5.
どうせあとは死ぬだけの人生である。私はある日、思い切って彼女に問いただしてみた。「ここが君のいう、思い出の地なのか」と。
途端に、それまでにこにことバリヤを張っていた彼女の表情が、止まった。バリヤがバチバチと音を立て、その存在を不明確にしていた。動揺しているのだ。その場にいたのが誰であっても、彼女を見てそうおもっただろう。
「思い出というのは」
と、そこで長いこと時間が過ぎた。私はただいたたまれなくなって、川のながれる音を聴いていた。ごうごうと、どうどうと、絶えずして流れゆく、それでいて二度と同じように流れない水のことを想った。それは、なにも私の心を慰めはしなかった。或いは、彼女にとっても。
「思い出というのは……個人の心にしまっておくべき妄想です。人様に聞かせるようなものではありません」
と、彼女は言った。私はほっとした。彼女がすでに、その境地に達していることに。私の失言を、聞かなかったことにしてくれたことに。しかし、彼女は続けてこう言った。
「と、言うべきなんでしょうね。でも、私はそれほど強いひとじゃありません。そろそろ、誰かに話を聞いてほしいと思っていたんです」
申し訳なさそうな表情を、今でも忘れることが出来ない。もしこの老体に出来ることがあるとすれば、ただ過去を語ることではない。そう思って、私はゆっくり頷いた。彼女は、安心したように微笑んだ。
「大戦の時に出兵した人と、最後に約束をしたのがこの場所なんです」
朝露か、川の飛沫に濡れたのか。彼女の頬には、水が伝っている。さすがの私もその理由を問うことはしなかった。
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