「友達じゃない」

なんだと?!

と思う事件が発生した。


私は比較的、現実世界においては“心を許せる他人”が数少ないのだ。

反面、こうしたネット上のつながりにおいては、心を許してしまっているからこそ思い入れの深い人物がたくさんいる。


「つまり、友人!」

「違う!」


という審議が、各現実世界の繋がりのある人同士で起きた。

(なんかファンタジーみたいな出だしになってしまった)






えっと、私の友人の定義というのは、自分をさらけ出せる人のことを言う。それは誰しもが思っていることかも…しれない。


こうして友人の定義を考える機会があるので、少しだけ友人のことを思いだしたり、考えてみたりする。


私は、結構知らない人に話しかけられたりすることが多い。特におじいちゃんおばあちゃん。どこかしらの店員と間違えているのかなと思ったら、どうやら違う。ただ私に話しかけたかったから話しかけてきたんだ、そんな感じ。


その影響あってか、知人は多く存在する。

だが、その中でも現実では、私は両手で数えきれてしまうほどの友人しかいないと思っている。つまり、ほぼ知人。

それが私にとっては、限られた友人を大切にしたいと切に願う幸せであると常々思うわけ。




このご時世、SNSやらなんやらで色々と人とのつながりを求めている人が多い。もちろん、この場でもたくさんの人とのつながりを求めている私は、その中の一人なのかもしれない。


だけど、ここからなぜこの繋がりを求めているかについてのルーツをたどるか。それは、知人と思しきものたちから受けた「絶望」のインスピレーションから始まるわけで。


たぶん、この今まで出会った中の知人というものが、私にかなりの絶望を与えてきたからこそ、こうして私が生まれたのだと思っている。だからこそ、この衝動が抑えきれなくなり、爆発したなんてこともよくあった。

病院に、行こうとも考えた。


だが、発散するためにはどうかと始めたのが文章おこしという名の「ライター」であったり「執筆活動」であったりする。


そう、心を許していない知人から受けた影響が大きい。


だから、複雑な気持ちだけど、こうした経験がなければ今の私はいない。本来ならば「死んでほしい」とか、考えてしまうこともある知人に対して伝えたくはないが、「感謝」の気持ちはもっている。


こうした機会や出会いがなければ、今ここで出会った人たちとのつながりもなかったのだから。




と、考えると、今のコミュニティーツールは本当にすごいなと思う。


そのSNSやらネットってやつを使って、共通の趣味や趣向とマッチングした知人と出会い、そこから仲を深めることができるのだから。ある種限定した人付き合いができることこそ、本当の友人を見つける新しい手立てとなるのかもしれない。


だから、こうして私と出会ってくれた人というのは、ネット上の人で実際にあったことがなくても「大切な人」だって勝手に思ってしまう。(迷惑だったらごめんなさい)


こうして、また新しい影響を受けて、新しい自分が生まれることにわくわく感がとまらないのも事実。


そしてまだ繰り広げられる審議に、真っ向から立ち向かって肯定しつづけるためのポテンシャルも、こうした影響から生まれているのかもしれない。

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