第9話 償いを求める者

 あのまわしい出来事を思い出していたら、結局一睡も出来ないまま朝を迎えてしまった。直美が用意してくれた朝食を早々に切り上げて、俺は昨日より早く出勤する事にした。


 玄関を出る時、表に福丸夫妻の姿があるかと思い怖かったが、福丸夫妻は昨日のように家の前で待ち受けて掃除をしている事はなかった。


 その日から、俺は夜は残業と飲み会とで遅く帰宅し、朝は一時間早く出かけるようにした。


 そのおかげで福丸夫妻とは顔を会わせずに済んでいたが、直美には少しばかりいぶかしがられた。しかしそれも「家一軒を任せられると誰よりも多く働かなければならないし、付き合いで飲みに行かなければならないんだ』と強引な言い訳をして誤魔化した。


 そんな生活を数日続けていたら寝不足になり、そのせいで仕事に精彩を欠いてしまった。そんな俺を見ていて、たまりりかねた岩さんがその状況を社長に告げ、俺は社長に呼びつけられて説教をされてしまう羽目になった。


 福丸と再会してから七日が経った日曜日。


 その日は直美を実家に行かせた。それから俺は勇気を振り絞り、唯一持っているブラックスーツに身を包んで福丸の家へと訪ねて行った。


 しかし、いざ福丸の家の門扉の前に立つと、なかなかインターフォンのボタンを押す踏ん切りがつかなかった。そこで数分ウジウジしていると、突然福丸の家の玄関ドアが開き、福丸が姿を現した。


 その姿を見て、俺は直立して深く頭を下げた。


「やっと来たか。入って来なさい」


 福丸はそれだけ言うと、玄関ドアを開けたまま家の中へと消えて行った。


 まさか、そこで息を殺してずっと待っていたのか?


 俺の背筋に悪寒が走った。


 俺は意を決して門扉を開けて、ゆっくりと玄関へと歩みを進めた。そして玄関口に立って家の中をうかがった。


 玄関の上がりがまちの下の隅には、男物と女物のサンダルが一組づつキレイに並べられていた。胸の高さの下駄箱の上には、普通の家にありがちな置物や絵のたぐいなど何も置かれていなかった。正面には階段があり、階段の手前右奥に廊下が続いていた。


「上がって来なさい」その廊下の奥から福丸の声が聞こえた。

「失礼します」奥の部屋にいるであろう福丸夫妻に聞こえるように大声で言って、靴を脱ぎ揃え、廊下を緊張して進んで行った。


 廊下を進んで行くと、右にリビングがあり、左にダイニングキッチンがあった。正面奥の扉は多分トイレで、その横の扉は脱衣所と風呂だろう。


 福丸は一人でリビングのソファーに座っていた。目の前のテーブルの上には湯気の上がっている湯飲みがあった。福丸の座っているソファーは量販店で売っているような布製のカバーが掛かった安物だった。


 福丸の妻はダイニングにいた。二人用のダイニングテーブルセットの椅子に座り、テーブルの上の湯飲みを両手で包み込むようにしていた。視線はその湯飲みに向けていて、俺の方には目もくれようとしなかった。


「こっちに来てそこへ座りなさい」福丸が向かいのソファーをして言った。命令口調ではあったが、威圧感はそれほど感じなかった。

「失礼します」俺は礼儀正しくする事を忘れずに、一礼してソファーに座った。


 リビングも玄関同様に殺風景で、家具家電といえばソファーセットの他には部屋の隅に三十七インチのテレビがあるだけだった。


 窓の両端には見るからに安物の無地のグリーンのカーテンが束ねられていて、窓の向こうの物干しには男物の洗濯物が干されていた。


 福丸の背後にあるふすまは閉められていて、俺はそこが寝室ではないかと思った。


 俺がソファーに座ると、福丸は湯飲みを手に取り一口飲んだ。その間も福丸の妻はダイニングから動こうとしなかった。どうやら福丸の妻は俺にお茶を出す気はないようだ。それは俺がこの家の客人ではないという意思表示なのだろう。


 俺はどう話を切り出せばいいのかを迷っていた。


 部屋の中を重苦しい空気が漂っていくのを感じた。


 その空気を打ち破ったのは福丸だった。


「何か言う事はないのか?」抑揚よくようのない声だった。

「はい、えー、あの……」言う事は考えて来たのに、いざ福丸を目の前にしたら頭の中がカァーッとなり、考えてきた言葉が飛んでしまった。


 そんな俺を見ていた福丸の目が鋭くなった。


「あ、その……」

 何か言わなくてはとしどろもどろに立ち上がり、態度で示そうとソファーの脇に土下座した。

「申し訳ありませんでした」

 のど奥から絞り出すように言った。


 もっとたくさんの謝罪の言葉も用意していたのだが、それだけ言うのが精一杯だった。


 そして福丸に続いて妻の方にも頭を下げて謝罪した。


「何が申し訳ないんだ?」


 決まっているじゃないか。


「何が申し訳ないんだ?」

 福丸が繰り返し尋ねて来た。

「私たちに分かるように説明してくれ」


 クソッ、俺をいたぶって苦しめようっていうのか。


「……娘さんを……、優子さんを……、拉致……、して……、レイプして……、監禁して……、遺体を……、遺棄した事です」

「それだけじゃないだろう」

 福丸の声は怒りで震え出した。

「殺したんだろう、娘を、優子を」

「ち、違います。殺したのは俺じゃありません。殺したのはキム、金沢です」

「言い訳をするなッ!」

「言い訳じゃありません。ホントのです。それは裁判でも認定されました」

「そんな事は知らん。私たちが参加出来ないところで決められた事など認める事は出来ない。たとえお前が直接手に掛けなかったとしても、何の罪もない私たちの娘を拉致して、その上、レ……、暴行して何日も監禁していたという事は、その時点で殺したも同然だ。違うかッ」


 レイプと言えずに暴行と言い直したのは、父親としてその言葉を口にする事が耐えられなかったのだろう。もう直ぐ娘が生まれる今の俺には、その気持ちが痛いほど理解出来た。


 見知らぬ三人の男たちに次々にレイプされた時点で、肉体は死んでいないかもしれないが精神を殺したと言いたいのだろう。


「そうかもしれません」言い訳する事を止めて、改めて素直な気持ちで謝罪した。

「いつ出て来た?」


 少年刑務所の事を聞いているのだと思った。


「二十一の時です」

「九年前か」

「そうです」

「その時に私たちのところへ謝罪しに来ようとは思わなかったのか?」


 思わなかった。しかし今それを口にするのはマズい。


「どうなんだ?」

「……思いました」嘘をいた。


 この場を乗り切るには、これ以上の怒りを買う事はけなければならない。


「でも、自分は意気地なしで、どうやって先生に謝ればいいのか分からなくて、それに……、どう謝ろうとも許して貰えると思っていなかったものですから」

「行っても無駄だと思ったか?」

「いえ……、はい……。間違いでした。たとえ許されなくても先生のところへ謝罪に訪れるべきでした。申し訳ありませんでした」今はただ自分の非を認めて謝罪する事が得策とくさくだ。

「謝るのは私たちだけではない。お前が一番に謝らなければならないのは、娘の優子にだ」そう言うと福丸は立ち上がり、ソファーの後ろに回って襖を開けた。


 夫婦の寝室だと思っていたその部屋は、仏間だった。襖を開けたその正面の壁際には、リビングにあるテレビの三倍の大きさの仏壇があった。


 福丸は仏間に入って行き、仏壇の前に正座して仏壇の中にあるロウソクに火を灯した。そして線香に火を移し香炉に立て念仏をとなえだした。


 俺は福丸の隣に行くべきかここで待つべきか迷って、結局襖の手前で正座して念仏が終わるのをジッとして待つ事にした。


 仏壇の前にはお供物机くもつづくえが置いてあり、そこに果物と一緒にフォトフレームに入れられた優子の写真がいくつもかざられていた。


 十分以上経って、唱え続けられていた念仏がようやく終了した。


「こっちへ来なさい」福丸が振り返って命令し、仏壇の前をけた。


 俺は足のしびれを我慢して仏壇の前へ移動して正座した。


 お供物机の上のフォトフレームの写真は、高校の制服を着て楽しそうに笑顔を見せているものや、見覚えのある中学校の校門の前で入学式の立て看板の横ではにかんでいるものや、小学校の運動会で体操着で必死な顔をして走っているものや、七五三の時のキレイな着物姿のものや、ウサギのぬいるぐみと一緒に寝ているものなどが飾ってあった。


 どの写真も福丸夫妻にとっては思い出深い写真なのだろう。


 さて、仏壇の前に座ったはいいが俺は無宗教なので念仏は唱えられなかった。仕方なく社長の家の先祖の仏壇の前でいつもやっている事をする事にした。線香に火を移し香炉に立てた後、無言で合掌した。


 社長の家では特に何も思う事なく適当な時間で終えるのだが、それと同じ事を今この場ですれば福丸の心証を悪くするだろう。俺は合掌したまま動かないで、福丸優子に対して心の中で『ごめんなさい』を繰り返し言い続けた。


 しかし背後で福丸が俺の様子を見ていると思うと、祈りの止め時が分からなかった。


「もういい、こっちへ来なさい」


 俺の気持ちを察してくれたわけではないだろうが、福丸が止めるきっかけを作ってくれた事にホッとした。


 俺はリビングに戻り、福丸が座るのを待って一礼してからソファーに座った。


「どうだった?」


 何がどうだったのだ。


「優子は何か言っていたか?」

「……いえ」


 俺に何を言わせたいのだ。


「何も言っていなかっただろう?」

「……はい」

「どうしてだと思う?」


 俺の事をうらんでいるからとでも言わせたいのか。


「死んでいるからだよ。死んだ人間はどんなに恨んでいたとしても恨み言は言えないんだ。仮に許す気持ちがあったとしてもそれを相手に伝えられないんだ。お前にはそれが分かるか?」

「はい、分かります」

「嘘をけッ! 上っ面の返事をするんじゃないッ! 何をどう分かっていると言うんだッ!」福丸の口調は中学の時に俺を叱りつけてきた時と同じだった。


 何と言えば納得してくれるんだ。


「さっき二十一歳で少年刑務所から出所して来たと言ったな」ついさっきの怒ったのが嘘のように落ち着いた口調に戻った。

「はい」

「確か求刑は七年だった筈だ」

「はい……。減刑されました」

「反省して真面目に過ごしていたという事か」

「自分では分かりませんが、そう評価されたんだと思います」


 俺が減刑をしてくれと頼んだわけではない。そこに腹を立てられても困る。


「五年か……。妥当だとうな罰だったと思うか?」

「分かりません。自分で決めた事ではありませんから。でも……」

「でも何だ?」

「いえ、何でもありません」

「言おうとして途中でめるなッ。言いたい事があるならはっきり言えッ」


 マズい。また怒らせてしまった。


「はい……。自分なりに自分の犯した罪と向き合って日々反省して、償ってきたつもりです」


 嘘じゃなかった。警察に捕まった当初は罪を犯した事ではなく、犯罪がバレた事をやんだ。だが何日も取り調べを受け、そして裁判が始まり罪と向き合わさせられると、反省の気持ちが芽生え、少年刑務所では罪を受け止め生まれ変わる事を自分に誓ったのだ。


「償った……、つもりか……」


 他にどう言えばいいんだ。裁判所が決めた罰をちゃんとしっかり受けて、更生して社会に出て来たんじゃないか。


「私たちの娘をあんなむごい目に遭わせておいて、たった五年刑務所に入ったぐらいで罪が償えたと思っているのか?」


 答えなかった。何をどう言ったところで、被害者の親である福丸には言い訳に聞こえるのだろう。福丸はどう転んでも俺を許す気はないのだ。その事がここまでの話でよく分かった。


「娘が生まれるそうだな」


 子供が生まれてくる事は直美のお腹を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんだが、何で生まれてくる子の性別が女だと知っているんだ……。そうか、直美が喋ったのか。クソッ、余計な事を喋りやがって。


「はい」知られてしまったのならば否定をしてもしょうがない。

「想像してみろ。その娘が高校生になって、その辺の不良に拉致されて、暴行されて、監禁され、挙句あげくの果てに殺されて、冷たい土の中に埋められる事を……。そんな目にお前の娘が遭った時、お前はその犯人を許せるか?」


 許せない。許せるわけがない。


「……許せません」俯いたままポツリと言った。

「そんな犯人を、お前ならどうする?」


 決まっている。絶対に殺してやる。しかしそんな事は口が裂けても言えない。


「奥さん、直美さんはお前が過去に何をしたか知っているのか?」


 直ぐには答えられなかった。福丸は俺が答えるのをジッと待っていた。


「……知りません」小さな声で答えてからゆっくりと顔を上げた。


 福丸は鋭い目を俺に向けていた。俺は怖くなって再び俯いてしまった。


「……直美には何も話していません」

「どうしてだ? 罪を償ったと言うのなら隠さずに堂々と話せばいいだろう」


 そんな事は出来る筈がない事は分かるだろう。


 福丸は直美に事件の話を言う気なのか。それは絶対に阻止しなければならない。


「お願いします。妻には、直美には話さないで下さい。先生が俺の事を許せないのはよく分かります。でもどうかそれだけは勘弁して下さい。その代わり何でも言う事を聞きます」福丸に頭を下げてお願いし、続けてダイニングにいる妻にも頭を下げた。


 妻は俺に視線を合わせる事なく福丸を見た。福丸はその妻に対して小さく頷いたように見えた。


「今何でも言う事を聞くと言ったな」

「はい」


 そう返事をしてしまったが出来ない事もある。死ねと言われても死ぬ事だけは出来ない。今の俺には生きて守らねばならない家族がいるのだ。


 福丸が何を言ってくるのかを考えたら、手が小刻みに震え出した。


「心配するな。お前に死んでくれなどと言うつもりはない。私は教育者の端くれで、命のとうとさをたくさんの生徒に教えてきた身だ。そんな私がどんな理由があろうと人を死に追いやるような事はしない」


 その言葉にホッとした。ただその言葉を鵜呑うのみにするほど俺もお人好しじゃない。執念しゅうねん深く俺を捜して向かいの家に越して来たのだから、何もなしで済むわけがない。


「お前には簡単に死なれて貰っては困る」


 ほらきた。


「誠意を見せてくれ」

「誠意?」

「そうだ。優子と私たちに、お前が本当に罪を後悔して償う気持ちがあるというところを見せてくれ」


 福丸が俺に何をさせたいのかが全く分からなかった。


「難しい事ではない。真摯しんしに償う気持ちがあるのなら簡単に出来る事だ」


 何だ、何をさせる気だ……。頭の中で思考が空回りした。


「一日一回、この家に来てその仏壇の前に座り、優子に対して心から謝って貰う。ただそれだけでいい」


 耳を疑った。


「それだけでいいんですか?」拍子抜けした。


 そんな簡単な事ならどうって事はない。


「何があろうと一日一回必ず来るんだ。朝でも夜でも時間はいつでも構わない。その代わり雨が降ろうが雪が降ろうが嵐がこようと決して休む事は許さない。言い訳は一切聞かない。お前の家は向かいの家だ。三分あれば済む事だ。どうだ、出来るか?」

「出来ます」即答した。


 一日のうち三分時間を作ればいいだけだ。出来ないわけがない。


「そうすれば直美には事件の事を黙っていて貰えるんですね」


 福丸の気持ちを逆なでするかと思ったが、再確認しないわけにはいかなかった。


「ああ、約束しよう。お前がこの条件を守りさえすれば私たちはお前の家族に事件の事は話さない。しかしこの条件を守らなかった時は全てを話させて貰う。直美さんだけでなく、生まれてくる娘にもだ。その時、娘が子供なら理解出来る年齢を待って話す。いいな」


 もしかしたら俺は今とんでもない約束をさせられたのかもしれない。そう思い始めたら体全体が震え出した。


 しかしこの申し出を受ける以外に俺の選択肢せんたくしはない。


「はい」


 大丈夫だ。そんな事は起こらない。簡単な約束じゃないか。そう自分に強く言い聞かせた。



 

 

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