第18話 罠

 金沢の部屋を捜索してから二週間が過ぎた。


 その間に山梨へ行き、福丸頼子の友人の看護師の徳永麻衣子に話を聞いた。徳永は来年定年を迎えると言っていたが、パワフルでハツラツとしていて、看護師の仕事にほこりを持っている人物だった。話を聞いた限りでは、頼子に違法に薬物を渡す人物とは思えなかった。


 病院の薬剤師にも話を聞いたが、薬は厳重げんじゅうに管理されていて、睡眠薬や筋弛緩薬のような劇物は、二重チェックの体制が組まれているので無断で持ち出す事は不可能だと言われた。


 この証言を聞いても鯵沢は福丸夫妻を容疑者から外そうとはしなかったが、その容疑は極めて薄くなった事は認めた。


 それでも、また福丸家へと話を聞きに訪れた。


 福丸と堂本の関係に変化はなかった。新しい情報は、堂本が山中湖近くにある別荘建築の為に、朝早くに家を出て行き、夜遅くに帰って来るという事ぐらいだった。


 金沢が活動していた池袋の同業者の一部や地回りのヤクザにも話を聞いたが、金沢が関与して警察沙汰になったような深刻なトラブルはなかったようだ。


 私たちの捜査は完全に行きまってしまった。


 病院に入院している金沢は、相変わらず暴れて看護師たちを困らせていた。鼓膜こまくの回復は当初の予定より遅れるかもしれないと報告された。声帯の手術はその費用が捻出ねんしゅつ出来ないので、その目処めどが立たないでいた。課長には再三手術費の建て替えを願い出たが、そのたびに『そんな予算はない』の一言で一蹴いっしゅうされた。


 そんなある日、真鍋奈美から電話があった。


 奈美は私が上野西警察署の少年課に在籍していた当時に、何度か補導した事があった娘だった。奈美を最初に補導したのは、彼女が十六歳の夏だった。幼い顔に似合わない濃いメークをしていて、髪を金色に染め、年齢をいつわって風俗店で働いていたのだ。母親の再婚相手に性的虐待せいてきぎゃくたいを受けて、家出中の出来事だった。


 千葉県の船橋市に実家がある娘だったが、私は親身になって相談に乗ってあげた。そして船橋の警察署と児童相談所とも緊密きんみつに連絡を取り合って、事を収めてあげた。


 ほどなく継父けいふは家を出て行ったが、奈美は家には戻らずに秋葉原のメイド喫茶で働き始めて、自立して生活していた。


 最後に会ったのは転属する前の節分の頃だった。その頃奈美はメイドの仕事と掛け持ちして地下アイドルをしていた。懇願こんがんされてライブを見に行ったのだが、お客は出演者の半分もおらず、客席がスカスカだったのを憶えている。そんなライブ会場で、奈美が汗だくで踊り歌っている姿は、私には過去からのがれようと必死にもがいているように見えた。



 そんな奈美から相談があると言うので、勤務が終わった二十時に秋葉原のカラオケボックスで会う約束をした。約束の時間に十分遅れて現れた奈美は、金髪だった髪を黒髪に変えていて、メークも好感が持てるナチュラルメークになっていた。


「凛ちゃん、久し振り」


 奈美は私の事を凛ちゃんと呼ぶ。知り合ってからしばらくは刑事さんと呼んでいた筈だが、いつの間にか凛ちゃんに変わっていた。


「うん、久し振り。イメチェンしたんだ」

「そう、驚いた?」

「驚いた」心の底から言った。


 奈美は髪の色も変わったが、内面までもが変わったように感じた。何かきものが落ちたかのようにスッキリした顔をしていた。


「私も」奈美はそう言うと、コロコロと無邪気に笑った。


 このように心の底から笑う奈美を初めて見た。


「私も自分がこんなに変わっちゃったのにビックリ。アンビリーバブルって感じ」とまた笑った。その瞳は輝いていた。


「何か奈美、キラキラしているね」

「アハッ、嬉しい。それってきっと幸せだからだよ」

「幸せなんだ」またまた驚きだ。


 あの頃の奈美は、幸せという言葉を憎んでさえいたのだ。


「幸せ。だって結婚するんだもん」奈美はそう言うと、左手薬指の指輪を見せた。

「えっ、あっ……、そう」またまたまた驚きだ。

「何それ、おめでとうって言ってくれないの」

「ああ、ごめん。そうよね、おめでとう」

「ありがと」

「でも、奈美まだ十九よね」

「年齢なんか関係ないよ。結婚したい人が現れたら、その時が適齢期だもん」


 奈美にこんな事を言われるとは、私の方が年下になったようだ。


「そうね、その通りかも。その歳で結婚したくなるほど好きな人に出会えて良かったわね」

「まあね」

「あっ、もしかして黒髪にしたのもその人のせい?」

「うん。向こうは本物だからね、偽物にせものの金髪でカッコつけてもダサいだけだもん」

「本物って、相手外人?」

「オーストラリア人。マーティーって言うの」


 またまたまたまた驚かされた。この娘は今日どれだけ私を驚かすつもりなのだろう。


「私、マーティーと結婚してオーストラリアへ移住して、人生をリセットするんだ。ここでしちゃったイケナイ事を全部ナシにするの」


 継父にイタズラされたり、風俗で働いていた事を言っているのだろう。それで奈美が幸せになれるのなら良い事だと思った。堂本のケースとは全く違うのだ。


 それから、奈美とマーティーの出会いから結婚にいたるまでの話を聞いた。その話の間に私の口からは『へぇー』『うわぁー』『マジ』『ウソ』の言葉が何度もはなたれた。


 そうこうしているうちに、フロントから終了時間がせまっているという電話がきた。二時間近く歌も歌わずに奈美の話を聞いていたみたいだ。


「時間だって」私は受話器を置いて奈美に告げた。

「ええ、もうそんな時間。やだ、私ったら肝心かんじんな話をまだしていない」


 えっ、何、今までの話って本題じゃなかったの?


「肝心な話って何?」

「うん……」


 そう言うと奈美はマジな顔になり、かたわらに置いてあった水色のバッグから何かを取り出した。しかし奈美はそれを両手で包み込むようにしているので、何を持っているかは分からなかった。だが、良い物ではなさそうだ。


「何それ?」

「見せる前に確認」


 嫌な予感がビンビンきた。


「これがもし違法な物だったら、凛ちゃん私の事捕まえる?」


 予感的中。


 多分、あの手の中にあるのは違法ドラックだろう。もしかしたら奈美のこの明るさは、あれを使用しているせいかもしれない。そうだとしたら最悪だ。


「それは奈美の今の状況によるよ。それを奈美が自分の為に使っていたとしたら逮捕するよ。それが奈美にとって一番良い事だと思うから」


 と言っても奈美は未成年の初犯なので、罪に問われる事になっても執行猶予しっこうゆうよ付きの判決が言い渡されるだろう。その時は、私がドラックから脱却する為の施設を探してあげてもいい。


「それって私の物じゃなければ捕まえないって事?」

「奈美のじゃないの?」

「私のじゃないよ。私そこまでバカじゃないよ」奈美は私の目をしっかり見つめて言った。


 私はその目に嘘はないと思って一先ひとまず安心した。


「じゃあ捕まえない。約束する」


 それを聞くと、奈美はテーブルの上に両手を乗せてその手を開いた。奈美のてのひらの上に乗っていたのは、ガチャガチャのプラスチックのカプセルだった。上部が透明で下部が赤いカプセルの中には、ビニール袋に入った白い粉があるのが見えた。


 私はそのカプセルを手に取り、二つに割った。指紋が付くとマズいと思ったのでビニール袋には触れなかったが、その重さは三十グラムくらいだと推察した。三十グラムは個人で使用するにはいささか多すぎる量だ。


「覚醒剤?」


 春山の家の金庫の中にあった物と同じ物のようだった。


聡志さとし君はそう言っていた」

「聡志君?」


 初めて聞く名前だ。


「それを私にあずけた人」

「聡志君がこれを奈美に預けたのね?」

「そうだよ。今そう言ったでしょ」少しキレた。


 何でそっちがキレるのよ。このままヘソを曲げられても面倒なので、笑顔を作って謝ってやった。


「ごめんごめん。どういう人なの、その聡志君ていう人は?」

「ヘルスで働いていた時に受付とかやってた人だよ」


 それだけ? という顔を向けた。


「……ちょっとだけ付き合っていたかな。ほんの少しの間だけ、チョー一瞬、秒、ホントだよ」

「分かった分かった。で、聡志君はドラックの売人をしていたのかな?」

「知らないよ。別れたら何しているかなんて興味がないもん」

「だったらどうしてこんな物預かったのよ」

「だってー、突然呼び出されて、何か誰かとトラブったとか言って、少しの間だけ預かってくれって強引に置いていっちゃったんだもん」

「誰とトラブったの?」

「そんなの知らないよッ」またキレだした。


 ハイハイ、興味がない男だもんね。知らないわよね。


「そうか、そうよね。強引に置いていったんだもんね」

「そうよ。聡志君、少しの間だけっていったのに半年もほったらかしでさ。私結婚してオーストラリアに行っちゃうじゃない、困るのよ、こんな物持って行けないしさ」


 当然だ。オーストラリアは日本より覚醒剤に対する罰則がきびしかったと記憶している。まあその前に日本の税関で捕まる可能性が高いのだが。


「だからってそのあたりにてていって誰かにひろわれても困るじゃない。川や海に捨ててお魚が薬中になっても嫌だしさ。ホント困っちゃてさ。それでどうすればいいか分からなくなって、凛ちゃんの事思い出して電話したわけ」


 ハテ? 魚も麻薬中毒になるのかな?


「ちょっと、凛ちゃん聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。で、その聡志君と半年連絡がつかないわけね?」

「そう、だから困っているの。凛ちゃん、何とかして、お願い」


 これまでの話を聞いて、私の頭の中にある可能性が浮かんだ。


「聡志君のフルネームは知っているの?」

「それくらい知ってるよ。えーとね、冬木聡志」

「冬木聡志ね。ちょっと待ってて」そう言うと、フロントに一時間の延長を告げ、私一人外出した。


 麻薬絡まやくがらみでトラブっていたのなら、事件になっているかもしれないと思った。まずはスマホで名前を検索してみた。事件や事故にあって、名前が判明していればヒットする筈だ。しかしヒットした冬木聡志は、同姓同名の五十過ぎの予備校の講師だけだった。


 スマホ検索が駄目なら警察に頼るしかない。警察のパソコンで調べれば何か分かるかもしれない。


 こういう時に頼りになるのは、歌舞伎町交番勤務の真人だ。早速真人に連絡を入れると、真人はグッドタイミングで勤務を終えて警察署に戻って来たところだった。


 真人には細かい事情は話さずに、冬木聡志について警察署のパソコンで調べて欲しいとお願いした。真人は『仕方ないな』といいながらも引き受けてくれた。


 そして十分も待たずに真人から回答があった。


 それによると、今年の七月三日に江東区木場で起こったアパート火災の現場の左奈田敦彦の部屋で発見された二人の遺体のうちの一人の名前が、冬木聡志だと教えてくれた。二人の体に刺し傷があった事から殺人事件として現在も捜査が継続中だった。聡志の名前が報道されなかったのは、身元が判明したのが事件発生から一ヵ月が経っていたからだろう。


 私は真人に近いうちに必ずご飯をご馳走すると約束して電話を切った。


 この事であの覚醒剤に所有者がいなくなった事がハッキリした。聡志が殺されてから五ヵ月が経っても奈美に危害が及んでない事から、どうやら聡志は奈美については口をつぐんでいてくれたようだ。


 だとすると、このままあの覚醒剤を処分してしまえば奈美に危険が迫る事はないだろう。


 カラオケボックスに戻ると、奈美がソファーの上でノリノリで歌を歌っていた。誰の歌かは知らなかったが、奈美は心配事がなくなって気が楽になったのか、楽しそうだった。


 私はそんな奈美を見て、聡志の事は話さないでおこうと決めた。幸せの絶頂の中にいる奈美に、取り返しのつかない不幸な話をしてもしょうがない。


 それから奈美にうながされ、歌を三曲歌わされて、そして別れた。別れ際奈美は『オーストラリアに遊びに来て』と言い、私は『預かった物は責任をもって処分する』と約束した。


 秋葉原へは車で来ていた。私はそのまま帰路には就かずに、春山の住むマンションへと車を走らせた。


 奈美から覚醒剤の処分を頼まれた時、処分方法を考えているうちに最高のアイデアをひらめいた。この覚醒剤を使って春山を罠にハメる事にしたのだ。


 九ヵ月前、私にお金とビデオを奪われ、顔の形が変わるほど殴られた春山は、その後も引っ越しもせずに相変わらずアダルトビデオの仕事を続けていた。


 しかしそんな中でも変化はあった。部屋の玄関ドアの鍵をセキュリティーの高い鍵に交換した事と、私に折られた鼻を整形して少し高くした事だ。


 春山のマンションの近くのコインパーキングに車を駐車したのは、二十三時を少し過ぎた頃だった。


 春山は帰宅していて、部屋の灯りが点いていた。盗聴器の音声を聞いた限りでは、春山は一人でいるようだった。春山が明日からセブ島に行き、三泊四日のアダルトビデオの撮影をする事になっているのは、十日前の監視の時に盗聴器で聞いて把握はあくしていた。


 私のお母さんは海外旅行など一度もした事がなかったのに、お母さんの人生を狂わせた春山がどんな理由であれ海外のリゾート地へ行く事が腹立たしかった。だから何か邪魔する事が出来ないかと思っていたのだ。


 旅行の出発日が近付いてヤキモキしていたところ、思いもよらず覚醒剤が手に入った。私はこれを使わない手はないと思った。


 春山の旅行カバンに覚醒剤を隠して、空港の税関で逮捕させるのは我ながら良い考えだと思った。


 日本の税関は優秀だと聞いている。きっと隠してあった覚醒剤を見つけてくれるだろう。


 逮捕された春山は身に覚えのない覚醒剤所持を否定するだろうが、かねてから覚醒剤に手を染めている春山を検査すれば、体内から覚醒剤の陽性反応が出る筈だ。そうなればいくら本人が否定しようと、罪は確定するだろう。


 覚醒剤所持の罪は十年以下の懲役である。三十グラムの所持だと、初犯であっても執行猶予が付くのは難しいだろう。一年でも二年でもいいから春山みたいな奴は刑務所に収監されたらいいのだ。元々春山は覚醒剤を使用していたのだから、広い意味では冤罪ではなく、私は罪悪感を抱く必要もない。


 それだけの事をしても私の気持ちが晴れるかは分からないが、それは刑務所を出所して来た時の春山の態度を見て改めて決めればいい事だ。


 午前一時過ぎにようやく部屋の灯りが消えた。三十分待つと、盗聴器から春山のイビキが聞こえ出したので行動を開始した。


 セキュリティーの上がった春山の部屋の玄関ドアの鍵だったが、ここ数ヵ月で私の鍵開けの技術も向上していた。三分ほどで開錠する事が出来た。


 私は目出し帽と皮手袋を装着して、部屋の中へと忍び込んだ。


 春山は寝室のベッドの上でイビキをかいて眠っていた。旅行カバンの黒いキャリーバックはリビングのソファーの上に開いた状態で置かれていた。税関職員と麻薬探知犬に覚醒剤を見つけて貰わないと困るので、ビニール袋から覚醒剤を少量取り出して、それをカバンのふちに目立たないように塗り付けた。残りはビニール袋に入れたままバックの中に丸めて収納されていたTシャツの中に隠した。


 仕事を終えた私は寝室へ行き、何も知らずに眠っている春山に向かって『しばしのお別れね』と小声で言い残して部屋を後にした。



 


 


 


 


 

 




 






 


 

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