第17話 優しさ貯金

 十一月の最終日曜日。初めて現場を任された家が完成して、施主に引き渡された。


 本来なら大仕事を終えた充実感じゅうじつかんで満たされる筈なのに、とてもそんな心境にはなれなかった。この現場が始まってからは、常に過去のまわしい出来事が頭に巣くっていて、集中して仕事が進められなかったという後ろめたさがあった為だ。それでも何とか大きなしくじりもなく仕事を終えられた事には安堵あんどしていた。


 明後日からは工務店の作業場で、次に建てる家の木材を加工する事になっていた。


 刑事が訪ねて来た時はきもを冷やしたが、あれから大きな変化はなかった。


 福丸が金沢の事件で逮捕される事を期待していたが、そのような事も起こらなかった。


 一つ変化があったとしたら、家の周辺にパトカーが頻繁ひんぱんに往来するようになった事だ。直美は安全になったと人の気も知らないで喜んでいたが、それは刑事が訪ねて来た事と関係しているのは明白めいはくだった。パトカーの目的が、俺を監視する事か、福丸を監視する事か、その両方か、それは分からなかったが、どちらにしても警察に周囲をうろつかれるのは、気分のいいものではなかった。 


 木曜日。工務店の作業場で木材加工をしていると、急に社長に呼ばれた。昔の事がバレたのかとビビりながら事務所に行くと、話はまったく別の事だった。


「武士、鈴木の鉄っちゃん知っていたよな?」

「はい、結婚式の時に紹介して貰いました。社長の修業時代の兄弟子あにでしですよね」

「兄弟子って言っても半年だけだけどな。まあそんな事は今はどうでもいいや。その鉄っちゃんところの若いのが、昨日足場から落っこちて足骨折しちまったんだとよ。でだ、雪が降る前に家を完成させちまいたい鉄っちゃんが…」


 話が見えてきた。


「俺に手伝いに行けって事ですか」


 ”パチンッ” 社長は指を鳴らした。


「正解。ただ現場が少し遠いんだ」

「どこですか?」

「山中湖だ。と言っても湖の上に建てるんじゃないぞ」


 社長のいつものつまらない冗談が始まった。


「の近くの別荘だ」


 ここでウケないと機嫌きげんが悪くなって面倒めんどうなので、わざとらしくならない程度に笑ってやった。


「ログハウスだ。お前やってみたいと言っていただろ。丁度ちょうどいいと思ってよ、修行して来いや」


 ログハウスには苦い思い出があった。だが、それとは別に大工としての興味があった。なので前々から事あるごとにやってみたいと口にしていたのだ。社長はそれを憶えていてくれてたらしい。


 ログハウスの建築を経験出来る事は嬉しかった。しかし、山中湖に通うには距離がある。福丸家への日課がある身としては、心配だった。


「別に通う必要はないんだぞ。現場近くに貸別荘があってな、鉄っちゃんたちもそこで寝泊まりして仕事をしているんだとさ。だからお前の部屋も用意してくれるってよ」

「泊まりですか」

「その方が楽だろう」


 楽は楽だが、泊まりは無理だ。泊まれば福丸との約束を守れなくなってしまう。


「通いじゃ駄目ですか?」

「駄目じゃないが、残業したら帰って来るの大変だぞ。お前だけ早くあがるわけにはいかないからな」

「それは分かっています。けど俺、泊まりは……」

「枕が変わると眠れねえなんて言うんじゃねえだろうな」

「バカね。この子は直美の事が心配だから泊まりたくないのよ」それまで黙って事務仕事をしていた美佳さんが口をはさんできた。

「そうなのか?」

「はあ……、まあ……、そうです」正直、直美の事など頭になかったが、そう返事をした。

「何だお前、今からそんな事じゃ子供が生まれたら直美の言いなりになっちまうぞ」

「いいじゃない、初めての子供なんだもの、心配で当然よ。どこかの誰かは出産したその日も朝まで飲み歩いていたけどね」

「まだそれを言うか。お前という女は昔の事をいつまでもネチネチネチネチ」

「言いますよ。女の記憶力をめたら怖いんだからね。女はね、やさしくして欲しい時に優しくしてもらえると、その貯金で将来ゴタゴタした時に大目に見てあげられたりするものなのよ」


 本当にそうだろうか? 俺は結婚してから直美には結構優しくしている。それは周りに冷やかされるほどだ。


 美佳さんの言う事が正しければ、俺の【優しさ貯金】は相当貯そうとうたまっている事になる。その貯金で過去の過ちを許して貰えるのだろうか……。


 家から通わせて貰うという条件で、翌日から山中湖の近くのログハウスの建築現場へと通う事になった。しかしさすがにスクーターで通うのはキツイので、直美にはタクシーを使って貰う事にして、車で通う事にした。


 福丸家への日課は、事情を話して朝早くにして貰った。仕事が終わってからだと、万が一何らかのアクシデントに遭遇そうぐうした時に、その日のうちに帰って来られないということもありうる。そうなると困るからだ。朝やる事を終わらせておけば、たとえ残業をして夜遅くになってもヤキモキしないで済む。


 直美には朝早いから見送りはしなくていいと言った。その際『出産間近の妊婦にはゆっくりと休んでいて欲しいんだ』と優しい言葉をかけて【優しさ貯金】を貯蓄した。


 



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