは奈津がいた。

「父さんがあんた迎えに行かなきゃならないから、なっちゃんが手伝ってくれてたんだよ。なっちゃん、もう大丈夫だから、なんか飲む?」

「あ、じゃあコーラもらえますか?」

「はいよ! 和成かずなり、あんたは?」

「コロナ」

「アルコールは有料だよ」




 俺と奈津はテラス席に腰かけ、コーラとコロナで乾杯した。

「炭酸、飲めるようになったんだ?」

「うん。いまはむしろ好き」

 海水浴を楽しむ人々の笑い声が湿気を含んだ海風に乗って吹き抜けた。奈津は海を眺めながら、「東京は楽しい?」と尋ねてきた。

「うーん、部活とバイトしかしてないからな。あんまり東京っぽいことしてない」

「忙しいんだ?」

「暇だから必死にスケジュールを埋めてるだけだよ。なっちゃんは? まだバレーボールやってるの?」

「やってた。もう引退したけど」

「俺の時と一緒だな。大学でもやるの?」

「……わかんない」

 少しの間が空き、俺と奈津はそれぞれの瓶を口に運ぶ。



「ねぇ、カズ兄?」

「うん?」

「明日の夏祭り、一緒に行かない?」

 その言葉に俺は逡巡した。その一瞬の迷いを奈津は見逃さなかった。

「お姉ちゃんならここにはいないよ」

 帰省すると決めたあと、二年ぶりに葵に連絡を取った。『今年は帰るのか?』 その問いに返事は来なかった。

「……ひまわりは、何やってるんだ?」

「気になる?」

 そう言って奈津はいたずらっぽい視線を寄越し、それから「意地悪な質問か」と微笑んだ。

「どこにいるのかわかんないんだ」

「わからない?」

「そう」

「どういうこと?」

 奈津はその質問には答えず、代わりに言った。

「おばさんがカズ兄に『帰ってこい』って言ったの、私が頼んだからなんだ」

「頼んだ?」

「そう、カズ兄にお姉ちゃんのこと話しておきたくて。だってほら、私も来年は大学だから……」

 風に乱れた髪を手で直す。「ここで過ごす最後の年だから、次にいつ会えるかわかんないじゃない?」



『奈津、たぶんニコのことが好きだよ。でも、私がいるから遠慮してる』

 三年前の葵の言葉が蘇った。奈津が俺の帰省を望んだと言う。はたしてそれは、本当に葵のことを話すためだけだったのだろうか。




 奈津は突然コーラの瓶を逆さにして一気に飲み干すと、ぷはーっという声を上げた。空の瓶をテーブルに勢いよく置き、弾かれたように立ち上がる。

「明日、行くの? 行かないの!?」

「え、い、行くよ。行かせていただきます」

「じゃあ、明日ゆっくり話そ!」

「わかったけど……それ、コーラだよな? 酔っ払ってないよな?」

 奈津は俺の冗談を無視して、脇に置いてあったバッグを肩に掛ける。

「じゃあ、六時に迎えに来て」

 そう言い残して道路に降りると、海沿いの道をしっかと前を向いて歩き始めた。その後姿を俺は目で追った。



 途中一度だけ、奈津は振り返って短く手を振った。が、すぐに前を向き直る。遅れてあげた俺の間抜けな右の手のひらは、夏の夕暮れの空気を力なく掴んだだけだった。


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