「らしく」


らしくあれ。



という言葉をかけられたときに、迷いが生じるのは私だけなのかなと思うことがある。


らしくあれっていう言葉の響きはほら、こう「カッコよい」「勇ましい」言葉の表現がにじみ出ているような個人的見解があるのだが、この「らしくあれ」って自分が言葉のまんま言われると、「え?」と戸惑ってしまう。


その戸惑いは、自分が自分らしくないからというニュアンスも取れる一方で、言葉負けしている自分もいるんじゃないかって思う。




言葉の強みとか表現の強烈さとか、人から届けられてた自分への投げかけられた言葉というのは、時に受け入れることが難しいことも少なくはない。


特にこの「らしくあれ」って言葉。対自分に、一個人に投げかける言葉としては、現状かなり重く受け止めてしまう。


たぶん、本当に「らしくあれ」ってなってないからだと思うし似合わないと思うから。





そもそもこの言葉の意味合いは、どう見ても自分が言葉をくれた相手から見て自信に満ち溢れていないことから始まり、生まれた「言葉のプレゼント」だと思う。


もちろん、それは自分が“そういう状態”だったことを理解して受け止めなければならないこともよくわかる。


でも、その言葉を受け入れられない自分がいる。


それは、自分が自分を「理想の自分」であると認めていないから。

もちろん、自分の理想を100点満点に近づけることは難しいし、時としてこうした理想に対して努力を惜しまないように努めなければならないことも重々承知だ。




特に比較対象とするのは自分の理想とする人物を見たとき。


その人に近づきたいと始めは思い、そこから少しでも努力をしようと努力の仕方を模索する。が、結局結果につながらないことに嫌気がさしてしまう。


こうした無限ループって、本当に自分を見返してしまう人にとってはつらいことだと思う。そこから妬み、僻みが生まれて理想とはかけ離れた自分が出来上がってしまう。


と、こうして生まれるのが「自分が嫌いな人」ではないかと勝手に思っている。

自分が嫌だと分かっている時点で、自分がこの世で最も嫌いな人種になっていっているのだとも思う。


この無限ループに、悩んでいる人もたくさんいるとも思う。







話は少しそれるけど、私はある節目を迎えて(自分の誕生日っす)少しだけ自分の見方を変えることにした。


今までは本当に糞が付くほどのネガティブ思考で、すぐに人の所為にすることが多かった。それは自分が最も嫌いな人種だった。


今でも、こうした思考がないとは言い切れないけど、少しでも変わろうとしてあることを始めた。



それは、自分の時間を作ること。


自分だけの、時間をしっかりと作ること。



周りを見て動揺して、何でもかんでも人の所為にしてきた自分が今までできなかったのが自分を本当の意味で「労わること」だった。


よくよく考えてみると、人の目ばかりを気にして自分を作ろうとしていた。そのため、誰かのためにしてきたという勝手な想いを勝手に押し付けて見返りをこれまた勝手に求めていた。


それを、やめた……というか辞めるようにした。




そして、自分の時間をこうした執筆において落ち着かせている。


もちろん、こうした文章を作ることも人とのかかわりがないとできないことだから、自分が嫌だと思うことを相手にゆだねるかもしれない。


その瞬間も可能性も怖いけど、それでも自分の時間を作って少しでも自分を大切にして、「今の自分」を理想に少しでも近づけたい。


まあ、この方法が理想に近づいているのかはよくわからないけど、はっきりとわかっているのが、自分の理想の根底。



「人と、分かち合うこと」



これに、少しでも近づきたくて。

今、私は寝る間を惜しんでにやにやしながら書いています。




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