第19話 事件にならなかった事件

「悪い、一人で行ってくれや」

 

 それが車で迎えに行った時に家から出て来た鯵沢の第一声だった。鯵沢は普段締ふだんしめないネクタイを右手に握っていた。


「どうしたんです?」

「本部から呼び出しをくらった」

「本部?」

「高尾の特捜本部だ」


 一ヵ月前に鯵沢が殺人及び遺体遺棄事件の捜査の応援に駆り出されていた、特別捜査本部の事だ。指揮官が身だしなみに厳しいとかで、ネクタイの着用が義務付けられていると鯵沢が愚痴っていたのを思い出した。


 それでネクタイを持っているのね。


「何か進展があったんですか?」

「おう、身元不明だったもう一人の女の身元が判明したのと、世田谷の女子高生の方が出会い系サイトで複数の男と関りがあった事が判明したんだとよ。そこで本部の上の方は捜査が長引いている事にあせっているからよ、人員を増やして人海戦術で一気に片をつけようって腹なんだ」


 事件発生から一カ月以上が経過していた。ニュースでは扱われなくなり世間の関心は薄れていた。しかし殺人事件を解決出来ないでいる事は、警察のメンツと指揮官の評価に大きき関わってくるのだ。


「そうですか、ご苦労様です」

「で、山梨へは一緒に行けなくなっちまった」


 今日の山梨行きを提案してきたのは鯵沢の方だった。福丸優子の事件以前に、金沢たちが起こした事件がないかを掘り起こしをしてみようというのだ。


 私がひそかに思っていた事を鯵沢も考えていたのだ。鯵沢は金沢たちのグループにいて、優子の事件当時入院していた男に話を聞こうとしていたのだ。


「いいですよ。話を聞くだけですから私一人で充分じゅうぶんです。任せて下さい。それより急いでいるのなら駅まで送りましょうか」

「おう」鯵沢は当然のように車に乗り込んだ。


 環状七号線を上り、高尾に行きやすい京王線の代田橋駅まで送って行く事にした。そこで鯵沢を降ろせば、私はそのまま首都高速に乗り中央高速道路へと乗り継いで行ける。


 鯵沢は道すがら、身元不明だった女が埼玉県大宮にあるキャバクラのホステスだった、神崎未央という新潟県出身の二十五歳の女であった事を教えてくれた。神崎は店の寮に住んでいたらしいのだが、四ヵ月前から消息が分からなくなっていたそうだ。ホステスが突然断りもなく辞めるのは珍しくないらしく、店の店長や従業員は神崎がいなくなった事に特に気を留める事もなかったようで、その為身元が判明するのが遅れたのだ。


 鯵沢を代打橋駅前で降ろし、永福の入り口から首都高速に乗った。


 鯵沢には悪いが、かえって一人の方が良かった。鯵沢には福丸から聞いた噂話をしていなかったので、私一人で行けばその噂話についても気兼ねなく調べる事が出来るのだ。


 中央高速道路を走って行き談合坂を超えた辺りから気温がグッと下がってきた。天気予報では、山梨地方でこの冬最初の雪が降るかもしれないと言っていた。車のタイヤはスタットレスに交換しているが、チェーンは用意していなかった。大雪が降らない事を祈ってアクセルを踏み込んだ。


 甲府市に到着して車から下りると、ブルッと身震いが襲ってきた。東京と比べると気温が五度以上は低いのではないかと感じた。空を見上げると、今にも雪が降り出しそうな雲行きだった。


 新井から聞いた高岡勇気の住むマンションは、駐車場から歩いて二分のところにあった。甲府駅を見下ろす事が出来るタワーマンションだった。高岡はこのマンションの十五階に一人で住んでいるらしい。


 高岡には事前にアポは取っていなかった。警視庁の刑事の訪問をこころよく思わず断ってくる事が予想出来たからだ。予告なく部屋へ訪ねて行って対応して貰えない時は、外に出て来るのを待つつもりでいた。しつこく付きまとえば嫌気いやけがさして少しぐらいは話を聞いて貰えるだろう。それでも駄目なら、本意ではないが女の武器を使うまでだ。


 高岡の部屋のインターフォンの呼び出しボタンを押したが、反応はなかった。眠っているのかもとしつこく三回ボタンを押したが、結果は同じだった。


 時刻は十時十分だった。平日のこの時間、普通の人間なら働いているのだろうけれど、高岡はオートバイ事故の後遺症で半身不随はんしんふずいになってしまっていて、働いていない事は新井から聞いていた。なので平日のこの時間でも在宅していると見越して訪ねて来たのだが、思惑おもわくは外れてしまったようだ。


 仕方がないのでマンションの表のレンガ造りの花壇かだんふちに腰かけて、高岡が帰って来るのを待つ事にした。ニット帽にマフラー、皮手袋をはめて完全防備の態勢を整えた。しかしそれでも一時間以上は待ちたくないと思った。


 二時間以上待って体が冷え切った頃、歩道のない一方通行の道の中央を車椅子に乗った男がこちらに向かって来るのが見えた。


 高岡だと思った。


 待ち構えようと立ち上がると、車椅子の後ろに宅配便の車が迫って来てクラクションを鳴らした。しかし車椅子の男は道をゆずろうとはしなかった。すると車の運転手はイラついたようにもう一度クラクションを鳴らした。


「うるせえッ! こっちも車両だッ。そんなに先に行きたいならき殺して行きやがれッ!」


 男は三十メートルは離れていた私にも聞こえるような怒鳴り声を上げた。


 癇癪持かんしゃくもちか、厄介やっかいだな。


 宅配便の車はシビレを切らして脇道にれて行った。


 車椅子の男は何事もなかったかのようにマンションの前まで来た。車椅子は電動式で、背もたれの後ろに大きなレジ袋が下がっていた。


 私はマンションへ入ろうとする男の前に立ちふさがった。


邪魔じゃま」男は目の前の私を見上げてとげのある声で言った。


 高岡は金沢の二歳上だから三十一歳の筈だ。車椅子生活の影響だろうか、男はその言動とは裏腹に細くひ弱な体格をしていた。


「失礼ですが、高岡勇気さんですか?」機嫌をそこなわないように飛び切りの笑顔を作って言った。

「あんた誰?」

「失礼しました。私、警視庁世田谷西警察署の諸星と申します」そう言って身分証を提示した。


 笑顔はキープだ。


「警視庁? 東京の刑事が何? 俺、東京の刑事に世話になるような事何もしていないけど。もっともこの体じゃ何かしたくても出来ないけどな」


 冗談なのだろうが、さすがに愛想笑いも躊躇ためらわれた。


「ジョーク言ったんだから笑えよ」


 笑って欲しいのか。面倒くさい奴だ。仕方なく笑ってやった。


「嘘笑いするんじゃねえよ。バカにしているのか」


 笑えと言ったのはお前だろうが。真顔に戻した。


「少しお話を伺いたいのですが」

「いいぜ、付いて来な」高岡はそう言うと、電動車椅子を動かした。

「いいんですか」あっさり許可されたので拍子抜けして確認してしまった。

「いいよ。今週はコンビニの店員としか会話していないからよ、誰かと話をしておかないと口まで麻痺したら困るだろう」


 冗談か? ひかえめに笑ってやった。


 それが正解だったらしく、高岡は話を続けた。


「男の刑事なら拒否るところだけど、あんたは女だからひまつぶしに話くらいしてやるよ」

「それは、どうもありがとうございます」高岡の対応に調子が狂ってバカな返事をしてしまった。


 高岡はそんな私を気に留める事もなくマンションのオートロックの扉を入って行こうとするので、め出しをくらう前にあわてて後を追った。


 高岡の部屋のリビングは三十㎡くらいの広さがあった。他の間取りは分からなかったが、扉は四つあった。窓からは南アルプスの山々がボンヤリ見えたが、晴れていれば絶景なのだろうと想像した。


「よう」キッチンの前で電動車椅子に乗ったままの高岡が私を呼んだ。

「何ですか?」

「後ろの荷物を取ってくれよ」

「いいですよ」


 私は電動車椅子の後ろに回り、背もたれの後ろのフックに引っ掛けられていたレジ袋を外した。レジ袋の中には、カップ麺や冷凍食品などの調理のいらない食料品とお菓子がパンパンに詰まって入っていた。


「冷凍食品、冷凍庫に入れておきましょうか」

「気が利くな、頼む」


 上から目線が気に食わなかったが、黙って冷凍庫を開けて冷凍食品を入れてやった。冷凍庫の中にはまだ半分以上冷凍食品が埋まっていた。


「まだあるのに買って来たんですか?」

「ああ、半額セールやってたからな」


 それ分かる。意外と倹約家なんだな。


「それに雪降られると外出られなくなるからな。備えあれば何とかってやつだ」


 うれいなしね。


 私はそれまで知ろうともしなかった車椅子生活者の不自由さを垣間見た気がした。


「部屋キレイにしていますね」


 車椅子の生活では掃除機をかけるのも一苦労だろうに。この部屋は私の部屋よりも格段にキレイだった。

 

 あっ! もしかしたら金沢の部屋を掃除したのはこの男か?


「一週間に一度業者に頼んで掃除をして貰っているんだ。こう見えても俺はキレイ好きなんだぜ。こんな体になる前は掃除だけは自分でしていたほどだ。まあ、金はかかるがホコリの中で生活したくないからな」


 そんなわけないか。


 そういえば高岡はどのようにして生活費を工面くめんしているのだろう? 新井に聞いておけば良かった。


「で、何?」

「えっ」

「俺に聞きたい事があってわざわざ東京から来たんだろう」

「ええ、はい」

「何? 東京なんか何年も行っていないから全く心当たりないんだけど」


 どう話を切り出そうか高岡を待っている間考えていたが、ショックを受けさせて心をさぶる事で本心を引き出せると思い、どストレートに金沢の身に起こった出来事を話して聞かせた。


 高岡は私のその話を聞き終えるまで言葉をはさむ事なく静かに聞いていた。そして話が終わりかけた時。


「フッ……」高岡は小さく笑った。


 今の笑いはどういう意味だ?


 その意味は直ぐに判明した。


「知り合いに俺より悲惨ひさんな目に遭う奴が現れるとは驚きだ」高岡は言い終わると、さっきより長く大きく笑った。


 コイツ、喜んでいやがる。


「人を殺したりするからバチが当たったんだぜ、きっと。いや、違うか。復讐されたんだ。あの殺された女の親に」


 高岡はクイズに正解したような得意気とくいげな顔をした。


「それは違います。親御さんは金沢に傷害を負わせた犯人ではありません」鯵沢が聞いたら怒るだろうが、断言してやった。

「何だそうなのかよ、つまらねえ」


 つまらねえとは何よッ!


 やはりコイツは金沢たちの仲間だ。感覚がおかしい。


「じゃあ誰がやったんだよ?」

「それを今捜査しているのです。そこで高岡さんが何か知っていらっしゃるのではないかと思いまして、こうして話をうかがいに来たのです」

「俺? 何で俺が何か知っていると思うの? 俺は何も知らないよ。だいたいアイツらが事件を起こした時は、俺は入院していたんだから」

「ええ、それはぞんじています。ですから、高岡さんにはあの事件以外のお話しを伺いたいのです。あなたはあの事件が起こる以前、金沢たちとよく一緒に遊んでいたんですよね?」

「えっ、ああ……、いや、別によくってほどじゃない……。たまにだ、たま」


 コイツ、たまを強調したな。それに急に歯切れが悪くなりやがった。


「あの事件以前に金沢たちが誰かにうらまれるような悪さをしていたかは知りませんか?」

「さあ、どうかな……。さっきも言ったけど、アイツらと遊んでいたのはたまにだから……。あー、でも俺と一緒に遊んでいた時は、そんな手足を切断されなければならないような恨みを買う悪さはしていなかったと思うけどな……」


 コイツ、嘘をいているな。


 本人は気付いていないみたいだが、高岡の目はキョロキョロと泳いでいた。分かりやすい奴だ。隠し事をしているのなら教えて貰おうじゃないの。


「あの事件以前にも女性を襲っていたなんて事はありませんか?」

「な、ないよ。あるわけないだろ」


 思いっ切り挙動不審だ。これはもはや『ある』と言っているようなものだ。


「そんな事をしていたら警察に捕まっているだろうが」

「そうですよね」

「だろ。バカな事を言うなよ」


 高岡は電動車椅子の向きを変えて冷蔵庫の前まで走らせた。


「何です?」

のどかわいたんだよ」

「私が取りましょうか」

「いいよ」


 高岡は冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。


「あの、お酒は」

「いいだろ、俺が俺の家で何を飲もうと」


 高岡は冷蔵庫のドアを乱暴に閉めた。


 私に飲み物をすすめる余裕よゆうはないようだ。高岡は缶ビールのプルトップを開けて、ビールを勢いよく飲み出した。


 動揺どうようしているな。


 コイツも、金沢たちと優子の事件以前に別の女の子を襲っていたのか……。


 それは誰だ?


強姦罪ごうかんざい時効じこうは何年か知っていますか?」

「……」高岡は答えずにビールを口にした。

「十年です。ですから、金沢たちがあの事件以前に女性を襲っていたとしても、今現在罪に問われるような事はないのです。」


 金沢の名前を強調してやり、高岡の名前はあえて出さないでおいた。


「そんな事を言われても知らないものは知らないよ。もう帰ってくれないか。これって任意にんいなんだろ。俺が拒否ったらそっちは帰らなければならない事は知っているぞ」


 コイツらはそういう知識だけは一人前に持っている。もしかして強姦罪の時効の事も知っていたのか?


「帰れよ」


 高岡は電動車椅子を私の方に走らせて、私を玄関の方へと追いやろうとしてきた。


「分かりました、帰ります」


 私は追いやられるままに玄関へと行かせられ、仕方なく靴をいた。ただし、時間をかけてゆっくりと。


「最後に一つだけ教えて下さい」

「知らないよ」

「まだ質問していません」

「もう答えない」


 私は構わず質問した。


「あなたが事故にわれた時に亡くなられた娘さんがいましたよね? 名前は権藤亜希さん」


 高岡の息が一瞬止まった気がした。


「もしかして、その亜希さんをあなたたちが襲っていただなんて事はありませんよね?」


 まったくのヤマ勘だったが、高岡が半身不随になった原因の事故について調べていた時にふと思いついた事を、もしかしてと思ってぶつけてみた。


「それで亜希さんがあなたに恨みを抱いて、あなたの乗るオートバイの前に亜希さんが乗っていた自転車を転ばしたなんて事はないですか?」


 さあ、どう反応する?


「ふざけるなッ! 何の証拠があってそんな事言うんだッ! 知るかッ! 俺は被害者だぞッ! あの女のせいで俺はこんな体にさせられたんだぞッ! 言いがかりつけるなッ! 帰れッ! バカヤロウッ!」


 高岡はそう言いながら私を電動車椅子で強引に玄関の外へと追い出した。


 当たった!


 私のヤマ勘推理が当たった事を、高岡の反応が物語っていた。


 玄関ドアが閉められて鍵が掛けられる音がした。


 一か八かでカマをかけてみたのだが、高岡があんなにも動揺するとは思ってもみなかった。おかげで高岡と金沢たちが、福丸優子の事件を起こす前に権藤亜希という別の少女を襲っていた事は間違いのない事実だと確信した。


 高岡は少年グループのリーダーだったのだから、権藤亜希の事件に関しては主導的立場を取っていた筈だ。だから権藤亜希は、高岡の運転するオートバイの前に身を投げ出したのだ。


 先日、福丸から噂話を聞いた後に、噂の元になったと思われる事故について調べてみたのだ。


 それによると、事故は十四年前の十月五日の十七時頃、甲府市内の七号線上り車線で起こった。車道の歩道寄りを自転車に乗って走っていた権藤亜希・十八歳が、後方から走ってきた高岡が乗るオートバイにねられたのだ。


 オートバイと自転車が衝突した瞬間、亜希は自転車ごと中央車線を越えるまではじき飛ばされ、対向車線を走って来たトラックにかれて亡くなったのだった。


 高岡は倒れたオートバイと共に道路をすべり、歩道脇の標識の支柱に体を叩きつけられた。その結果、脊椎せきつい損傷そんしょうして長期の入院をいられた末に、半身不随の体になったのだった。


 高岡は警察の聴取ちょうしゅに、前方を走っていた自転車に乗った女が、突然バランスをくずして倒れたので避け切れなかったと証言した。


 警察の現場検証の記録では、高岡の証言を裏付けるような事故の痕跡が認められ、車で後方を走っていた目撃者も高岡とほぼ同じ証言をしていた。しかし同時に、高岡のオートバイがかなりのスピードを出して走っていたとの目撃証言も付け加えられていた。


 高岡が日頃からこの付近の道路をオートバイで暴走しているとの証言を得られた事から、検察は過失運転致死の罪で起訴する事も検討したようだ。しかし未成年である事も考慮こうりょされてか、結局事故の責任は問われずに不起訴となった。


 そしてこれは私の邪推じゃすいだが、この不起訴には高岡の県議会議員の父親への捜査機関の忖度そんたくが働いたのではないかと思った。


 亜希は自殺したのではないかと、警察は一応調べていたようだ。だが、遺書はなく、家族や友人からも自殺するような動機がないと断言する証言が得られたので、結果事故として処理されていたのだった。


 しかし高岡たちによる亜希に対する暴行の疑いが濃くなった今、亜希の事故はただの事故でなかった事が疑われる。だが、亜希が亡くなってしまっているので、その真相は永遠に確かめる事が出来なくなってしまったのだ。残念でならない。


 亜希は高岡に復讐する為に、自分の命を投げ出して思いをげようとしたのかもしれない。高岡の命は奪われていないのでその思いは遂げられなかったのだが、その代わりに高岡を一生不自由な体で生きていかなければならなくさせたのがせめてもの救いだ。


 高岡のマンションを出て駐車場に向かう途中で雪が降ってきた。どうやら天気予報は当たったみたいだ。都会の人間にとっては初雪は気持ちを高揚させるものがあるのだが、権藤亜希という新たな性犯罪被害者がいた事を知ってしまった今では、初雪は私の心をこおらせるのを助長させるものになった。


 亜希の家が市内で歯科医院を開業している事は事前に調べ上げていた。鯵沢と一緒では行けなかった場所だ。スマホにメモした住所をナビに入力して目的地を目指した。そこは古くからある一戸建てが建ち並ぶ住宅街だった。


 しかし辺りを見回しても歯科医院らしい建物は見当たらなかった。


 そこで、目に留まった一軒の美容院で歯科医院の事をたずねる事にした。


 その美容室はレトロ感が漂っていて住居と一体になっているようだった。【多恵ビューティーサロン】と書かれた窓から店内をのぞくと、レースのカーテンの向こうでソファーに座って楽しそうに語らっている年配の女性二人の姿が見えた。店内は狭く、セットチェアーは二台しかなかった。


 ドアを開き店内に入った。ドアに取り付けてあったかねが鳴ったので、女性二人が同時にこちらに振り向いた。二人の前のテーブルにはお茶とお煎餅せんべいが置かれていた。


「いらっしゃい」手前にいた白い制服を着た女性が言った。


 この店の店主の多恵だろう。多恵はおっくうそうに立ち上がった。


「あっ、私お客じゃないんです。すみません」

「あら、そうなの」

 多恵はそう言うと、私の体を上から下、下から上へと品定しなさだめをするように視線をわせた。

「そうよねぇ、若いからおかしいと思ったのよねぇ。この店にはあなたみたいな一見いちげんの若い人は来ないもの」


 多恵はコロコロと笑うと、それにつられて奥にいた女性もアハハと笑った。奥の女性はこの店の常連客なのだろう、髪の毛がキレイにセットされていた。


「あのー、少しお尋ねしたい事がありましてお邪魔じゃまさせて頂いたのですが」


 非公式な捜査だったので、刑事である事はせた。


「何かしら?」多恵が聞いてきた。


 常連客の女性も耳をかたむけていた。


「このご近所に権藤歯科医院という歯医者さんがあると思うのですが、場所を知っていたらどちらにあるかをお教えて頂けませんか?」


 多恵と常連客が顔を見合わせた。


「あんた、歯が悪いのかい?」常連客が言ってきた。心配そうな顔はしていなかった。

「ええ、そうなんです。知り合いにうでの良い歯医者さんがいると聞いたものですから、て頂こうと思って」口から出まかせが自然に出た。我ながら悪くない出まかせだった。

「あら、残念ねぇ。先生の歯医者なら半年くらい前になくなっちゃったのよ」


 多恵が言うと、常連客が話を続けた。


「腕が良かったからなくなって困っているのよねぇ。この前急に歯が痛くなったから駅前のビルにある歯医者に行ったのよ。で、その医者若くてイイ男なんだけど、肝心かんじんの腕が悪いの」

「あらいやだ、どこそこ?」


 女性たちは私の存在を忘れて自分たちの話に夢中になった。


「あのー、すみません」

「あらいやだ、ごめんなさい」


 私の存在を思い出してくれた。


「なくなったっておっしゃいましたけど、病院を閉められたんですか?」

「閉めたというか、先生が亡くなられたから閉めなくてはならなくなったのよ」

「急だったのよねぇ」常連客が補足ほそくした。

脳梗塞のうこうそく。治療中に倒れたのよ」

「足立さんところのお嫁さんを治療中に」

「そうそう、直ぐに救急車を呼んだんだけれど駄目だったのよねぇ」

「ホントお気の毒」

「そうなんですか……」


 権藤亜希の父親が亡くなっていたとは想定外だった。可能性は低いと思っていたのだが、金沢に傷害を負わせたのは亜希の父親ではないかと思っていたのだ。


「それでは奥さんは一人残されてお寂しいでしょうね」


 歯の治療に来た人間が、亡くなった歯医者の妻の事を気にするのはおかしな話だったが、お喋りな女性二人は気にしていなかった。


「恵理さん」


 妻の名前らしい。


「先生より早くにがんで亡くなっているのよ」

「二年前。もし恵理さんが生きていたら、先生も脳梗塞にならなかったんじゃないかしら」

「そうよねぇ」


 二人は気の毒そうな顔をしてうなずき合った。店内の雰囲気はドンヨリと暗くなった。


「先生も頑張がんばって奥さんの事看病していたのよねぇ。奥さんの車椅子を乗せる為に車まで買い替えて、病院への送り迎えも一生懸命にしていたのよ。だから奥さんが亡くなってガックリきちゃったのかしら。そのせいで病気になって奥さんの後を追うように亡くなってしまったのかもねぇ」

「そうねぇ……。うちの亭主なんか私が死んだらバンザイして喜びそうだけど」

「うちのもよ」


 そう言うと、二人は大声で笑い合った。さっきまでのドンヨリは何だったのかと人間不信になりそうだ。しかしそれはそれとして、こうなると私が何を聞こうとこの二人は深く考えもせずに色々と答えてくれそうだ。


「先生のお宅にはお子さんはいらっしゃらなかったのですか? 歯科医院を継ぐような?」

「いたわよ。亜希ちゃんていう子が。でも高校生の時に交通事故で亡くなっちゃったのよ。可哀想かわいそうに」

「頭が良くてすごく美人さんだったのよ」


 美人だったのか。しかし私が知りたいのは別の事だ。


「その亜希ちゃんには兄弟はいなかったのですか?」

「いたわよ、双子のお姉ちゃんが。双子だけあってあの子もキレイな子だったわね。お姉ちゃんの方は勉強よりスポーツが得意で、確か陸上の短距離走で国体に行った事があったんじゃないかしら。それに下級生の女の子にモテて、バレンタインデーの時なんかチョコをたくさん貰ってきて『オバちゃんあげる』ってチョコくれたのよ」

「アラッ、ズルい。私貰っていないわよ」


 また話が脱線だっせんしそうだった。


「あのー、名前は? その亜希ちゃんのお姉さんの名前?」

「名前はね……」多恵は亜希の姉の名前を教えてくれた。


 その名前を聞いて、私はかみなりに打たれたような衝撃しょうげきを受けた。


 そうか、そうだったのか、だからか……。


 この時、私には十四年前にこの街で起こった悲劇と今回起こった金沢の事件とが、一つの線でつながった気がした。


 美容室を出ると、私は多恵から聞いた権藤歯科医院があった場所へ行ってみた。


 雪はボタン雪に変わり本格的に降っていた。権藤歯科医院の建物は解体されていて更地さらちになっていて、そこを雪が白く染めていた。


 多恵から聞いた話では、三週間前に解体工事が始まり五日で全てがなくなったらしい。


 それから私は、雪の降る中を権藤姉妹が通っていた高校へおもむき、姉妹の事を覚えていた先生に話を聞いた。その先生から市内に住む姉妹の同級生の友人を紹介して貰い、その友人たちを訪ねて話を聞いた。


 しかし話を聞いても、なぜ姉が妹に起こった悲劇を知り得たのか、十四年経った今になって金沢に対してあのような酷い仕打ちの復讐をしたのかは分からなかった。だが、ここ数ヵ月の市内における姉の不可解な行動の一端いったんは判明した。


 聞き込みが終わった時には雪が十センチ以上積もっていて、チェーンなしでは東京へは帰れない状態になっていた。仕方なく課長に許可を貰い、甲府で一泊していく事にした。この雪は今夜中には止み雨に変わるという予報が出ていたので、明日の朝には雪は解けて東京へ無事帰れる事だろう。


 鯵沢に頼まれていた結果報告の電話はしなかった。


 私が考えていた通り亜希の姉が金沢の事件の犯人だとしたら、福丸夫妻の時と同様に罪に問いたくない。そんな気持ちが芽生えてしまっていたので、これから一晩かけて鯵沢を誤魔化す妙案みょうあんを考えなければならなくなった。

 

 

 

 

 


 


 


 

 


 

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