第3話 猟奇的傷害事件

 高校三年生の私は大学進学を取りやめて警察官になる決心をした。お母さんが亡くなって大学の授業料が払えなくなったからではない。それはお母さんの生命保険金で事足りていた。私が警察官になろうとしたのは、警察官になれば、室伏、春山、少年Aを捜し出せると思ったからだ。


 私はあの三人がまだ正当な罰を受けていないと思っていた。だから三人を捜し出し、お母さんや多香子さんやその他の泣き寝入りした女性たちに代わって、私が罰を受けさせてやると自分に誓ったのだ。


 警察学校を卒業して八年。短かった髪の毛を更に短くカットして、現在私は世田谷西警察署の刑事課の刑事になっていた。


 私は今、駒沢公園の近くにある国立病院のロビーにいた。国立病院だけあって聞き憶えのない診療科がいくつもあった。病院のロビーのベンチに座っていると、改めてこんなに病気の人が大勢いるのかと驚かされる。


 私は幸せな事に病院にはあまり縁がなかった。私が病院のお世話になるのは、年に一回の健康診断と歯科のメンテナンスくらいだ。だからといって病気にかからないわけではない。年に一・二回は風邪をひくし、腹痛も数度は起こすのだが、そういう時は病院へは行かずに自力で治しているのだ。健康で丈夫な体に生んでくれたお母さんの遺伝子に感謝である。


 それにしても遅い。


 課長は直ぐに向かわせると言っていたが、一時間待ってもその人は現れなかった。高尾で発生した殺人遺体遺棄事件の特別捜査本部に援軍として駆り出されているので、急に戻って来いと言われても難しいのかもしれない。


 それから三十分経ち、やっと待ち人が現れた。鯵沢徳次あじさわとくじ・五十八歳、階級は私と同じ巡査部長だ。鯵沢は病院の入り口を入って来て、あたりをキョロキョロと見回している。私は待合所のベンチから立ち上がって鯵沢の元へと近付いて行った。


「おはようございます」

「おう」


 鯵沢の剛毛ごうもうの短髪の髪の毛は今日もしっかり寝ぐせで跳ねていた。還暦目前かんれきもくぜんのベテラン巡査部長には身だしなみを整えようという概念がいねんがなく、ファッションにもまったく興味がない。七年前に亡くなった鯵沢の妻が誕生日にプレゼントをしてくれたベージュのノーブランドコートを今年も買い替えずに着ていた。


「今年もそのコートですか?」

「まだ着れるからな」


 確かに着られるがすそは擦れて薄くなっているし、えり袖口そでぐちは黒ずんでいた。いい加減買い替えても奥さんも怒りはしないだろうに。


「着るのはいいですけど、せめてクリーニングに出して下さい」


 奥さんとの想い出を大事にする気持ちがあるのならばそれくらいはして欲しい。まあ、それが出来ないのがガサツな鯵沢らしいのだが。


 それにしても十一月になり寒くなってきたとはいえ、今日は晴れていて暖かい。コートのお世話になるには少し早い気がした。歳を取ると寒さに敏感になるのだろうか?


「今日そんなに寒いですか?」


 私はパンツスーツにジャケットというスタイルだ。


「高尾はこっちより冷えるんだよ。こっちに戻すならもう少し早く言ってくれりゃいいのによ。あの課長気が弱いから、特捜に俺を戻して貰うのをお願いするのを躊躇ちゅうちょしてグズグズしていやがったんだぜきっと、あのバカ」


 ひどい言われようだが、刑事課長の相沢には往々にしてそういうところがある。自分の部下にさえ命令する事はなく、お願いするか私たちが自主的に動くのを待っているのだ。それはそれで私たちは仕事がやりやすいのだが、他の部署と連携をしなくてはならない時に困る事があるのだ。


 ちなみに最後のバカという言葉には大した意味はなく、下町育ちの鯵沢の口癖だ。鯵沢は何かというと言葉尻にバカを付けるのだ。本人もその口癖については自覚していて、目上の人間や初対面の人間には極力使わないように努力しているのだが、時折興奮してその事を忘れて口走り相手と揉める事があるのだ。


「高尾の事件はどんな状況ですか?」

「やっかいだな。被害者の一人の身元が判明した以外にこれといって進展がねえからな」


 高尾の事件というのは、五日前に高尾山のふもとの森の中で不法投棄されたゴミの中から発見された、二人の若い女性の殺人及び遺体遺棄事件の事だ。


 発端ほったんは匿名の通報だった。高尾中央警察署に、地図と、その地図に印を付けた場所に二人の女性の遺体が遺棄されているという文書が届いたのだ。警察は半信半疑ながらその地図に記された場所を捜索すると、ほどなく鍵がかかった大型のキャリーバック二つの中に裸の女性の遺体を発見したのだ。


 検死の結果、一体は死後約三ヵ月経過していて白骨化が進んでいた。もう一体の方は死後約二週間だったが腐敗はかなり進行していたそうだ。


 年齢は白骨化した遺体の方が二十代前半、もう一体の方は十代後半だと推定された。二人とも頬骨や肋骨が不自然に折られていて、死因は暴行死であるとされた。


 警察はこれを同一犯による連続殺人及び遺体遺棄事件と認定して、特別捜査本部を高尾中央警察署内に設置した。


 遺体には身元を特定出来るような所持品はなかった。そこで全国の警察に届けられた家出人の捜索願いのリストの中に該当者がいないか調べてみたところ、十代後半の被害者が世田谷区等々力在住の女子高校生・工藤綾香であるという事が判明した。そこで工藤綾香の居住する所轄署である世田谷西警察署から、鯵沢と秋葉両刑事が特捜本部に援軍として派遣されていたのだった。


「もう一人の白骨遺体の女性の身元はまだ判明しないのですか?」

「ああ」

「捜索願いの女性の中にはいないんですかね?」

「まだ全員に当たったわけじゃねえから何とも言えねえけど、家出した人間全員に捜索願いが出されるわけじゃねえからな。そっちにいるとしたら身元の割り出しに苦労する事になるぜ」


 この国で一年に捜索願いが出されるのは八万人を超えており、届け出の出されない行方不明者はその倍とも三倍とも言われている。


「そもそも家出人とは限らねえしな。都会の一人暮らしをしている奴で家族と半年や一年も連絡を取らねえ奴なんか今の世の中ザラにいやがるし、連絡が取れなくなっても心配してくれるダチの一人もいねえ奴もいるしな。世知辛せちがらい世の中になっちまったからよ」


 確かにその通りだ。最近の若い子の中にはあえて友達を作らない子もいるという。わずらわしいけど淋しい、そんな子はネットの中に友達を作るのだそうだ。


「凛、オメエはどうなんだ? 行方不明になったら心配してくれるダチの一人や二人はいるのか?」

「いますよ」


 と答えたがどうだろう……。働いている今は無断欠勤をすれば職場の仲間は心配して不審に思ってくれるだろう。鯵沢など真っ先に家に訪ねて来てくれそうだ。しかし仕事を辞めてしまったらどうだろうか?学生時代にはそれなりに友達はたくさんいたが、卒業するとその付き合いは年々疎遠になっていき、いまだに付き合いがあるのは麻美だけだ。その麻美も去年夫の転勤に伴ってメキシコに旅立ってしまったので、それからは一度だけスカイプで話したきりだ。もう一人、幼馴染の金物屋の正樹がいる。用があれば頻繁ひんぱんに会ったりするが、そうでなければ連絡を取り合う事はない。そう考えると私も孤独な人間の一人だ。


 それは妻を亡くして子供のいない鯵沢も同じではないかと思ったが、つまらない事で言い合いをしたくなかったので言わずにおいた。


「秋葉君も戻って来たんですか?」話題を変えた。


 秋葉というのは刑事課の中で私と同じ年齢の男の刑事だ。ちなみに階級は巡査長なので、この春に巡査部長に昇進した私よりは階級は下である。


「奴は居残りだ。一人で取り残されて大変だろうがこれも経験だ。へっへ」鯵沢は嬉しさを混じらせた意地悪な笑いをした。


「やはり特捜の現場というものは違うものですか?」

「オメエ特捜の経験なかったか?」

「ありません。一度経験したいと思っているんですが」


 特捜こと特別捜査本部が警察署に設置されるのは、殺人事件をはじめ社会的に注目される凶悪事件が起こった時だ。私が警察官になってからはまだそのような事件にめぐり合った事はなかった。今回の事件で特捜が設置されるのではないかと期待したが、今のところその気配はなかった。


「へっ、所轄の刑事が特捜に参加したって良い事なんか何もねえよ。本庁のお偉いさんの仕切りのもと。俺たち所轄の刑事は本庁の刑事に見下されてあごで使われて、自分の意見なんか一つも言えないんだからな、つまらねよ。女のオメエは尚更なおさらだ」


 鯵沢の言わんとするところは分かった。警察という組織はいまだに男尊女卑だんそんじょひが存在する。表向きは男女同権をうたってはいるが、まだまだ女が活躍するのを良しとしない風潮ふうちょうがあるのだ。


「一度経験すれば分かるがストレス溜まるぞ、あのバカどもに付き合わされると」


 本庁の偉い刑事は高卒の鯵沢より確実に頭は良いに決まっている。それなのにこの言いようは、どうやら鯵沢は特捜でよっぽど嫌な思いをしてきたようだ。


「ところでこっちには本庁の奴らは出張でばって来ているのか?」

「いえ、今のところはまだ」

「そうかいそうかい、そいつはいいや」

 鯵沢はあからさまに嬉しそうな顔を見せた。

「よっしゃ、こっちの事件の事を聞かせろや。ガイシャはどんな状態なんだ?重傷だと聞いたが、命は助かったのか?」

「はい、助かりました。命は助かりましたが、それが良かったのかどうか……」

「何だ?」

「命以上に大事なものはないと言いますが、失ったものは大きいですよ」

「何だ、何を失ったと言うんだ?」

「命以外の全てと言ってもいいかもしれません。まさにこの事件は猟奇的傷害事件です」

「猟奇的だぁ、大袈裟おおげさな事ぬかすんじゃねえ、バカ」


 私は鯵沢を病院の外に連れ出して、この事件の被害者が受けた傷を報告した。被害者は目を焼かれ、耳の鼓膜を破かれ、口は歯を全て抜かれ、舌と声帯を焼かれ、両手足は結束バンドできつくしばられ壊死えしさせられていた。これを猟奇的と言わずに何と言うのだ。


「どうです、猟奇的事件でしょう?」

「確かに普通じゃねえな」

「猟奇的です」

「言い方は兎に角、壊死させられた手足はどうなるんだ?」

「これから手術です」

「手術って、切断するのか?」

「そうせざる得ないだろうと先生はおっしゃっています」


 被害者を診察した医師は、結束バンドを取り外し壊死した手足の状態を観察していたが、肌の色は元に戻る様子はなく、放っておくと壊死が広がる懸念けねんがあるので手足を切除する苦渋の決断をしたのだった


「ケッ、たまんねえな」

「まったくです。命が助かっても一生不自由な体で生活する事になるんですから」

「意識はあるのか?」

「発見された当初はありませんでしたけど、徐々に意識は取り戻していました。しかし目が見えず耳も聞こえないので、自分が今どのような状態にいるのかを分かっていなかったんじゃないでしょうか。手術の時にまた麻酔で眠らされるでしょうし」

「そうか……」鯵沢はそう言うと黙り込んだ。


 私もそうだったが、鯵沢も被害者の未来に思いをはせてうれいているのかもしれない。根は優しいおじさんなのだ。


「これからどうしますか? 被害者は手術に入りますからここにいても仕方がないですよ」

「発見場所はどこだ?」

「深沢の住宅街の中にある公園です」


 匿名の『助けて』という119番通報があったのが夜中の二時五十七分の事だった。救急が駆け付け、現場の異常な状況を見て警察に連絡があり、当直していた私が現場に到着したのは三時二十五分だった。


「現場連れて行けや」

「はい」


 私と鯵沢は病院を出て、駒沢通りにあるバス停でバスを待った。ほどなくバスが来て、私たちは乗車した。車内の座席は優先席の二席以外は埋まっていて、立っている乗客が二人いた。鯵沢は優先席には目もくれず吊り革につかまったので、余計な事は言わずに黙って横に立った。


 鯵沢と私には同僚という以外に浅からぬ因縁いんねんがあった。二十七年前、地域課から少年課へ転属したばかりの鯵沢は、お母さんの事情聴取を担当したのが縁で、以降親身になってお母さんをフォローしてくれていたのだ。


 鯵沢がそういう人物だったという事はお母さんが亡くなった後に知ったのだが、その存在は学芸大学の商店街におにぎり屋を開店した当初から見知っていた。鯵沢はお店の常連客で、私の誕生日に必ずプレゼントをくれる顔は怖いが優しいおじさんという認識だった。そのおじさんがどうして私を可愛がってくれるのかを深く考えた事はなかったが、お母さんとの関係を知ってその謎も一気に解けたのだ。ちなみにおにぎり屋の物件を借りられるように骨を折ってくれたのも鯵沢だった。


 バスを降りて五分歩くと、被害者が発見された公園に着いた。その公園は住宅街の一角にあり、公園の中央には大きな桜の木が一本生えていて、木製のベンチ以外は遊具やトイレは設置されていなかった。【深沢第十公園】という正式名称があるのだが、近所の住民たちには【さくら公園】と呼んでいるそうだ。


 公園の出入り口は一つで、警察による立ち入り禁止の規制線のテープが張られていたが、見張りの警察官の姿はなかった。という事は鑑識作業が終了している証拠だ。この場所は犯行現場ではなく発見場所なので、鑑識作業が終了していれば現場保全の必要性はあまりない筈だ。


「小せえ公園だな」鯵沢は私が初めてこの公園を見た時と同じ感想を言った。


 五十坪弱の広さしかない公園は周囲を腰高の竹垣に囲まれていて、北西の角にある出入り口に近頃すっかり見かけなくなった電話ボックスがあった。公園内には四方の中央付近に三人掛けの木製のベンチが二脚づつ置かれていた。南側と東側は住宅に面しており、西側と北側は道路に面していた。


「昼間は近所の小さい子供を持つママさんたちやお年寄りがお喋りをして利用していて、夜は酔っぱらって家にたどり着けないサラリーマンがベンチで寝ている事がたまにあるそうです。今日被害者を発見したときには誰もいませんでした」

「ガイシャがいた場所はどこだ?」

「出入り口に一番近いあのベンチに放置されていました」


 私は北側のベンチのところまで歩いて行った。鯵沢は付いて来てベンチに座り出入り口の方を見た。


「前の道から見えるな」

「でも発見されたのは午前三時ですから、ここは相当暗かったと思われます。外灯は奥に一つあるのと、電話ボックスから漏れる灯りだけですから、目撃者がいたとしても、それこそ酔っ払いが休憩しているぐらいにしか思われなかったんじゃないでしょうか」

「通報者は?」

「それが匿名の男の人だそうです。携帯電話からではなく、あの電話ボックスから通報がされたそうです」


 私は手帳を開いて救急のオペレーターから聞いた話を伝えた。


「通報者は弱弱しい声で『助けて』と一言だけ言って、それっきり何も話さなかったそうです。通話は切れていなかったのでオペレーターは話しかけを続けたそうですが、応答がなかったのでその通話先を調べた結果、そこの電話ボックスからかけられているのが判明したので、直ぐに救急が駆け付けて被害者を発見したそうです」

「助けてか……」

「被害者の声じゃない事は確かですよね。何せ被害者は言葉を発せられないんですから」

「分かりきった事を一々口にするんじゃねえ、バカ」

「一応言っただけです」

「そんな事より弱弱しい声ってえのが気になるじゃねえか」

「はい、私もそれは変だと思いました。被害者でもない通報者が弱弱しい声で通報するのはおかしいですよね」

「気が弱い通報者ってか」

「被害者の姿に驚いて声が出なかったという事かもしれないですけど」にしても違和感がある。

「その音声、一度聞きてえな」

「分かりました。手配します」

「これは自転車のタイヤ痕か?」


 鯵沢は地面に付いている出入り口から続く二つの平行な溝を指さした。


「ちょっと違います、それは車椅子のタイヤ痕だそうです」


 私は鑑識課員から聞いた結果を教えた。


「車椅子に乗せてベンチまで運んで来たって事か」

「はい。鑑識さんの見解では、犯人は出入り口前の道路に車を停めて、被害者を車椅子に乗せてここまで運んでベンチに移したそうです」


 私は犯人が通ったであろう道筋を車椅子を押すふりをしながらなぞって歩いて見せた。


「車椅子は?」

「残されていません」

「ガイシャの体格は?」

「えーと……、身長が181センチ、体重が77キロです」手帳を見て答えた。

「77キロか……。そこそこいい体格しているな」

「そうですね。被害者の手足が壊死させられていた事を考慮しますと、長い間監禁されていたと思っていいでしょう。その間まともに食事を取らされていなければ、元の体重はもう少し重かったかもしれませんね」


 私の推理を言ってみた。鯵沢もそう思っていたのか反論はしてこなかった。


「そのくらいの体格だとすると、車椅子からベンチへ移すだけでも結構体力がいるな」

「犯人は男ですか?」

「常識的にはな。オメエは運べるか?」


 私の身長は160センチだ。私は20センチ以上の身長差と20キロ以上の体重差の男を持ち上げる想像をした。


「私は日頃から体を鍛えていますから、車椅子からベンチまでの短い距離なら頑張れば運べない事はないかもしれません」

「イヤ無理だな。意識のねえ奴を運ぶのがどれだけ大変かオメエは知らねえんだ、バカ」


 またバカって言った。


 ムッとしたが反論しないでおいた。鯵沢には女の可能性も示唆したが、私も犯行の残虐性から犯人は男だと思っていたのだ。


「ゲソ痕は?」

「いくつか採取されましたがその中に犯人のものがあるかどうかは分かりません」


 公園には不特定多数の人間が出入りするのだから色々な人間の足跡があって当然なのだ。ゲソ痕は容疑者が浮上するまで出番はない。


「聞き込みはしているのか?」

「はい。高槻さんたちや他の課の手隙の刑事たちに助けて貰ってやっています」

「よし、俺たちも聞き込みするぞ」


 刑事課には十二人の刑事が在籍しているが、それぞれが捜査継続中の事件を抱えていた。しかし新たな事件が発生すると初動捜査の重要性から、それぞれの捜査を中断して初動捜査に協力するのが我が署の刑事課のやり方だ。今回はその他にも地域課や交通課からも人員を借りて、出来るだけ大勢で初動捜査に万全の態勢を敷いていた。


 昼前に捜査関係者が警察署の会議室に集められ、それぞれの聞き込みの成果と鑑識結果が報告された。


 被害者が発見された時間が時間だけに犯人に関する有力な情報はなかった。


 住宅街の中には数軒の家に防犯カメラが設置されていた。その映像を確認した捜査員によると、映像に映っているのは自宅の玄関先が多く、道路までカバーしている防犯カメラは少なかったが、それでも三軒の家の防犯カメラが辛うじて道路を映していたそうだ。しかしそのカメラに映っていたものは、時折道路を横切る車のヘッドライトの灯りだけで、車の車種はおろか色さえも分かる映像はなかったそうだ。


 映像は更に鑑識において詳しく分析して貰う事になった。


 公園内を捜索した鑑識課員の報告では、被害者と加害者の遺留品と思われる物は一つも発見されなかった。その他にはこれといった有力な情報はなされなかった。


 それから犯人の人物像について捜査員の間で意見が交わされた。捜査員の多数はこの事件を怨恨えんこんによる犯行との見解にめられた。


 他方、ヤクザや外国人マフィアによる敵対勢力に対しての見せしめ的犯行との意見も出たが、暴対法が施行しこうされてからのヤクザはこのような犯罪は起こさなくなっており、外国人マフィアはこのような手間が掛かる上に殺しもしないという中途半端な手段は取らず、手っ取り早く闇から闇へと葬り去ってしまうだろうと、組織犯罪対策課に在籍していた経験がある強面こわもてで有名な郷田が意見を述べた。何とも恐ろしい意見だったが、私は妙に納得した。


 また、愉快犯ゆかいはんの可能性も検討されたが、被害者が体格のいい若い男である事から犯行にはリスクがともなうとして、早々に否定された。


 捜査会議は呆気あっけなく終了した。


 結論としては、都内で殺人事件が頻発ひんぱつしている事から、特別捜査本部の設置は見送られた。本件はあくまでも傷害事件であり、警視庁管内では、高尾の殺人事件以外にも五件の殺人事件の特別捜査本部が設置されていて、こちらの傷害事件くらいで手をわずらわせたくないと言うのが課長が述べた理由だった。


 特別捜査本部が設置されない事を私以外の捜査員は歓迎した。しかしただ歓迎したわけではなく、本庁の刑事の手を借りずに結果を残してやろうと士気は上がっていた。


 捜査協力をしていてくれた他部署の捜査員たちは、午後から各自の仕事に戻って行く事になり、高槻たち刑事課の刑事はしばらくの間この事件に専従せんじゅうして当たってくれる事になった。そして早速、今夜刑事課総出で被害者が発見された前後の時間にもう一度公園付近で聞き込みを行う事になった。


 捜査会議が終わると、私と鯵沢は警察署の近くにある定食屋で少し遅い昼食を取る事になった。店内には近くの体育大学のジャージを着た体格のいい男子が四人、テーブル席に座って食事をしていた。私たちはそのグループから一番離れた席に腰かけた。


 鯵沢は席に着くなりメニューも見ずに山菜そばを注文した。この店は体育大生や警察官が多く利用しているからか、何を注文してもボリュームのある料理が出て来るのだが、そば類は割とノーマルな量で出て来るのだ。

 

 鯵沢がお母さんのおにぎり屋に出入りしていた頃は、一度におにぎりを五個も六個も食べていたものだが、今年の春の健康診断で糖尿病の気配けはいがあると診断され、それからは食事に気を使うようになっていた。


 私は少し迷ってスペシャルミックス定食を注文した。スペシャルミックス定食とは、ハンバーグに目玉焼きとエビフライにコロッケという超ハイカロリーな定食だ。注文し終えた私を鯵沢はあきれた顔をして見ていた。 


「よくそんなもん食えるな」

「夜中に起こされてからほとんど何も口に入れていないんです」

「それにしたって若い女が食べるものかね、そんな事じゃ……」


 私は鯵沢の言葉をてのひらを出して制した。


「それ以上言うとセクハラになりますよ」

「うるせえな、分かっているよ、バカ」


 鯵沢は私がセクハラに対して敏感びんかんである事を知っていながら時々無意識にそのたぐいの言葉を口にする。それは警察組織に長い間在籍している事の弊害へいがいだろう。それくらい警察組織はセクハラの宝庫なのだ。いくら親しい間柄だといっても、言う時に言っておかないといつまで経ってもセクハラはなくならないのだ。セクハラを無くす為には勇気を出して声を出し続ける事が大事なのだ。そうする事が他の女性警察官の為にもなると思って、私は私がセクハラだと感じたら誰であろうとどんな些細ささいな事であっても指摘する事にしているのだ。


「刑事は体力勝負だから食べられる時に食べておけと教えてくれたのは鯵沢さんですよ」

「分かっているよ。だから食欲があってうらやましいなって言おうと思っていたんだ。それをセクハラだなんて先走りやがって、バカが」

「ついでに言っておきますが、そのバカはパワハラになりますから」

「何ッ、バカヤロウ。これは口癖だ、知ってんだろう」

「知っていますが、気を付けて下さい」

「分かった分かった、ったく……」鯵沢はバカを飲み込んだ。


 フッ、ちょっとイジメ過ぎたかな。優しくしてあげるか。


 鯵沢は指先でテーブルを叩き出しイライラし出した。


「お薬ちゃんと飲んでいますか」


 糖尿の薬と高血圧の薬の事だ。


「んあぁ、ああ、飲んだり飲まなかったりだ」


 妻に先立たれた男はこれだから……。


 一度部屋を掃除しに行ってあげた事があったが、それは酷いものだった。


「駄目じゃないですか」

「心配してくれるのか、嬉しいね」

「心配ぐらいしますよ、長い付き合いですからね」

「本心か?」

「勿論。鯵沢さんには親子共々何だかんだお世話になっていますから、病気にはなって欲しくありません」

「嘘くせえんだよ、バカ」


 このバカは喜びのバカだった。その証拠に鼻の穴が思いっきりふくらんでいる。


「でも倒れて寝たきりになっても面倒は見ませんから、そこのところはしからず」

「バカヤロウ、そんな事期待しちゃいねえよ」

「なら良かった」

「それよりオメエ、またおかしな事していねえだろうな」


 きた。定期的に私に釘を刺す一言だ。そろそろ言ってくる頃だろうと思っていた。


「何です、おかしな事って?」


 シラをきってやった。


「すっとぼけやがって、朋子ちゃんの件に決まっているだろうが。また性懲しょうこりもなく調査し出したりしていねえだろうな」

「ああ、その件ですか、していませんよ。鯵沢さんが教えてくれた以上の事は私には調べられそうにありませんから、もうとっくにあきらめました」

「本当か?」

「はい。日々の仕事が忙しくて、他の事に時間を費やしている暇はありません。お母さんだって過去にしばられていないで未来に顔を向けて一生懸命仕事をして生きて行きなさいって願っていると思うし」

「そうか、ならいい」


 嘘だった。


 鯵沢が今私がしている事を知ったなら烈火れっかごとく怒るだろう。イヤ、それでは済まないかもしれない。だから絶対に鯵沢には知られてはならないのだ。その為にも平静をよそおい嘘もくのだ。ベテラン刑事相手に難しい話だが、誰であっても私の行動を邪魔させるわけにはいかないのだ。


 鯵沢が私の言葉に疑いを持って聞いている事は感じてた。事件の事に話をらそうかとも思ったが、却って怪しまれると思い自制した。


 折よくその時、鯵沢が注文した山菜そばが運ばれて来た。鯵沢はこの話をそれ以上突っ込んでくることなく、割り箸を取って山菜そばを食べ始めた。




 

 

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