掛け違ったボタンのように
a button in the wrong hole 1
たった三年前のことなのに、情景の細部やその瞬間にどんな気持ちだったかは意外と覚えていないものだった。ただ、暑く、切ない夏だった。あいつが聞いたら、薄情だと言うだろうか。それとも、「そんなもんよね」と素っ気ない表情を浮かべるだろうか。
俺は型落ちのノートパソコンを前にため息を吐いた。林立するユリノキに抱かれたカフェテリアのテラス席には、八月の都内とは思えない涼やかさがあった。
「もうすぐ夏休みだっていうのに浮かない表情ね」
背後から聞こえた声はすぐに前方に回り込む。同じ学科で女子バスケ部の月村ゆかりだった。黄色いシロップの掛かったかき氷を手に向かいの席に腰を下ろす。白のノースリーブに黄の薄手のカーディガンを腰に巻いているのは、別にかき氷とコーディネートしたわけではないだろう。
「ここ、かき氷なんて売ってるの?」
「今週だけみたいよ」
厨房を振り返った俺に向かって、ゆかりは「食べていいよ」と先が平べったくなったストローを差し出した。
「夏休みはどうするの?」
ゆかりは頬杖をついて、俺がかき氷をストローの先で崩すのを見つめながら尋ねた。
「バイトと部活」
「男子も部活はしばらく休みでしょ? バイトは?」
「しばらく休み。信じられるか? 最近の高校生は夏休みにノルウェーとかカナダに行くんだってよ」
俺は部活のほかに家庭教師を二つ掛け持ちしていた。
「ノルウェーとカナダに一度に行くの?」
「ノルウェーに行く高校生とカナダに行く高校生は別。でも、二人ともオーロラを見に行くんだってさ」
「オーロラって夏でも出るんだ?」
「一年中発生してるらしいよ」
気がつけばかき氷を半分くらい食べてしまっていた。さすがに申し訳なくなり、ストローをゆかりに返す。
「ずいぶん食べたね」
「少しでも元を取ろうと思って」
そう言ったのは、奈津と交わした夏祭りでの会話をついさっき思い出していたからだったが、ゆかりはかき氷に夢中で特に返事をしなかった。
「実家には帰らないの?」
「どうかな……」と俺は言葉を濁す。
「帰りにくい理由でもあるの?」
「別に、そういうんじゃないけど」
大学で上京して以来、俺は一度も高知の土を踏んでいなかった。それを両親は、特に母親は、「薄情なもんね」と揶揄した。帰りにくいわけではなかったけれど、心のどこかで、高知の小さな海辺の街で過ごした十八年間と東京で始まったばかりの生活を切り離して考えていたのは事実だった。「過去」と「現在」。今まで意識したことのない時間の隔たりがそこにはあった。
「ゆかりは?」
「私はバイト三昧。新しいバッグが欲しいの」
「どんな?」
何気なく尋ねた俺の質問に、ゆかりは待ってましたとばかりにスマホを渡してきた。今まさにネットでそのバッグを見ていたらしく、画面にブランドもののバッグが映し出されていた。その名前やデザインよりも値段に自然と目が行く。
「一、十、百、千……二十五万!?」
「サマーセールで三割引きなのよ」
二十五万円から三割引きなのか、すでに三割引いてあるのかは、もはや誤差の範囲の気がしたので訊かなかった。
「健闘を祈ってるよ」
スマホをゆかりに返したところで、今度は脇に置いてあった俺のスマホが震えた。LINEの通知を開く。
『今年は帰ってくるの?』
母親だった。何と返そうか迷っていると立て続けに受信する。
『今年は帰って来なさい』
『お父さんが……会いたがってるから』
質問文の直後に命令文が続いていた。じゃあ最初に訊く必要ないじゃないかと苦笑したところで、最後に届いた短文のなかの「……」が生み出している
「どうかした?」
「あ、いや。なんでもない」
「そう?」
ゆかりがストローの先を齧りながら、「ならいいけど」と呟いた。「たまには帰ってやらないと『ひまわり』が悲しむんじゃないの?」
一瞬、なぜゆかりが突然花の話を始めたのかわからなかった。だがすぐに花の話ではないことに気づく。
「お前、なんで……」
ハッとしてスリープモードに移行していたパソコンの画面に目を移す。俺に声をかける前に、背後から盗み見ていたらしかった。
「プライバシーの侵害だ」
「思わずプライバシーを侵害しちゃうくらい目がいいの。侵害されてるのは、私の『余計なものを見ない権利』よ」
「よくもまぁ、そんなへ理屈が思いつくもんだ」と俺は閉口した。
「それより、バイトじゃないの?」
ゆかりが自分の腕時計を指し示す。俺のスケジュールまで把握しているらしかった。
「あ、やばい。行かなきゃ」
慌ててパソコンの電源を落とし、バッグに突っ込む。
「ノルウェーのほう? カナダのほう?」
「カナダの後にノルウェー」
「国境なき家庭教師って感じね」
「実際に国境を跨ぐのは生徒だけどな。じゃあ、また」
席を立った俺に向かって、「夏休みの予定が決まったら教えてね」とゆかりが手にしたストローを振った。
俺は駐輪場に停めた自転車に向かって小走りに駆け寄りながら、最後のゆかりの言葉を思い出していた。
付き合っていると言うためには言葉でお互いの気持ちを確認することが必要なのだとしたら、俺たちは付き合っているわけではなかった。ただ、「付き合っているも同然」か「これから付き合うことになる」かのどちらかだと漠然と考えていた。
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