a summer with two suns 4

 開け放たれた全面ガラス張りの窓から、九月の海風が店内に流れ込む。軒先を通る幹線道路の向こうには、浜辺で海水浴をする人々の姿がまばらに見えた。三日月型の湾のちょうど真ん中に位置するこの喫茶店が、俺の生まれ育った家だった。


「そろそろ海水浴シーズンも終わりか……。それにしても、今年の夏は暑かったな」

 カウンターの向こうで洗ったグラスを拭きながら、親父が名残惜しそうに言った。テレビを付ければ、判で押したように異常気象や猛暑という言葉が繰り返された夏だった。ここ高知も例外ではなく、連日真夏日が続いた。

「確かに暑かったけど、なんか、短かったな」

「そうか?」

 また一つ、透き通ったグラスがシンクの脇に並ぶ。夕日と呼ぶには早すぎる晩夏の日射しがグラスの縁に反射した。

「なっちゃん、何だって?」

 午前中に奈津が来ていた。小学生のころからこの店で友だちと集まって遊んだり宿題をしたりすることはあったが、一人で来るのは珍しかった。

「うん? あー、勉強を教えてほしかったんだって」

「そうなのか? そのわりには教科書もノートも持ってきてなかったけどな」

「教科書もノートも使わないで勉強する方法はないかって訊かれた」

 本当に訊かれたから嘘ではなかったけど、それが本題でもなかった。


「花火大会の夜ね、お姉ちゃん泣いてたんだ」

 奈津は意を決したように、そう俺に伝えた。「何か知ってる?」と。

 首を捻ることしかできなかった自分が情けなかった。




「いらっしゃ……おー、葵ちゃん」

 その声に俺も振り向く。葵が半袖のシャツにスカートの制服姿でサックスの入ったケースを背負って立っていた。

「土曜日なのに練習?」

「はい。秋のコンクールが近いので」

「さすが強豪は違うね」

 親父がそう言いながら、皮肉っぽい視線をこちらにむけた。

「バスケ部はどうせ弱小ですけど、なにか?」

 俺が所属していたバスケ部はリーグ戦で早々に敗退し、俺を含めた三年生はすでに引退していた。一方で、葵の吹奏楽部は四国大会で準優勝の好成績を残し、秋には全国大会が控えていた。

「いま話してたんだけど、昼前になっちゃんが来たよ」

「奈津が?」

 思わず心の中で舌打ちが漏れる。親父、また余計なことを……。

「お前もなんか用か?」

 話題を逸らすために割って入った。

「外海、行こうよ」

「外海? なんだってそんなに外海に行きたがるんだ?」

「いいじゃん、行こうよ」

「別にいいけど……」




 各自の自転車で行けばいいと思うのだが、葵が二人乗りを強く希望したので、葵の自転車は店先に置き、俺の自転車で二人乗りをして外海を目指した。葵は後輪に跨って立ったが、サックスケースを背負っているうえに右手一本で俺の肩に捕まっているだけなのでバランスが悪かった。左手を使わない理由は、親父がいいところを見せようとサービスしたジンジャーエールのプラスチックコップを持っているからに他ならない。


「念願の外海ー!」

 自転車から降りるなり、葵が叫んだ。てっきりその勢いで波打ち際まで走っていくものだと思ったが、そのまま浜辺に続く階段の縁に腰を下ろした。

「入らないの? 海」

「うん。もう夏も終わりだからね」

 花火大会から一カ月余り。あの日以来、葵は何か思うことがあるらしく、話しかけてもどこかよそよそしかった。俺は俺で、あの夜の光景と吉村の言葉が忘れられずにいた。そして、お互いにその胸につかえた思いを口にできなかった。


「奈津、何だって?」

「うん? あぁ、コーヒー飲みに来ただけだよ」

「中学生が? コーヒー?」

「コーラ……だったかな」

「あの子、炭酸飲めないんだけど」

「……とりあえず、たいしたことない」

 葵は納得していないようだったけど、それ以上は追及してこなかった。その代わりに、まったく予想していなかったことを呟いた。

「奈津、たぶんニコのことが好きだよ」

「は?」

「でも、私がいるから遠慮してる」

「そんなわけあるかよ」

「あるんだよ。私にはわかる」

「……わかって、どうするんだよ?」

 我ながら意地が悪いと思った。葵は気に障ったようには見えなかったけど、問いに答えもしなかった。


「何か吹こうか?」

 そう言うと、背負っていたケースを下ろした。初めからそのつもりだったからわざわざ持ってきたのだろう。

「じゃあ、放射熱線で」

「出るか」

 葵は立ち上がりサックスを構えると、時折音を出しながら複雑に入り組んだパーツのいくつかを手際よく調整し始めた。それらの名前も機能もまったくわからないが、おそらくチューニングというやつなのだろう。

「うーん、ちょっとまだ音が硬いかな」

「私ね、大学には行かない」

 俺の渾身のボケには目もくれずに葵は言った。

「……そうなんだ。どうするの?」

「真剣に音楽の勉強しようと思って」


『うちはほら、父親がいないから』

 それなら音大にでも行ったほうがいいのではないか。そう言おうとした俺の脳裏に、奈津の言葉が蘇った。


「応援してる」

「ありがとう」




 やがて、葵がまとまったフレーズを奏で始める。


 涙くんさよなら さよなら涙くん

 また逢う日まで


「……なんでその曲なんだよ」


 君は僕の友達だ この世は悲しいことだらけ

 君なしではとても生きていけそうもない


 だけど僕は恋をした

 素晴らしい恋なんだ

 だからしばらくは君と

 逢わずに暮らせるだろう




 泣くなんて思っていなかった。でも、葵の頬が黄色い日射しに濡れているのを見た時、自然と涙がこぼれた。葵がどんな気持ちでその曲を選び、演奏したのか俺にはわからない。ただ、葵も俺も、近い将来にやってくる別れの時を意識したのは間違いなかった。



 自分たちが大人になることを実感した夏だった。大人になるということは、言葉にできない複雑な感情を抱えて生きていくことだと知った夏だった。




 そして、俺が二つの太陽と同じ時間を過ごした最後の夏だった。




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