第10話 正体

 世田谷の公園で傷害を負った身元不明の男が発見された翌日、男の身元を特定する為の本格的な捜査が始まった。


 都内にあるタトゥーショップの数は百三十八店あった。昨日三軒茶屋にあるショップを当たったが、そこでは情報は得られなかったので残りは百三十七店である。もしその全てを調べても該当するタトゥーショップがなければ、神奈川、千葉、埼玉と捜索範囲を広げていかなければならなくなるのだが、願わくばそれはけたかった。


 『一つの真実は千の無駄足の先にある』とは、鯵沢が捜査で無駄足を踏んだ時にいつも言う言葉である。言いたい事は分かるのだが、私としては無駄足を踏まずに効率的に捜査を進めたいのだ。こんな事を私が思って捜査をしている事を知れば、鯵沢はいつもの『バカ』にとどまらず罵詈雑言ばりぞうごんびせてくる事だろう。


 私は鯵沢に対してまた一つ嘘を重ねて今日を過ごす。


 今日は渋谷から聞き込みを始め、そして渋谷で情報が得られなかったら、原宿、代々木、新宿と山手線を外回りにつぶして行く予定になっていた。


 しかし捜査はこちらの思い通りには進んでくれない。なぜなら、タトゥーショップの営業時間はショップによってまちまちだからだ。午前中から営業しているショップは渋谷には二店舗しかなかった。そこで聞き込みを終えると、他のショップが営業を始めるのが十五時以降となり、だいぶ時間が空いてしまう。私たちは仕方なく予定を変更して、午前中から営業している新宿のショップへ回る事になった。


 こうなるとショップの営業時間に合わせてあちこち移動しなければならず、私が求めていた効率的な捜査と大きくかけ離れていってしまうのだった。


 それでも目的の情報に行き当たればいいのだが、初日に回れた全てのショップからは有力な情報は得る事は出来なかった。分かった事と言えば、どのショップも墨と人肌の焼ける独特に嫌な臭いが鼻を刺激するという事と、彫り師の体にはもれなく全身に多種多様なタトゥーが彫られている事だった。


 聞き込みを始める前は、彫り師に対して社会からはみ出したアウトローだという偏見へんけんを持っていた。しかしいざ接してみると、全身のタトゥーは身を削って腕を磨き上げる為の必要不可欠な行いであった。その風貌ふうぼうから受ける印象とは違い、皆真面目に仕事に取り組んでいる職人だった。


 二日目。高田馬場まで捜査は進んだが、依然有力な情報は得られなかった。


 三日目。身元不明の男がICUから一般病棟へ移されたと病院から連絡を貰った。しかし意識を取り戻してもコミュニケーションは取れなかったので、ベッドに寝かされている身元不明の男は自分の体に起こった事をまだ知らされずにいた。


 今日は渋谷、新宿に次ぎタトゥーショップが多い池袋から捜査が始まった。今日こそ何らかの情報を得たいと意気込んで捜査に当たったのだが、日が暮れても何の手掛かりも掴めなかった。


 次のショップでの聞き込みが終わったら晩御飯にすると決まって訪ねて行ったショップは、池袋駅西口から徒歩五分のラブホテル街の中の古い雑居ビルの四階にあった。


 ショップの入り口は薄暗く、一歩室内に足を踏み入れるとムッとくるような蒸し暑さに襲われた。天井から吊るされたスピーカーから、耳をつんざくようなボリュームの何を歌っているか分からないロックがガンガン吐き出されている。


 スキンヘッドの頭に梵字ぼんじのタトゥーをビッシリ入れた彫り師は、真っ赤なボクサーパンツ一丁で全身に入れたタトゥーから汗をにじませて、強烈なライトの下と扇風機の前で、金髪の二十代前半と思われる女の肩にタトゥーを彫っていた。


 彫り師は鬼気迫る顔で仕事に集中していたので、私たちは彫り師の仕事が終わるのを待つ事にした。


 鯵沢は室内の暑さに耐えきれず外へ避難したが、私は汗を我慢して壁に寄りかかり、彫り師の仕事を見学する事にした。


 ここ数日で何十人もタトゥーを彫っている人を見てきたが、どの人も軽い気持ちやノリで自分の体にタトゥーを彫っている事に驚かされていた。服や髪形は飽きてコロコロ変えたりする人が、どうしてタトゥーだけは飽きないと思えるのだろうか?私にはその気持ちがどう考えても全く理解出来なかった。


 三十分ほど経ち、彫り師が彫っていたタトゥーが完成に近づいてきた。金髪女の肩にはデザイン英語で【HARUTO LOVE】と彫ってあるのが読めた。


 恋人の名前だろうか?


 この子は今の愛が永遠に続くと本気で信じているのか? 【HARUTO】と別れる日がくるとは想像もしないのか? そう思っているとしたらこの子は大バカだ。と笑顔で目が合った女に向かって内心で毒吐どくついた。


 十分待って金髪女が満足そうな顔を浮かべて帰って行き、入れ代わりに鯵沢が戻って来た。


 私は身分証を提示して、彫り師に訪問の趣旨しゅしを簡単に説明した。彫り師は『ちょい待ち』と言い、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して一気に飲み干した。


「クゥー、たまんねえなぁ……。この一杯が飲みたい為にクーラーもつけずに仕事しているんだ」


 彫り師のニカッと笑った前歯の一つにキラリと光る石が埋め込まれていた。


 このセンス、サッパリ分からん。


 彫り師は顔にもタトゥーを彫っているので、もし嘘を吐いても表情を読み取る事は難しいと思った。


「で、何聞きたいんだ? 八時に予約が入っているから手短に頼むわ」 


 八時まで二十分ある。素直に質問に答えてくれれば充分な時間だ。私はバッグからタブレットを取り出して、身元不明の男の背中に彫られていたタトゥーの画像を出して見せた。


 彫り師は二本目の缶ビールを飲みながら画面をチラッと見た。


「俺の仕事だな」あっさり認めた。


 あまりにもあっさり認めたものだから聞き逃しそうになった。


「えっ」

「俺の仕事、間違いない」

「本当にあなたが彫ったタトゥーなんですね。よく見て下さい」


 後から勘違いでしたではシャレにならない。よく見て確認して貰わないと。私はタブレットを彫り師の目の前に突き出した。彫り師は仕方なくもう一度画面を見た。


「間違いない。絶対だ」そう言うと、彫り師はかたわらに置いてあった椅子にドカッと座った。


 私は鯵沢の顔をうかがった。鯵沢は黙って頷いた。このまま続けろという意味だ。


 鯵沢はこの聞き込みを『刑事としての経験を積ませてやる』と顔に似合わないカッコつけたセリフをいて私に任せていた。


「自分の彫ったもん分からないようじゃ彫り師失格だ」そう言うと、彫り師はテッシュを三枚引き出し豪快に鼻をかんだ。

「この人の名前は分かりますか?」

「分かるよ」そう言うと、彫り師は昇り竜が描かれた暖簾のれんくぐって奥の部屋へ消えて行った。

「で、そいつが誰か殺したの?」部屋の中から聞いてきた。

「いえ」

「じゃあ殺された方か?」

「違います」


 詳しく話してもいいかと、鯵沢にアイコンタクトで聞いた。鯵沢は首を横に振った。


「ちょっと怪我をしていて話が出来ない状態なんです」男の現状をボカシて答えておいた。

「被害者って事か」彫り師が墨で汚れたノートパソコンを持って暖簾を潜って戻って来た。

「はい」

「どう見ても加害者ヅラだったけどな」


 確かに。それは私も思っていた。


「仕事は何をしているか言っていましたか?」

「さあ、どうだったかな……。言っていなかったんじゃないかな。しかし、サラリーマンじゃない事だけは確かだろう」

 彫り師はそう言いながらノートパソコンを起動させて顧客名簿を呼び出した。たくさんの名前とタトゥーの画像の画面をスクロールさせて、あるページで画面を止めた。

「これだな」

 彫り師は私たちに画面を見せた。


 画面には、タトゥーのない背中の画像とタトゥーが彫られた後の背中の画像、それに名前、住所、携帯電話の番号、メールアドレスが記されていた。これによって身元不明の男の名前が金沢拓也という事が判明した。住所は豊島区池袋本町三丁目だ。


「この蜘蛛のタトゥー上手く彫れているだろう」彫り師がパソコン画面の蜘蛛のタトゥーの画像を拡大して見せてきた。

「はい、今にも動き出しそうです」

「だろ、刑事さん見る目あるな。ビール飲むか」

「いえ、仕事中ですから」


 どうやらこの彫り師は、強面こわもて風貌ふうぼうに似合わずめられる事が好きなようだ。


「タランチュラですよね」蜘蛛がタランチュラかどうかは捜査には影響しないだろうが確認してみた。


「そう、タランチュラ。何、刑事さん蜘蛛好きなの?」


 そんなわけないでしょ。


「いえ、むしろ嫌いです」

「そうなの。よく見ると奴らもカワイイんだけどな」

「この蝶はなんという種類の蝶ですか?図鑑で調べてみたのですが見つけられなかったんです」


 彫り師はプッと噴き出した。


「そりゃそうだろう。それは完全な俺のオリジナルだからな」

「オリジナル、創作したって事ですか?」

「ああ、その男のリクエストを聞いて、俺が想像力を働かせてカッコよく仕上げてやったのよ」

「金沢さんがリクエストしたんですか?」

「ああ、奴はただヒョウ柄がいいとかブルーがいいとか言っただけだけどな。ああ、こうも言っていた。蝶には悲哀ひあいかもし出して欲しいってな。難しい注文しやがってよ。」

「悲哀ですか」

「蝶に悲哀だぜ。苦労したぜ。まっ、俺だから出来た仕事だな」


 改めてタトゥーの蝶の画像を見ると、言われたからかもしれないが、蜘蛛の巣にとらわれた蝶たちは確かに悲しそうに見えた。


「どうよ、悲哀感じるだろ」

「ええ、まあ。しかしどうして金沢さんはそんなリクエストをしたのでしょうか?」

「それはリアリティーが欲しかったんだろう。蜘蛛の巣に捕まってこれから蜘蛛に食べられようって蝶が嬉しそうにしていたらおかしいからな」


 確かにその通りかもしれないが、そんな事をタトゥーの蝶に要望するなんて、金沢という男は趣味がいいとは言えない。もっとも蜘蛛と蜘蛛の巣に囚われた蝶を背中に彫ろうなどと考えた時点で真面まともではないが。


「ああ、聞かれる前に言っておくが、四匹の蝶は一度に彫ったわけじゃないからな」


 蝶の数え方は匹じゃなくて頭なのだと教えたかったが止めておいた。


「どういう事ですか?」

「だから最初に彫ったのは蜘蛛と蜘蛛の巣と両肩にいる蝶二匹だ。こっちの腰にいるのは最初に彫ってから半年くらい経ってから彫りに来て、もう一匹は最近、三週間くらい前に彫りに来たんだ」


 彫り師はノートパソコンの記録を改めて見て、二十二日前だと断定した。


「これだけのタトゥーを彫るにはそれだけ間を空けないと彫る事は出来ないものなのですか?」

「そんな事はない。一日だとキツイかもしれないが、三日もあれば余裕で彫れるさ。なんせ俺は仕事が早いからな」

「それではどうして金沢さんはそんなに間を空けて彫りに来たんですか?」

「それは金がなかったからじゃないのか。これだけのタトゥーを彫るとなるとそれなりの金は必要だからな」

ちなみに金沢さんの場合いくらくらいかかったのでしょうか?」

「んんー、ざっくりで五十万かな」


 大金だ。それなら一度にタトゥーを彫れなかったのもうなずける。


「でも金のせいばかりじゃないかもしれないな」


 どういう事?


「一度体にタトゥーを彫った奴の中には最初に彫ったタトゥーだけじゃ満足出来なくなって、ドンドン増やしていきたくなる奴がいるんだ。タトゥーの魔力に取りかれるんだよ」そう言うと、彫り師は自分の頭のタトゥーを叩いて自嘲気味じちょうぎみに笑った。


 なるほど、説得力がある。


「俺はやり過ぎだけどな。刑事さんも一つ彫ってみれば少しは気持ちが分かるかもしれないぜ。コインサイズなら五千円で彫ってやる」

「遠慮しときます」


 冗談じゃない。タトゥーを彫った人の気持ちなんか分からなくても、刑事を続けていく事に何の支障も生じない。


 その時、鯵沢が私の背中を指先で突いて来た。どうやら無駄話が過ぎたようだ。私は彫り師にお礼を述べてタトゥーショップを後にした。


 金沢拓也の住所をスマホで地図検索すると、住所は池袋だが最寄り駅は東武東上線の下板橋駅だった。池袋駅から二駅先だったが、ここからでも歩いて行けない距離ではなかった。そのことを鯵沢に告げると、鯵沢は私の意見も聞かずにサッサと歩き出してしまった。文句を言っても『バカ、楽する事ばかり考えるんじゃねえ』と言われるのがオチなので、黙って付いて行った。


 【塩見マンション】それが金沢の住む建物の名前だった。マンションとは名ばかりのエレベーターのない部屋数二十戸の四階建てで、外壁のペンキが所々剥げ落ちた古い建物だった。


 金沢の部屋は四階の角部屋四〇五号室だった。同居人がいる可能性を考慮こうりょしてインターフォンのボタンを押したが、反応はなかった。


「どうします? 勝手に入っちゃいますか? このくらいの鍵なら開けられますけど」


 鯵沢が呆気あっけにとられた顔を向けた。


「本気で言っているのか?」

「冗談ですよ。鍵を開けられるのはホントですけど」

「どこでそんなテク身に付けた? 最近の警察学校じゃ鍵開けの技術まで教えているのか?」

「まさか」

 警察学校はそんな機転のくところではない。

「商店街の中に金物屋があるのは知っているでしょう」

「池田金物店だろう、本屋の前の」

「はい。そこの跡継ぎの正樹が金物屋だけでは食べていけなくなるって、鍵の救急サービスを始めたんです。だからいつか役立つ事があるかと思って、幼馴染のよしみで暇な時を見つけて鍵開けの技術を教えて貰っているんです」

「いつの間にそんな事。ったく、目を離すとろくな事をしないなオメエは。いいか、絶対に不法な事に使うんじゃねえぞ」

「分かっています」

 

 余計な事を喋っちゃたかな……。


「寝る時間にはまだ早いだろう」


 時間は二十時三十八分だった。


「誰か金沢の事を知っている人間がいないか近所を聞き込みだ」


 私たちはマンションの住人の部屋を一部屋一部屋訪ねて行く事にした。隣の四〇四号室の住人は留守だったが、四〇三号室の住人は在宅していて、三十代前半の真面目そうな男が応対してくれた。


 金沢の事を尋ねると、今年の初めくらいに越して来たのは知っていたが、引っ越しの挨拶はなかったそうだ。見かけた事はあるが会話を交わした事は一度もなく、仕事は何をしているかは知らないと答えてくれた。


 他の部屋の住人も似たような証言だったが、真下に住む三〇五号室の大学生の男だけが具体的な話を一つしてくれた。


 それによると、ある深夜上の部屋からの騒音に耐えきれず苦情を言いに行った時、出て来た金沢に逆ギレされ殴られた事があったそうだ。大学生は警察に通報する事も考えたが、金沢が見るからに危なそうに見えたので、逆恨みの仕返しを恐れて警察への通報を断念したという事だった。


 一人の証言だけで決めつけるのは危険だが、金沢という男はキレやすく暴力的な人間らしい。もしかしたらこの事件の動機もそのあたりにあるのかもしれない。


 マンションに在宅していた人全てに話を聞き終えた時、時刻は二十一時二十七分になっていた。住民からこのマンションを管理しているのは駅前の不動産屋である事を教えて貰ったので、翌日その不動産屋を訪ねて行く事にしてこの日の捜査は終了する事になった。


 帰ろうとしてマンションを出かかった時、マンションの脇にある駐輪場に自転車を駐輪させようとしていた二十歳前後の茶髪のボブカットの女の子に出会った。


「こんばんは」


 女の子は背後からいきなり声をかけられたので驚いて小さな叫び声を上げた。


「ごめんなさい驚かして、私こういう者です」

 身分証を提示した。

「警視庁世田谷西警察署刑事課の諸星です。あそこに立っているのが同僚の鯵沢です」

 マンションの前に設置されていた飲料の自動販売機でホット缶コーヒーを買っていた鯵沢を紹介した。


 鯵沢は軽く会釈しただけで近付いては来なかった。若い女の子をこれ以上怖がらせないように鯵沢なりの配慮かもしれない。


「何ですか?」


 身分証を見て安心したのか女の子の強張こわばった表情は解けたが、突然の警察官の声かけに警戒心は抱いているようだった。


「このマンションの住民の方ですか?」

「はい」

「よろしかったらどの部屋にお住まいかお教え願えますか?」


 女の子は一瞬躊躇いっしゅんちゅうちょしたが口を開いてくれた。


「二階の二〇一です」


 金沢の部屋とは離れていたので、たいした話は聞けそうもないと思った。


「このマンションで何かあったんですか?」

「いえ、そういうわけでは。四階に住んでいらっしゃる金沢さんという方が事件に巻き込まれまして、何か気付いた事がないかと住民の方々に尋ねているのです。四階の四〇五号室の金沢さんなんですけど、何か知っていらっしゃる事はありませんでしょうか?」


 女の子はマンションの四階を見上げた。


「金沢? ……私四階には上がった事ないからなぁ……。知らないんじゃないかな」


 これが都会だ。やはり収穫はなかった。それでももう少しねばってみるか。


「歳は三十前後、身長は百八十一センチ。だから……、これくらいかしら」

 イメージがくように手でその高さを示した。

「体重は七十七キロですけど、もう少し太っていたかもしれないです。髪は銀髪のソフトモヒカンにしています」

「ああ、アイツか」


 銀髪のソフトモヒカンに心当たりがあったようだ。


「危ない目ぇしている奴でしょ」

「危ない目をしていたんですか?」


 金沢は目をつぶされているので、私には目つきの事を言われても分かりようがなかった。


「あれ、違うのかな」

「いえ、多分その人です」


 三〇五号室の大学生が逆ギレされて殴られたと言っていたのだから、目つきが危ないという印象を持たれていても不思議はない。


「アイツがどうしたの?」

「どのような人だったかを知りたいんです。仕事とか家族の事とかを」

「家族は知らないけど、仕事は多分スカウトだよ」

「スカウトってアイドルとかの?」


 女の子がケラケラと声を出して笑った。


「そんなわけないじゃない。風俗よ風俗、風俗のスカウトマン」

「風俗」

「そう」

「キャバクラとか?」


 こんな私でも六本木を歩いていた時に一度だけキャバクラで働かないかと声をかけられた事がある。


「キャバクラもそうだろうけど、イメクラ、デリヘル、ソープ、AV、そのあたりの仕事全部じゃないかな。節操ないわよね」

「詳しいですね」

「イヤだ、私そんな仕事していないわよ」女の子は不本意とばかりに全力で否定した。


 別にそんな事は思っていなかった。何人か風俗で勤めている女を知っているが、その女たちには独特の雰囲気があり、この子にはそれを感じなかった。


「そいつ、そこの階段とかその辺の道ですれ違うたびにしつこくスカウトしてきたのよ。やらないって言っているのに何度もよ。だから覚えちゃったのよ。キモイったらありゃしない。私これでも女優なんだから、そんな仕事しないっつうの」

「女優さん、凄いわね」


 言われてみれば滑舌がハッキリしていた。聞き取りやすかったのはそのせいだったのか。しかしそれならタメ口は止めた方がいいと思ったが、注意して空気が悪くなると困るので、ここはスルーだ。


「凄くなんか全然ないよ。たまにドラマにちょこっと出るくらいだもん。でも一応ちゃんとした事務所に所属しているのよ。だからいくら生活が苦しくなっても風俗になんか手を出さないよ」


 缶コーヒーを飲みながら聞き耳を立てていた鯵沢が咳払いをした。


 分かっていますよ、話が脱線しているって言いたいんでしょ。


「そうですよね、金沢さんは失礼な男ですね」

「ホント」

「あなたが金沢さんについて知っている事はそれだけですか?」

「んー……、そうねぇ……。あっ」

「何か?」

「前にサンシャイン通りで女の子に声をかけているのを見かけた事があったっけ」

「いつ頃の事ですか?」

「んー……、夏だったから三・四ヵ月前かな。下手へたに見つかってまた声をかけられるのが面倒だと思ったから路地に逃げ込んじゃったんだけどね。でも間違いなくアイツだったわ」


 思いがけず重大な証言が聞けた。金沢の仕事と働いていた場所が判明したのだ。女優の卵に御礼を言い、私たちはその足でサンシャイン通りへと向かった。


 サンシャイン通りは、池袋にある人通りの多い通りの一つだ。池袋駅東口を出て明治通りを渡ってからサンシャインビルまでの約五百メートルの間に、飲食店やファッション関係の店や雑貨店などありとあらゆる店が道の両側に連なっている。


 二十二時を過ぎた現在、ほとんどが酔っぱらいだったが人通りはかなりあった。


 新宿や渋谷と同様にこの辺りも確か客引きやスカウトのたぐいは区の条例で禁止されている筈だ。しかしちょっと見ただけでも通りのアチコチにそれらしき男たちが立っていて、道行く人たちに声をかけているのが確認出来た。


 鯵沢が『ここは任せろ』と言い、男たちに近付いて行った。その意味するところは分かった。あの手の男たちは女を小馬鹿にする傾向があるのだ。それが刑事であっても変わらない。腹が立つがそれが現実だ。ここは素直に鯵沢にしたがう事にした。


 しかし鯵沢が男たちに声をかけても誰一人金沢の事を知っていると言う者はいなかった。それどころか十分も経つと通りから男たちの姿が一斉に消えた。どういう連絡体制が構築されているのか分からなかったが見事なものだった。


 男たちがいなくなったので、仕方なく駅前交番を訪ねて行き情報を仕入れる事になった。交番で私たちの対応をしてくれたのは、二十代前半の依田巡査だった。真面目が制服を着ているような警察官で、ビシッとした敬礼が美しかった。


 依田は交番の奥の部屋へと私たちを招き入れてくれてお茶をご馳走してくれた。私は一通りの事情を依田に説明した。しかし依田には金沢に対する心当たりがなく、交番にいた他の警察官たちにも同様の答えしか得られなかった。その代わり依田は、池袋の生き字引と言われている所轄署のベテラン刑事の安西省吾の存在を教えてくれた。


 地域の警察署には、その警察署の管轄地域の事なら何でもよく知っているベテランの警察官が一人はいるものである。池袋東警察署ではそれが安西という事らしい。今日はもう遅いので、翌日に安西に会う事にして、この日は帰宅する事になった。


 次の日の朝一番、安西に電話を入れて面会のアポを取った。


 十一時。私と鯵沢は池袋東警察署の一階受付で身分を名乗り、安西に取り次いで貰った。安西の事を地域課の警察官だと勝手に思い込んでいたが、実際の安西は組織犯罪対策課の刑事であった。四階にある組織犯罪対策課の部屋の前で安西は私たちを迎えてくれた。


 安西と私の身長はさほど変わらず、前頭部がハゲあがった白髪頭の風貌から受けた第一印象は、縁側でお茶をすすっているのが似合う好々爺こうこうやそのものだった。このような優しい顔をした刑事がヤクザ相手にやっていけているのかと余計な心配をした。


 会議室に通された私たちは、安西にこれまでの経緯を説明した。安西は孫の話を聞いているかのようにウンウンと頷き、話をさえぎる事なく聞き終えると『ちょっと待ってて』と言って会議室を出て行ってしまった。それから安西は三十分経っても戻って来なかった。


「忘れているなんて事ありませんよね」


 まさか現役の刑事が健忘症などという事はないと思うが、あまりにも待たされていたので不安になった。


「知るか。待っていろって言われたんだから待つしかねえだろう」鯵沢も明らかにイラついていた。


 この会話がなされてから八分後、ようやく安西が戻って来た。


「お待たせ」安西は少しも悪びれた様子もなく部屋へ入って来ると、手に持っていたメモ用紙を机の上に置いて私たちの方へとすべらせた。

 

 メモ用紙には解読がギリギリ出来る汚い手書きの文字で【桜花飯店】という中華料理店とおぼしき名前と簡単な地図が書かれていた。


「何ですかこれ?」

「十二時半に予約を入れておいた。そこで待っていれば秋吉っていう郷田組のチンピラが現れるから、昼飯をご馳走してやってくれ」

「え?」意味がサッパリ分からなかった。

「そいつに昼飯をおごれば情報を貰えるんですね」鯵沢が私からメモ用紙を取り上げて言った。


 どうやら鯵沢には意味が分かったようだ。それを聞いて安西は、顔にあるシワを全て見せた満面の笑顔を浮かべて会議室を出て行った。おじさん同士の阿吽あうんの呼吸は気持ち悪いものがあった。


 【桜花飯店】は東京芸術劇場の向かいにあった。一目で商店街の中にある中華料理屋と違う店だと分かった。


 安西は八席ある丸テーブルの個室を予約していた。


「嘘、ラーメン一杯二千五百円ですよ」


 その他のメニューの値段も私の常識の倍以上のものばかりであった。鯵沢は早々にメニューを見るのを止めていた。


「これ、経費で落ちませんよね」

「落ちねえだろうな」


 うちの経理はよそと比べて経費に関してシビアだ。


「鯵沢さん、もってくれますよね」

「何言っているんだ。これはオメエの事件じゃねえか、オメエが払うのが当然だろうが」

「えっ、何で私の事件なんですか。二人で捜査しているんじゃないですか」

「最初に関わったのはオメエの方だ。俺は後から加わったオメエのサポート役だ」


 こんな時だけ、ズルい。


 私は財布の中身を確認した。一万二千円あった。何とか足りるだろう。


 十二時三十七分に秋吉が現れた。安西がチンピラだと言っていたので二十歳前後の若造が現れると思っていたが、現れたのは三十前後のシルバーのスーツを着たオールバックの黒髪の男だった。


 秋吉は挨拶もろくにしないでメニューを開くと、フカヒレスープ、北京ダック、アワビの姿煮、カニチャーハン、紹興酒、そしてデザートにマンゴープリンまで注文した。完全にクレジットカードのお世話にならなければならなくなった。


 私はラーメンを、鯵沢はあんかけ焼きそばを注文した。鯵沢の分は勿論払うつもりはない。


「お料理がくる前に話を聞かせて下さい」

「どうすっかなぁー」秋吉は両手を頭の後ろに組み、人をおちょくるような態度を見せた。


 このヤロウ、なめやがって。かましてやるか。


「ふざけた態度するんじゃないわよッ。こっちはなけなしのお金を使ってあんたにご馳走してやっているんだから、それに見合うだけの話は勿体ぶらずに聞かせて貰うからねッ」


 私の剣幕に押されてか、秋吉が組んだ手を解いた。


「おっかねえな、この刑事はいつもこんななのかい?」鯵沢に聞いた。

「ああそうだ。女だからってなめてると痛い目に遭うぞ。なんせこいつは空手の大会で日本一になった事があるんだからな」


 嘘だ。高校三年生の時に都大会で準優勝になった事があるだけだ。しかし訂正はしなかった。


 鯵沢の言葉が効いたのか、秋吉は態度をコロッと改めた。このあたりはチンピラ気質だ。


「冗談だよ冗談、まったく警察は冗談が通じないから嫌なんだよ。安西のおっさんには借りがあるからよ、俺が知っている事なら教えてやるよ」


 最初からそう素直にすればいいのよ。


「答えてやるから質問しな」


 偉そうに。


「それじゃ聞くわね。あなたは金沢拓也という男を知っているの?」

「ああ、知っているよ」

「あなたと金沢さんとはどんな関係なの?」

「関係って……、仕事紹介してくれって言うから世話してやっただけだ」

「風俗のスカウトの仕事ですね?」

「ああ、スカウトの前にも二・三世話してやったが、今はスカウトやっているよ。いつまで続くか分からねえがな。あいつは兎に角気が短いからよ。声かけた相手に邪険にされるとキレたり、酔っ払いのサラリーマンにケンカ吹っ掛けたりしてよ、そのたびに世話した俺のところに苦情がくるわけだ。まったく、めんどくせえ奴と関わっちまったよ」

「そうですか、するとキレられた人の中には金沢さんの事を恨んでいる人もいるんでしょうね?」

「そりゃいるだろうな」

「誰か心当たりの人はいますか?」

「知らねえな。俺はあいつに引っ付いて生活しているわけじゃねえからな」


 どうやら金沢はあちこちで問題を起こしている事は間違いなさそうだ。犯人はキレられた人の中にいるのかもしれない。


「ところで金沢が何したの? また人でも殺したの?」


 えっ、人殺したって言った!


 鯵沢も驚いて椅子の背もたれから背中を浮かせた。


「ちょっと待って、今また人を殺したって言った?」

「ああ」

 秋吉は平然とした顔をしていた。

「何、あんたらそんな事も知らなかったのかよ」


 知らないから連日聞き込みをしているんでしょうが。


「金沢はいつ誰を殺したの?」


 秋吉は自分だけが知っているという優越感ゆうえつかんひたっていてなかなか教えようとせず、スーツのポケットからフリスクを取り出して口に含んだ。


 このヤロウ、ホントに殴ってやろうか。


「何度言わせる気。勿体付けていないで早く話しなさいよ。でなきゃ頼んだ料理来ても食べさせてやらないわよ」

「分かったよ、怖い顔すんなって」


 怖い顔させるんじゃないわよ。


「あんたら警察官なんだから覚えているだろう? 十年くらい前に山梨で起こった女子高生の殺人事件」


 十年くらい前……、山梨……、女子高生……、殺人事件……。


 ”ゾワッ” 体の中を衝撃が走った。


 あの事件の犯人が金沢なのか!


 私が口を開けずにいたので、鯵沢が代わりに口を開いた。


「その事件は山梨の……、あー、どこだったかな」

「南アルプス市の別荘です」やっと言葉が出た。

「そうだった。その別荘に拉致監禁された女子高生が、三人の少年たちに一週間にわたって凌辱され、あげくに殺されて山林に遺棄された事件だったな」


 鯵沢の脳裏にも鮮明に記憶がよみがえってきたようだ。


 被害者の父親が、加害者の中の少年のうち一人の中学の時の担任の先生だった。その事実が事件の衝撃を更に増大させたのだった。


 私はこの事件が起こった当時は中学二年生だった。学校でも家でも注意するようにと散々言い聞かされたのを憶えている。


「そう、それそれ。金沢がその事件の犯人の少年Aってわけ」

「どうしてあなたがそんな事を知っているの?」

「そりゃ本人から聞いたからに決まっているじゃねえか」当然の事を聞くなという顔を向けた。

「どこで? いつ? 間違いないのね?」

「間違いねえよ。少年刑務所の中で本人から聞いたんだから。ああ言っておくけどな、俺は人殺しはしていねえからな。俺は強盗致傷でパクられたんだから」


 お前が何をして捕まったかなど興味はない。


「いつ金沢は出所したの?」

「三・四年前じゃねえの」

「正確にはいつ?」

「知らねえよ。そんな事そっちで調べろよ」


 それはそうだ。署に戻ってから大至急調べなければならない。


「金沢があなたのところへ訪ねて来たのはいつ?」

「今年の初めだ」

「それまではどこにいたのかしら?」

「大阪って言っていたな」

「どうして上京して来たのか理由は言っていなかった?」

「いなかったな。でも想像はつくぜ。あいつの事だからどうせ大阪で何かやらかして、居づらくなって逃げて来たんだろう」


 これも調べる必要がある。その後も秋吉に話を聞いたが、この話以上に目ぼしい話は聞き出せなかった。料理がくると、秋吉は全てを平らげて帰って行った。秋吉の情報には三万二千四百円の値が付いた。これが高いか安いかはまだ判断しかねた。


「どうした、食わねえのか?」


 私の頼んだラーメンは半分以上残っていた。鯵沢の目の前のあんかけ焼きそばはすでにからになっていた。


「食わねえのなら行くぞ」

「ちょっと待って下さい。帰る前に鯵沢さんの意見を聞かせて下さい」

「意見? 何のだ?」

「金沢をあのような目に遭わせた犯人は誰か?今の話を聞けば……」その後の言葉を口にするのは躊躇ためらわれた。

「誰だって言うんだ?」

「鯵沢さんだって思っているのでしょう?」

「俺は何にも思っていねえよ」


 ズルい。あくまでも私に言わせるつもりか。


「第一容疑者は金沢たちに殺された女子高校生の両親という事になりますよね」

「どうしてだ?」

「どうしてって、娘があんなひどい目に遭ったんだから、親としては犯人に復讐したいと思うに決まっているじゃないですか」

「金沢は少年刑務所に入ってすでに刑期を終えて罪は償っているんだぜ」

「そんな事は加害者側の論理です。被害者にとっては加害者がどれだけ刑務所に入っていたからといって、加害者を憎む気持ちが消えるわけではありません」

「誰の事を言っているんだ?お前の事か?」


 しまった。つい興奮して自分が普段隠している本音を言ってしまった。


「一般論です。私の事は今は関係ありません。この事件の被害者がそう思っているのではないかと言っているんです」

「ふーん……」


 何がふーんだ。所詮しょせんただの刑事には犯罪被害者の遺族の気持ちは分かりはしないのだ。


「復讐したいならどうして金沢を殺さなかったんだ? 娘を殺された事への復讐なら金沢を殺し返すのが普通じゃねえのか?」

「それは……、殺したらそこで終わりだからです。本当に加害者に罪を償って貰おうと思ったら、加害者を生かして一生自分の犯した罪の重さに向き合わせて後悔させようという考え方もあると思います」


 そうだ。殺すだけが復讐じゃない。殺すよりも加害者を苦しめるもっと有効な手段があったのだ。反射的に口を吐いた言葉だったが、私もお母さんを苦しめた男たちに死以上の苦しみを与えてやろう。


「それがお前の考えか?」

「違います。可能性の話をしているんです」


 本心など口が裂けても言えるものか。


「そうか、ならその可能性についてじっくり調べてやろうじゃねえか」鯵沢はそう言うと、ゆっくりと席を立ち上がった。


 署に戻ると早速山梨の事件について調べた。


 事件の正式名称は【南アルプス市女子高校生拉致監禁暴行及び殺人及び死体遺棄事件】という犯罪のデパートのような名前が付いていた。


 女子高校生の福丸優子が拉致されたのが平成十七年十月五日水曜日。殺害されたのが十月十一日火曜日。死体が発見されたのが十月十四日金曜日の朝だった。容疑者の少年二人が逮捕されたのが十月十七日月曜日だった。もう一人の少年はその二日後の十月十九日水曜日に、逃亡先の大阪にある親戚の家に潜伏せんぷくしているところを発見され逮捕された。この大阪で逮捕された少年がどうやら金沢拓也の事らしい。新聞や雑誌の記事には主犯格の少年Aと記されていた。


 少年犯罪の場合、同じ警察官でも簡単に捜査資料を閲覧出来ないのが規則だ。


 ゆえに今の私たちには金沢の事について調べられる事には限界があった。詳しく知りたければ当時の担当警察署、この場合南アルプス中央警察署に捜査資料の閲覧願を申請したり、当時の担当捜査員に話を聞きに出向いて行かなければならないのだ。


 そこで私は南アルプス中央警察署に連絡を入れた。すると、当時この事件に関わっていた捜査員はすでに他の警察署に異動しているか、退職していると教えられた。しかしそんな中でも、現在県警本部の捜査一課に配属されている新井という刑事がこの事件に一番詳しい人物であると紹介して貰えた。


 それを受けて県警本部にいる新井に連絡をして事情を話すと、新井は大変驚いて、自分の知っている事ならば情報提供すると申し出てくれた。そして翌日の日曜日にお互い休日を返上して会う約束をした。

 

 その日の仕事が終了した後、私は一人で金沢の様子を見に病院を訪れた。


 金沢は一般病棟へ移されたと聞いていたが、金沢が移されたのは大部屋ではなく個室であった。金沢に差額ベッド代など払えるのかと不思議に思いながら部屋の前まで来ると、部屋からあの美人の麻酔科医が出て来た。


「ワッ、ビックリした」美人先生はドアの前に私が立っていたので驚いた。

「あっ、ごめんなさい」

「いえ、こんばんは」驚き顔が笑顔に変わった。


”ドキッ”


「私……」


 美人先生の切れ長の目が私を見つめた。女性だと分かっていてもときめいてしまった。


「刑事さんですよね」

「えっ、はい。よくご存じで」

「この間チラッと」

「ああ、はい」


 四日前にICUの部屋の外にいた私を見ていたのか。


「彼、どんな具合でしょうか?」

「ご自分の目で確かめて下さい」


 私は美人先生にうながされて部屋へ入って行った。美人先生も後ろに続いた。


「感染症の心配はなくなったのですが……」美人先生はそこまで言って言葉を言い淀んだ。

「どうしたんですか?」

「ええ、実は今も呼ばれて睡眠剤を投与して眠らせたところなんです」


 その言葉通り、ベッドの上の金沢は寝息をたてておとなしく眠っていた。


「暴れたんですか?」

「ええ、少し。きっと自分の置かれている状況が把握出来ない事にイラ立っているのだと思います。まあ気持ちは分からないでもありませんが、若い看護師の中には怖がってお世話を嫌がっている者もいるみたいです。このまま何度も暴れるようですと、ベッドに拘束する措置を取らなければならなくなるかもしれません」


 暴れた時に同室の患者に迷惑がかからないようにと個室に入れられたのか。


「そうですか」


 手足を失っても金沢は周りに迷惑をかけているのかと怒りを感じた。私の金沢に対する感情は、四日前とは百八十度転換していた。


「早く身元が分かって親族が見つかればいいんですけど」

「あっ、身元は判明しました」

「そうなんですか、良かった。それでは名札にお名前が書けますね。何というお名前ですか?」


 教えていいものか迷ったが、名前だけなら構わないと判断した。


「名前は金沢拓也といいます」

「金沢拓也。さすが警察ですね」

「いえ」

「どんな人物何ですか?」

「それはちょっと」少女を拉致監禁して、レイプして殺した過去があったとはさすがに言えない。

「ごめんなさい。言えない事もありますよね」


 美人先生は私の思いを察してくれた。この人はただの美人ではなく気遣いの出来る美人のようだ。


「すみません」

「それでは親族とご連絡がついたのですね?」

「いえ、それはまだ」

「そうなんですか」

 美人先生は落胆した。

「私が気にする事ではないのかもしれませんが、このような状態の患者さんには、ご親族のサポートがあるかないかで精神の安定が大変変わってきますから」

「そうでしょうね。なるべく早く親族と連絡をつけられるようにします」


 改めて金沢を見た。


 金沢はこれから先ずっと誰かのサポートを受けなければ生きていけない体になってしまったのだ。しかし親族が見つかったとしても、金沢の面倒を看てくれるとは限らない。これまで散々迷惑をかけてきたであろう金沢を、果たしてこころよく受け入れてくれる親族がいるのだろうか?


 金沢は、いっそこのまま死んでしまった方が皆の為になるんじゃないだろうか。


 福丸優子の両親が犯人だとしたら、金沢をなぜ殺さなかったのだろう?


 私が推理したように、苦しめて生かして後悔させ償わせる為なのか?


 福丸夫妻がどういう人間か分からないので何とも言えないが、確かな事は、福丸夫妻が犯人であって欲しくないと私が願っている事と、もし犯人であった場合、私の手で逮捕したくない事だ。


 


 


 



 

 

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