第15話 我慢

 直美は風呂に入っていた。


 晩酌のビールを飲んでも少しも美味しさを感じなかった。それは向かいの家にあの夫婦が越して来てから続いていた事だが、今夜のビールはいつもより輪をかけて不味まずかった。


 原因はハッキリしていた。刑事が訪ねて来たせいだ。それにしても、あの時直美が買い物に行っていて留守だったのは幸運だった。出産予定日まで後一ヵ月ちょっと、はち切れそうなお腹の妊婦には、どんな事があってもあの事件の事を知られてはならないのだ。


 キムがどうなろうが知った事ではないが、キムを襲った人物が向かいの家の二人だとしたら、俺にとっては他人事では済まされない。俺にもいつキムと同じような事が起こるか分かったものではないのだ。


 これからあの家に行く時には、充分じゅうぶんな注意が必要だ。


 あの刑事たちはたよりになりそうにない。特に女の刑事の方は、俺に対する嫌悪感けんおかんがハンパなかった。女だから俺たちの起こした事件にいきどおりを抱いているのだろう。


 直美も事件の事を知った時には、俺にあんな態度を取るのだろうか?


 被害者の家族が俺を嫌うのは理解出来る。しかし、事件と直接関係のない人間にいつまでも非難されては、元犯罪者は更生の道をあゆめやしない。


 それが社会で真面目に生きて行く事を阻害そがいするもの以外の何ものでもないという事が分からないのだろうか。そんな白い目でいつまでも見られていると、更生したいと思っていても出来なくなるのだ。元犯罪者がいつまでも更生出来なければ、迷惑をこうむるのは自分たちかもしれないという事を理解して欲しい。


 一日一回三分、最初は簡単な事だと思っていた。初めの一週間は精一杯の謝罪の気持ちを込めてお参りをした。しかし一週間を過ぎると、苦痛の気持ちが芽生めばえ始めた。仕事をしていても、食事をしていても、布団ふとんの中に入っていても、福丸の家へと行かなければならないのだという事が、強迫観念きょうはくかんねんとして頭の中に浮かんで離れないのだ。


 そのうち福丸の家の前に立つと、必ず嘔吐おうとしたくなる衝動しょうどうられて苦しくなった。


 何よりもつらいのは、アイツらの俺を見る目だ。アイツらは決して俺に言葉をかけようとはしなかった。俺が挨拶しても絶対に何も言ってこないのだ。


 その代わり福丸は、俺の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくを見逃さないように鋭い視線で観察をしていた。それは俺が心の底から謝罪をしているのかを読み取ろうとしているようだった。


 妻の方は、決して俺とは目を合わそうとはしなかった。しかし常に視線は感じていた。それは体に痛みを感じるほどの突き刺すような冷たい視線だった。


 一度夕飯の支度時したくどきに訪れた時など、包丁を手にしていた妻が、仏壇にお参りしている俺の背中を刺して来るのではないかと思うほどの殺気を感じた。それからは、夕飯時をけて訪れるようにしている。


 年寄りの刑事は、アイツらがいつかは山梨へ帰るつもりでいると言っていた。俺の誠意を見て判断しようとしているのだと。


 それが本当なら、絶対に嫌な顔は見せられない。無理してでも神妙な顔をして反省と謝罪の気持ちを見せなければならないのだ。その為なら、今の倍仏壇の前に正座して手を合わせるぐらいの事はしてもいいし、花を買っていってそなえたっていい。


 しかし本当にそんな事をすればアイツらは山梨へ帰ってくれるのだろうか? せめて何らかの保証があれば頑張れるのだが、それを確かめるすべがないのがつらい。


 直美が風呂から上がって来た。


 直美はお義母さんからプレゼントされたピンクのバスローブを着ていた。せり出したお腹のせいで、前がはだけそうになっていて不格好ぶかっこうだった。普段なら冗談めかしてオチョクルところだが、今はそんな気持ちにはなれなかった。


 思い返してみたら、アイツらが越して来て以来、我が家の笑いの数が格段に減っていた。


「私にも一杯ちょうだい」言い終わらないうちに直美は俺の飲みかけのビールのグラスを掴んだ。

「妊婦なんだからそれだけで終わりにしろよ」

「分かってるって」美味しそうにビールを一気に飲み「ごっつぁんです」相撲取りのようにお腹を一つ叩いておどけた。


 俺は笑おうとしたが声が出ず、ぎこちなく顔をくずして愛想笑顔をつくるのが精一杯だった。


 クソッ、アイツらのせいだ。幸せに暮らしていたのに邪魔しやがって。この幸せを壊してたまるものか。


 我慢だ。直美と生まれてくる娘の為なら今の辛さにも耐えられる。そう心に強く言い聞かせた。



 

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