第20話 最良の日最悪の時

 ログハウスの建築は面白おもしろかった。皮をぎ落した丸太を加工して組み合わせて積み上げていく工法は美しく圧巻あっかんだった。


 大工としてのうでにはある程度自信があったのだが、初めて経験する事も多くあり戸惑う事もシバシバあった。しかし社長の鉄さんは優しく、仲間の大工たちも歳が近い者が多かったので直ぐに馴染なじむ事が出来た。


 昨夜ゆうべはそんな俺の為の送別会が開かれた。


 ログハウスはまだ完成していなかったが、完成の目処めどがたった事と、厚木での次の仕事が施主せぬしの都合で早まった為に、急遽きゅうきょ呼び戻される事になったのだ。


 送別会は大工たちが宿舎にしている貸し別荘でもよおされた。振る舞われたBBQとお酒は美味しく、別れの感傷かんしょうも手伝って酔いつぶれてしまった。


 泊まる事は直美に伝えていたし、福丸家への日課は朝に済ませていたので、久し振りに気兼ねなく酔えたのだった。


 目がめると頭が少し痛んだ。やはり飲み過ぎたようだ。時計を見ると十時を過ぎていた。鉄さんたちはすでに仕事に出かけていて、貸別荘には俺一人が残されていた。枕元に【ありがとう またいつか一緒にログを建てよう 鉄】とメモが残されていた。


 顔を洗い、服を着替え終えた時、スマホに複数の着信がある事に気付いた。確認すると、LINE、メール、留守電と全ての通信機能に着信があった。


 LINEを開くと、美佳さんと社長からのメッセージが交互に入っていた。美佳さんからは【直美が破水した】とのショートメッセージがあり、社長からは車がもうスピードで走っているスタンプに【早く帰って来い】とのセリフメッセージが送信されていた。それが八時四十二分と三分で、その三十分後に美佳さんから妊婦が分娩台ぶんべんだいに乗せられて息んでいるスタンプが送信されていた。


 俺はあせって美佳さんに電話をかけた。しかし美佳さんは電話に出てくれず留守電に切り替わった。社長にも電話をかけたが同様の反応だった。


 俺は二人の留守電に『直ぐに病院へ向かいます』という伝言を残し、取るものも取り敢えず車に乗り込み、直美が搬送はんそうされた病院へ向かって車を走らせた。


 貸し別荘から表通りに出るまでの間に雪にタイヤを取られたが、車を止めてチェーンを取り付ける時間がもどかしかったので、そのまま強行突破をした。


 高速道路に乗る前に美佳さんと連絡がつき、直美が早産そうざんの為の難産なんざんだという事を知らされた。


 高速道路を走行中も、美佳さんから随時ずいじ途中経過を知らせるLINEのメッセージが届けられた。しかし無事出産したとのメッセージは届けられなかった。


 おかげで気持ちがジリジリとして運転に集中出来ずにいた。それでも何とか事故る事もなく病院に到着する事が出来た。


 時刻は十二時三分だった。


 急いで院内へ駆け込むと、分娩室の前の長椅子に社長と美佳さんの姿があった。


「社長、美佳さん」俺はここが病院である事を忘れて大声で呼んでしまった。

「おお、武士。やっと来たか」

「直美は? 赤ん坊は産まれましたか?」

「まだよ。難産だっていうから時間がかかりそうよ」美佳さんはいたってのんびりとした口調で答えた。

「難産ですか……」


 俺はここに来るまで張っていた気が一気に抜けて、長椅子に脱力して腰かけた。


初産ういざんではよくある事よ、しっかりしなさい」


 美佳さんは俺の肩をバシンッと叩き、気合いを入れてくれた。


「お前の気持ちは俺には分かるぜ。よくある事って言われてもな、心配なものは心配だ」


 社長は美佳さんが叩いた肩の逆の肩を優しくでてくれた。その社長は早くもお祖父じいちゃんの顔になっているように思えた。


「難産て後どれくらいで産まれて来るんですかね?」

「分からないけど、今日中に産まれたらラッキーだと思っておきなさい。ひどい時には二十四時間以上かかる時もあるんだから」

「覚悟決めようぜ。待てば待つだけ産まれた時の喜びがデカいってもんだ。こうなりゃこの時間を一緒に楽しもうじゃねえか」

 

 社長は肩を組んで来たが、俺にはまだこの状況を楽しむ余裕はなかった。


「そうだ武士、近所の人に良くお礼を言わなければ駄目だよ」

「はい?」


 俺には美佳さんが何を言いたいのかが分からなかった。


「直美、家で産気づいて、一人で病院へ行こうとして家を出たところで破水してしまったらしくて、そこで動けなくなっちゃったらしいのよ。そこを運よく近所の人が見つけてくれて、その人が病院まで車で送ってくれたのよ」


 まさか! 近所の人って……。


「それでその近所の人が私たちのところにも連絡をしてくれて、ホント、お世話になったのよ。直美と産まれて来る子供の命の恩人と言ってもいいくらいよ」

「……それ……、誰ですか?」


 名前を聞くのは怖かったが、確かめずにはいられなかった。


「えーとね……、名前何だっけ? バタバタしている時に聞いたもんだから……。あんた」


 美佳さんは社長に助けを求めた。


「俺かよ。俺は直美の事が心配で頭がいっぱいだったから聞いてねえもん……。年寄りだよ年寄り。夫婦二人して白髪頭のジイさんとバアさんだ」


 やっぱり。


 最悪だ。


「福丸さんですか」

「そうそう福丸さん。近所に頼りになる人がいて、あなたたち夫婦はホントに幸せよ」


 福丸はどういうつもりで直美とお腹の子供を助けたのだろう? にくいのは俺であって直美や産まれて来る子供ではないと考えてくれたのか? それは教育者だった男としての当然の行動だったのか? それとも何か別の目的があっての事か? 様々な思いが俺の頭の中をめぐった。


「それでその二人は?」


 福丸の姿を捜して周りを見た。


「とっくに帰ったわ」

「そうですか」


 福丸がいない事にとりあえずホッとした。


「赤ちゃんが産まれたら顔見せて下さいだってさ」

「冗談じゃないッ。どうしてアイツらに俺の子供を見せなくちゃならないんだ」

「どうしたのさ、武士」美佳さんは突然の俺の剣幕けんまくに驚きの声を上げた。

「どうした」社長も不審な顔を向けてきた。

「いや、別に……。あれ、俺……、何かおかしな事言いましたか?」

「直美の事を助けてくれた人たちに子供の顔を見せたくないって」

「何だ、お前あのジイさんたちとめているのか?」

「そ、そんな事あるわけないじゃないですか。年寄りと揉めるほど俺ガキじゃないですよ……。言い間違い、そう、子供が産まれるんで興奮しているからかな。変な事口走っちゃいましたかね。ハハ……、ハハハ……」笑って何とか誤魔化そうとした。


 その時、分娩室のドアが開いて顔見知りの看護師が出て来た。


「あら前島さん、いらしていたんですね。前島さん立ち合い出産をご希望されていましたよね。どうなされますか?」


 忘れていた。直美に一人じゃ不安だからと、立ち合い出産をお願いされていたのだ。その為の講習も何度も受けていた。


「やりますやります」


 ここまで来てやらなかったら、一生ネチネチ嫌味を言われ続けられるのだろう。それはゴメンだ。


「それでしたら直ぐに立ち合い着に着替えて来て下さい」


 立ち合い着に着替えて分娩室に入室すると、直美が分娩台の上でまたを広げてウーウー苦しそうにうなっていた。


 俺は看護師にうながされるままに直美の頭上の位置に着き、直美の手を握って習っていた呼吸法を直美と共に必死に繰り返した。直美は俺が現れた事に安心したみたいだった。しかし時間が経つにつれ陣痛の間隔かんかくが短くなっていき、それにつられて直美の苦しみは激しくなっていった。


 直美に握られた俺の手には、直美の爪が深く食い込んだ。痛さはあったが直美の苦しみに比べたら大した事はないと思い、我慢がまん出来た。


 何時間もそんな事が繰り返されただろうか。疲れが眠気を誘いウツラウツラしかけた時、突然の赤ん坊の産声で現実に引き戻された。


「おめでとうございます。ほらっ、元気な女の子ですよ」


 産湯うぶゆかりキレイにされた産まれたての赤ん坊を、看護師が抱えて見せてくれた。


 産まれたての赤ん坊はしわくちゃで猿に似ていて可愛くないと子供を持っている仕事仲間が言っていた。しかし看護師の腕に抱かれていた俺の子は、全身にキラメキをまとっていてまさに妖精そのものだった。


 直美が俺の手をギュッと握って来て微笑んだ。大仕事を終えた直美は、今まで見た中で一番美しかった。


「ご苦労様。ありがとう」心の底からのねぎらいと感謝の言葉が口をいた。


 分娩室を出ると、廊下の窓から朝日が差し込んでいた。


 待っていた社長と美佳さんと俺とで子供の誕生を抱き合って喜んだ。そしてこの日はゆっくりと直美を休ませてあげようという話になり、二人とは駐車場で別れて帰路についた。


 家へと帰る車の中では、俺の顔のニタニタは止まる事はなかった。


 家に到着して、車をバックで駐車場に駐車し終わると、フロントガラス越しに向かいの福丸家が目に入った。


 ハッとして重大な失態をしでかした事に気が付いた。


 時計に目をやると、八時二十三分だった。


 しまった! 昨日福丸家へ行っていないぞ……。どうする……。


 目の前が真っ白になり、俺はハンドルに突っした。直美が予定日より早く産気づいた事に慌てて、福丸との約束をスッカリ忘れてしまっていた。


 約束を破った時、本当に福丸は直美に俺の犯した過ちを話す気なのか……。


 俺は福丸と約束を交わした日の事を思い出した。あの時の福丸の目は本気の目だった。


 妻の方はどうだ? ……妻とは言葉を交わした事は一度もなかったが、俺があの家へ行くたびに向けてくる憎悪ぞうおの顔は、何をどう言い訳しようが俺を許さない顔だ。約束を破ったその時は、妻の方が躊躇ちゅうちょする事なく直美に秘密を話すに違いない。


 いや、待てよ。


 苦しんでいた直美を病院まで連れて行ってくれたのは、あの夫婦だ。なぜ憎い男の子供を産もうとしている女を助けた? ……それは産まれてくる子供には罪がないと思っているからじゃないのか?


 そうだ。そうに決まっている。


 それに、俺が昨日どうして来られなかったのかの事情を誰よりも理解しているのは、あの夫婦の筈だ。


 今から福丸家へ訪ねて行って素直に謝れば、昨日来られなかった事も許して貰えるかもしれない。子供が誕生したおめでたい日だ。一度くらい大目にみてくれるかもしれない。


 よし、誠意せいいだ。誠意を見せれば大丈夫だ。


 俺はそう自分に言い聞かせて、車から降りて福丸家へと歩みを進めた。


 玄関へ迎えに出て来てくれた福丸は、いつもと何も変わらないようだった。笑顔こそ見せはしないが、怒ってはいないようだった。


「昨日は直美が大変お世話になったそうで、ありがとうございました」


 心から感謝をしているのだという精一杯の気持ちを込めて頭を深々と下げた。


「おかげ様で今朝元気な赤ん坊を産む事が出来ました。それも先生夫妻が直美を見つけてくれて、病院へ連れて行って貰えたからです。ありがとうございました」


 福丸夫妻がいてくれたおかげで赤ん坊が誕生した事を強調きょうちょうして、再度頭を下げた。


 誠意だ、誠意。心で念じた。


 福丸は黙って聞いていて何も言葉を発しなかった。


「優子さんにお参りをさせて頂いてもよろしいでしょうか」


 俺のその言葉に、福丸は体を半分捻はんぶんひねってくれた。上がれという意味だろう。


 やったぜ。


 家に上がらせる許可をしてくれたという事は、昨日の事を許してくれたという事だろう。


 俺は一礼して玄関を入り、いつものように靴をそろえて上がり、廊下を恐る恐る進んで行った。


 キッチンには妻が立っていて、入って来た俺の事を冷めた目で睨み付けてきた。いつもは目を合わせようともしないのに、こんな事は初めてだった。


 やはり妻の方は怒っているのかもしれない。何とか気持ちをほぐさなければ……。


「昨日は妻がお世話になりまして大変助かりました。ありがとうございました」深く頭を下げた。


 娘が無事産まれた事はあえて言わなかった。娘の誕生を聞き、死んだ優子の事を想起そうきさせて刺激したくなかったからだ。


 そのまま仏間へ行き、仏前に正座していつもより長く手を合わせて謝罪の気持ちを表した。福丸や妻はそんな俺の後ろ姿を見ている筈だ。


 もう充分じゅうぶんだろう……。異常に長過ぎるのも逆効果になる……。後はもう一度言葉に出して謝罪して、明日からも引き続き償いをさせて頂くと宣言すればいいだろう。


 俺は仏前から立ち上がりリビングへと戻った。福丸はリビングの入り口に立っていて、妻は変わらずキッチンにいた。


 近付き過ぎず遠過ぎず、俺は適度な距離まで近付いて行き、姿勢を正して改めて謝罪した。


「改めまして昨日来られなかった事をおびいたします。申し訳ございませんでした」福丸へ向かって頭を下げ、続けて妻へも頭を下げた。

「もういい」福丸が静かに言った。


 俺はそれを許しの言葉だと受け取った。


「失礼します」もう一度頭を下げて福丸の前を通って玄関へ向かおうとした。

「明日からはもう来なくていい」福丸は抑揚よくようのない声で言った。


 えっ、それは俺のこれまでの贖罪しょくざいを受け入れてくれ、犯した罪を許して貰えるという事か。いつかあの刑事が言っていた事が現実になるのか。やったぜ。これで直美と産まれてきた娘と三人で、何もはばかる事もなく暮らしていけるのだ。


 思わず笑みがこぼれるところをグッとおさえた。そして俺は感謝の気持ちを伝えようと振り返って、福丸を見た。


 違う。


 福丸の俺を見つめるその目は、俺の事を許している顔では決してなかった。


「お前という人間の本性がどういうものかを改めて知った。私たちとの約束をたがえたならばどうなるかは憶えているな」

「違うんです。約束を破るつもりは本当になかったんです。昨日もちゃんと来るつもりでいたんです。でも、いきなり直美が破水したって知らされて、それで俺驚いてしまって、気が動転したまま病院へ駆けつけたんです。それで分娩室に……」

「言い訳は聞きたくない。たくさんだッ!」

「いえ、聞いて下さい」

「それでは逆にお前にたずねよう」


 何をだ?


「どうしてこの家に来られなかった?」

「ですからそれは……」

「出産するのはお前の妻であってお前ではない。妻が分娩室に入ったのならば、お前にはやれる事はない筈だ」


 福丸は尋ねると言っておいて、俺に答えさせようとはしなかった。


「それは……」


 直美との立ち合い出産の約束を優先したとはさすがに言えなかった。


「分娩室の前で待っている間、お前が病院を抜け出してここに来られないとは言わせないぞ」


 確かに福丸の言う通りかもしれないが、あの時の俺にはそんな事を考える精神的余裕はなかったのだ。


「すみません。初めての事ばかりで頭がパニックになってしまっていたんです。許して下さい。これからはこのような事は二度といたしません。だから直美にはどうかあの事件の事だけは言わないで下さい」頭を下げ、それでも足りないと思ったので土下座をした。


 何としてでも直美に話される事は阻止そししなければならない。


「お前にとっての反省と謝罪の気持ちとはどの程度のものだったかはよく分かった。心のない形ばかりの反省と謝罪などいくら受けても仕方がない。これ以上お前の偽物にせものつぐないに付き合うのは止める事にした」

「そんな……。あの事件の事を直美に知られたら、俺は産まれた子供を抱けなくなります」

「知るかッ! それは自業自得だ。これでお前にも私たち夫婦の気持ちが少しは理解出来るだろう。しかし、それで子供が抱けなくなってもお前の子供は生きている。それだけでも幸せだと思えッ!」


 福丸の迫力をの当たりにして、俺は目をせた。福丸にこれ以上何を言っても無駄だと悟った。


「お前に最後の慈悲じひを与えてやろう。お前が私たちより先に直美さんに自分の犯した罪を正直に告白する機会は与えてやる。ただし、その場合何もあますところなく真実を告げるのだ。少しでも事件の事を歪曲わいきょくしたり、自分も被害者などと言い訳する事は許さん。お前の告白を聞いた直美さんがそれを受け入れて、お前の事を許すと言うのなら、それについては私たちは不服は言わない。しかし私たちはこの場所から越しては行かない。お前の方が越して行った時は、私たちはそこへ付いて行く。私たちは死ぬまでお前の事を見続ける」


 マジか。


 それをするには勇気がいったが、俺は福丸の真意を見極めようと顔を上げて福丸の目を見つめた。

 

 福丸はその俺の目を強くにらみ返してきた。俺はその目力に耐えきれずに顔をそむけてしまった。


「お前が直美さんに告白したとしても、直美さんには私たちからも話をさせて貰う。お前が真実を話しているのならば、私たちの話に直美さんは驚く事はないだろう」


 話はそれで終わった。


 俺はほうけたように家に戻り、ダイニングの椅子にガックリと腰を下ろした。


 俺はあの事件の事をどのように話せば直美が許してくれるのかを考えた。


 十四年前のあの日。俺は福丸優子を襲う事に反対しなかった。そして拉致現場にトンネルを提案したのは俺だ。更に監禁場所は俺の父親が管理を任されている別荘で、その別荘の鍵を持ち出したのも俺だ。そこで起こった出来事……。優子の必死の抵抗……。泣き叫び……。裸……。殴られて暴行されて腫れあがった顔と体……。涙……。死……。森での穴掘り……。死体をゴミのように捨てた……。どう話そうとも女の直美が許してくれる要素は何もない。今まで通りに俺を愛してくれるとは思えなかった。


 直美の父親の社長は、事件の事を知ったらきっと俺を殴るだろう。いや、それで済めばいいが、もしかしたら殴り殺されるかもしれない。殺されなくても、孫を、俺の娘を、絶対に俺の手には渡さないだろう……。


 終わりだ……。


 キッチンの調理台の片隅にあった包丁に目がいった。直美が通販で買った包丁三本セットだ。その包丁を斜めに差し込んで簡単に取り出せる木製の収納箱を作ったのは俺だ。


 俺は椅子から立ち上がり、包丁セットから一番切れ味が良さそうな包丁を一本取り出した。


 アイツらに話をさせないようにすればいいんだ。


 俺は引き抜いた包丁を見つめて考えた。


 今日は木曜日だ。時刻は九時を過ぎたところだ。角の家の夫婦は共働きだから、今の時間は仕事で家にいない筈だし、子供は学校に行っている。


 という事は、今この住宅街にいるのは俺とあの夫婦だけだ。


 殺すなら今しかない。


 年寄りを二人殺す事はそれほど難しくないだろう。一人は生気せいきのないひ弱なババアだ。


 覚悟と度胸さえあれば出来る筈だ。


 俺にそれがあるか?


 ある。


 そうしなければやっと手に入れた幸せが壊れてしまうのだから。他に選択肢せんたくしはない。


 殺した後はどうする?


 あの家に放置しておくわけにはいかないぞ……。


 山中湖!


 山中湖のログハウスの建築現場には一昨日おとといから外構工事の業者が入っていて、作業で使うショベルカーの鍵はログハウスの玄関の靴箱の中に隠し置いていた筈だ。


 夜中に建築現場へ行きショベルカーを使えば、死体を埋める穴も容易よういに深く掘れる筈だ。優子の死体が見つかったのは穴が浅かったからで、ショベルカーを使えればその心配はない。


 俺は覚悟を決めて家を出た。


 道に出て辺りを見回したが、人の姿や気配はなかった。


 福丸家の玄関のドアには鍵はかけられていなかった。音を出さないようにそっとドアを開けて中へ忍び込んだ。靴をどうするか迷ったが、脱いで上がった。廊下を進み、リビングから見えないギリギリのところで立ち止まり、室内の様子をうかがった。すると、夫婦のボソボソとした話し声がリビングかられ聞こえてきた。


 俺は再度自分に問いかけた。


 覚悟はいいか?


 いい。


 一つ深呼吸してリビングへと飛び込んだ。


 突然姿を現した俺に、リビングのソファーで向き合って座っていた夫婦は驚愕きょうがくの顔を向けてきた。そして福丸は俺の右手に握られていた包丁に気が付いた。


「お前……」


 福丸の次の言葉が発せられる前に、俺は包丁を体の正面に構えて福丸に向かって無言で突進した。


”ズザッ” 少しの抵抗を感じたが、包丁は福丸の腹の中心付近に突き刺さった。


「うッ」福丸がうなった。


 福丸の吐く息が俺の顔にかかった。


 そして福丸は俺の両肩を掴んで押しがそうとした。俺はそれにこうして全体重をかけて包丁をさらに奥に刺し込んだ。すると福丸の両腕の力がガクッと抜けた。


「お前が悪いんだからな」俺は福丸の耳元でささやいた。

「ヒッ……。あなた……」向かいのソファーに座っていた妻が震えた声で小さく言った。


 妻は恐怖で膠着こうちゃくしているように見えた。


 福丸の腹から包丁を引き抜いた俺と妻の目が合った。


 瞬間、俺はテーブルを乗り越えて妻に向かって包丁を突き刺した。と思ったが、妻は包丁が体に届く前に間一髪かんいっぱつでソファーの横へ倒れ込んで、そのままキッチンの方へとって逃げて行った。


「逃げるんじゃんねえ、このクソババアッ!」俺は口汚くちぎたなののしりながら妻にせまって行き、包丁を振り上げた。

「ギャァー! 助けてッ!」妻はそれまで恐怖でおののいていたのが嘘のように大声で叫んだ。


 俺はひるまず、力任せに妻に向かって包丁を振り下ろした。


”シュッ”


”ガッ”


 妻はひじを上げて腕で包丁を受け止めた。包丁は妻の腕を切りいて骨に当たった。腕から噴き出した血が俺の顔にかかった。


 チクショウッ!


 今度は突き刺そうとして、体重をかけてあっしかかった。対して妻は体を反転させてけかけたが避け切れず、包丁の先が脇腹に突き刺さった。


「痛ッ」蚊の鳴くような声が上がった。

「何をしているのッ! 止めなさいッ!」突然背後で怒声どせいが響いた。


 振り返ると女が立っていた。あの女だ。あの生意気な刑事。


 お前が何でここにいる?


 俺は反射的に妻の脇腹から包丁を引き抜いて、女刑事に向かって包丁を振り上げて突進して行った。

 

 

 




 


 


 


 

  


 

 


 

 

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