4.

 そもそもバリ屋とは、かつての傘屋の名残である。かつて旧王国が繁栄を極めた時節、「傘は貧乏人の証」とされていた。王侯貴族にしてみれば、雨は馬車にて凌げばよい――それができないのは、ひとえに貧乏であるからだ、という風習が、かつてこの地には存在した。

 しかし、馬車を買うにはとてつもない大金を費やさなければいけなかった。そのため、中流貴族の多くは、馬車によらない方法で日光や雨を遮断するを必要とした。そこで生まれたのが『傘さし』という職業である。いくらプライドの高い貴族とはいえ、人に傘をさしてもらっているのであれば、優雅に景色を楽しんでいるという体裁が保たれる。

 その名残として、今や観光地には必ずといっていいほどバリ屋が存在する。彼らは得意の「魔法」を使うことで、紫外線および日光、雨を遮断するバリヤを張り巡らせる。もちろん、バリヤの効果を受けるには、術者のそばにいなければいけないから、お客は自然と、術者に身を寄せる形となる。

 もしバリ屋が、美しく若い女性だとしたらどうなるだろう? お客さんが、勘違いしがちな男性なら? ……バリ屋には、常にそういった懸念がつきまとう。そんなわけで、私はいつも彼女を心配に見守っていた。だが、当の彼女は確固たる信念を持って連絡橋を離れなかったから、私の心配していることは起こらなかった。

 だが、そうなればますます彼女の素場が気になるのだった。手堅く金を稼ぎたいのであれば、大いに気分を害そうと、バリ屋ギルドに所属してオルカ橋のクソオヤジ共を相手にする理由はある。だが、彼女はいつも、どんな時も、連絡橋で私を待っていた。そこになんらかの理由を見いださないのは、不可能というものだ。

 ある日、私は勇気を振り絞って聞いてみた。「お嬢さん」と。「あなたはどうして、いつもこの場所で私にバリヤを張ってくれるのか」と。彼女は淀みなく、まるで用意していたかのように言った。


「この場所が私にとって思い出の地であるからです。おじいちゃんにも、そういった場所はあるでしょう?」


 それは……あるに決まっている。私は妻と、新婚旅行に行った場所を思い出した。波の寄せる音。砂を踏む音。笑っているのは……若かりしときの妻の声かもしれない。そうでないかもしれない。なんにせよ、今は既に失われた時を思うだけで、泪が零れそうになった。三㎞の散歩を終えるには、充分すぎる思い出だった。

 その時は、彼女にとっての「思いでの地」について聞きそびれてしまった。だが同時に、「聞かなくてもよかったのかもしれない」と思うようになった。

 私にしても、妻のことはあまり問われたい話題ではない。その点、彼女はバリ屋として、常に心地のよい距離を保ちつづけてくれていた。

 一介の客でしかない私が、その距離感を壊してよいのか。考えれば考えるほど、答えは明確である。

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