「共感する」
共感することに、私は味を占めたい。
人と「何か」を共感することが、私個人の大きな欲求の一つとなっている。
花がある。
道端に一輪の花があるとしよう。
その花に、道を通る人は何を思い何を感じるのだろうか。
そんなことを考えるのが結構好き。
「あ、花が咲いてるな。」
と思う人もいるし
「綺麗な花だな」
と思う人もいるし
「踏まれないかな」
と心配する人もいるし
「どうやって生えたんだ?」
と経緯を疑問に思う人もいるし
「邪魔だな」
と嫌悪する人もいる
どれも端的な感想だけど、これだけの感想を与える“物の存在”というのにとてつもない感動を受けることがある。
さらに端的な感想から、花に対しての感想は何本にも枝分かれしていくような気がする。
「もっと何本も咲いていればいいのに」
「一本という存在感は素晴らしい」
「水、誰か挙げているかな」
「この花どんな種類なのかな」
「引っこ抜いていいのかな」
小学校に書いていた植物の観察日記のよう。
こういうやり取りを、頭の中で描く人を見るのも好き。
そして湧き出る感想を共感するまでのステータスを持つ人と、出会いたいなとも思う。
こうした感想を口に出すことを「恥ずかしい」なんて思う人は多い。もちろん、私もこうして文面で話しているだけで実際に「○○について語ろう」と言い出すことはできない。
勇気がない。
しかし、同じことを考える人ならどうだろう。
今に充てると、こうしてつぶやき続けていることに感想を持ち込んでくれる人が、私にとっては共感しあう素敵な時間であると思っているわけで。
たとえ話の花に限らず、こうした文面や別の鑑賞できる何かを突き詰めあい、共感する一瞬の時間が、今の私には奇跡の一瞬に感じる。
だから、無理なく現実で感じたことをあえて口に出すことなく、我慢してため込んでこうして書き連ねてみる。
すると、気づいたら読んで書いてくれる人がいる。
こうした奇跡を、もっと大切にしたくて自分の伝えたい思いを、もっともっとベタに書かず伝えやすく書いてみたいという欲望に溢れてしまう。
結果、手が止まる。
どうすれば伝えやすいのかと、考え込んでしまう。
理不尽な私の頭の中。
と、迷ったときにいつも行くのは動物園だったり花広場だったりする。
文章から一瞬離れて、目で受けた慣性をもっともっとふくらましたいからと向かうのだが。
結果、鑑賞する目的が「題材集め」から「趣味」に代わりレフ眼のシャッターをシャーシャーシャーと押し続ける自分がいる。
理不尽なものたち。
私の欲望をかき乱さないでくれ。
と常々思いながらも、かわいいものや美しいものに気を取られてしまっている。
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