少女のからだは、魔法で出来ている

じょう

第1夜 少女のからだは、欠けている

 夜は深く、街の光は遠く。どこまでも広がる闇と、煩いくらいの静寂が辺りを包む。そんな暗闇の中を一人の女が足早に歩いていた。

 彼女の顔には、隠しきれない不安感が溢れている。なぜなら彼女はずっとこの闇から抜け出せていないからだ。

 彼女は不運だった。仕事を終え帰路に着くはずだったのに、彼女の乗る車が突如動かなくなったのだ。


 さっきまで充電は十分だったはずのスマホは、なぜか電源は入らない。

 彼女は思案した。職場から街まで、人家はほぼない。誰かが通りかかることは期待できない。ここからなら、歩いて街に出た方が早いかもしれない。

 そう思い暗闇に踏み出したことを、彼女は公開していた。

 とっくに家に付いているはずなのに、とっくに街の明かりが見えるはずなのに。

 時間間隔を失った彼女は、もう自分がどこに居るのかも分からない。

 そして、時折感じる『視線』がたまらなく恐ろしかった。


「あっ」

 彼女の視線の先に、ほんのりと白い光が見えた。

 やっと、やっと街に着いたんだ。彼女はふわふわと漂う白い光へ駆け出した。

 ふわふわ、ゆらゆら。

 白い光は形を雲のように揺らめかせながら、彼女を誘った。

「ああ、やっと……!」

 そして彼女は、白い光を『視た』。


 白い光は、ずっと彼女を『視ていた』。

「えっ」

 ふわふわ、ゆらゆら。

 彼女に覆いかぶさったそれは、ゆっくりと包み込んだ。

「あっ、がぶ、ごぼ」

 それはぬるぬると、ぎとぎととしていた。彼女はごぼごぼと喉に入り込んでくるそれを払いのけようともがき、叶わない。


 ふわふわ、ゆらゆら、ざわざわ。

 綿雲のように自由に姿を変えながら、それは少しずつ彼女を飲み込んでいく。

「ごぼ、ごぼぼ」

 苦しい。ぬるぬるとした生臭い大量のぶどうの塊が入り込んでくる。彼女は最初そう思った。それは全く違った。

「がぼ、ぼ」

 抵抗する力が徐々に抜けていく。そのころになってようやく彼女は気が付いた。


 眼球だ。


 白い綿雲の正体は、大量にぶら下がった眼球なのだ。その一つ一つが彼女を凝視し、そして今も喉の奥へと入り込んでいるのだ。

「お、ぼ」

 それが理解できたとき、ぶら下がる眼球の簾の向こう側から不意にちいさな手が伸びてきた。

 血まみれの手は迷わず彼女の両目へと伸びると、当然のようにその小さな指を差し込み、抉り取った。


「…………」

 既に音を発することもできない体を、彼女の抉り取られた眼球は見ていた。

 ぽっかりとあいた眼窩から、次々と白いわたぐもの眼球が這い出てくる地獄のような光景を、瞼を失った彼女の眼球は直視し続けるよりほかなかった。

 彼女の腹が入り込む眼球の圧力で裂け、ぼとぼとと中身をこぼしたとき、ようやく彼女の意識は途絶えた。


 つかんだ眼球をいとおしくひと撫でした小さな手は、体に二つ新たな自分をぶら下げ、そして闇の中へと消えていった。

 ふわふわ、ゆらゆらと。




『ああ!なんて素晴らしいのかしら!なんて美しいのかしら!』


『世界は彩に満ち満ちているの!世界は光に満ち満ちているの!』


『真っ暗は嫌い、黒は嫌い!白がいいの、色が欲しいの!』


『だからわたしは着飾るの!ふわふわの、ゆらゆらの、素敵なドレスを!』


『もっとわたしに色を見せて!もっとわたしに世界を見せて!』


『独り占めなんてさせないんだから!ああ、わたしはふわふわと踊る綿菓子!』


『わたしは夜をゆらゆら踊る――“Cotton Candy”!』



 ――――――――――――――――――――




 まっしろな天井が、あたしを見下ろしている。

 虹村にじむら 菜奈夏ななかはいつまでも代り映えのしない病室の天井をぼんやりと眺めた。

 彼女が横たわっているのは、清潔感のある白いベッド。脇のテーブルには、水気を失った花がさみしげに咲いている。


 いつもと同じ、代わり映えのしない入院着に、下ろした髪。ずっと空っぽの向かいのベッド。

 彼女はもう今日何度目かの深いため息をつくと、飽きるほど眺めた窓の外を見た。

 病院の中庭を照らす日差しは、この部屋には入ってこない。誰もいない、閑散とした景色。

 この世に自分ひとりきり、誰からも見放されている。そんな気分にさせてくる光景だった。


「虹村さーん、お熱、計りますよ~」

 看護師が病室に入ってきて何度も繰り返したルーチンワークを今日も行う。

 菜奈夏は返事もせず、淡々と看護師の指示に従い腕を差し出した。

「はい、結構です。それじゃ、今日もすこし体を動かしましょうね」

 看護師が促し、車椅子を差し出す。

 菜奈夏は億劫そうに上体を起こすと、看護師の成すがままに車椅子に乗せられた。

 腕に巻かれた識別タグが小さく揺れる。菜奈夏は車椅子のタイヤをそっと撫でた。


 彼女の両脚は、そこには無かった。




 ―――――――――――――――――――




 三か月前の夜、菜奈夏はすべてを失った。

 唯一無二の親友、バレエダンサーの道、そして彼女の両脚。

 車数台を巻き込む大きな事故に巻き込まれた菜奈夏は、二時間以上ひしゃげた車の中に閉じ込められ、その間に彼女の足は切断しなければならなくなっていたのだ。

 菜奈夏は目覚めてまず、両脚の無いことに気づき、狂乱した。

 深く悲しみ、見舞いに来たクラスメイトをすべて追い返した。


 そして、ひとしきりふさぎ込んだ後でようやく、自分と一緒に事故に巻き込まれたはずの朝倉ミドリの事に思い至った。

 恐る恐る看護師にミドリの事を尋ねた菜奈夏だったが、その返答は彼女の死であった。

 菜奈夏は強烈な自己嫌悪に陥った。自分の事ばかりで親友の容体に思い至らなかったこと、自分が追い込まれた状況が、最悪ですらなかったこと。


 彼女が追い返したクラスメイトは、二度と病院には現れなかった。

 会話は看護師との最小限だけ。人と顔を合わせる事は無かった。

 とにかく、他人が嫌で仕方がなかった。自分の心の一部が、すっかり削られてしまっていた。

 両脚を失ったという事実が、余計に彼女に欠落感を植え付けた。


 菜奈夏はまともに食事をとるようになったのは、ほんの数週間前の事だった。それまでは、生きていること自体がミドリに申し訳ないような気がしてしまったのだ。

 それでも、菜奈夏は生きている。生きて行かなくてはならない。

 頭のなかで理屈がぐるぐるとまわり、そして流れていく。


 生きていたくない、生きたい。

 死んでしまいたい、死にたくない。

 失くしたものを取り戻したい、失くしたものを思い出したくない。

 思考はまとまらず、意識は定まらず。

 どうしようもない欠落感が、彼女の心を鈍らせていく。

 そして無気力なまま、三か月の時が病院のベッドの上で過ぎて行った。


「今日は暖かいですね、虹村さん」

 看護師の声も、どこか遠い世界の言葉のように菜奈夏の耳には入ってこない。

 日差しのあたる中庭も、色あせた写真のように空虚だった。

「あら……」

 看護師が車椅子を押す手を止め、息を飲んだ。視線の先を、菜奈夏も追う。

 そこにいたのは老人に車椅子を押される、菜奈夏と同世代らしき少女だった。


 綺麗な艶髪。黒地に赤のリボンが映える学生服。桜色の瞳。

 色あせた世界で、彼女だけが色彩を放っていた。

 菜奈夏は彼女に釘付けになった。


 彼女には、四肢が無かった。


「っ……」

 菜奈夏は思わず息を飲んだ。何故?四肢の無い少女を、自分よりも可哀そうな少女を見てしまったから?

 否、四肢のない少女は、菜奈夏よりもずっと満ち足りた様子だったからだ。

 老人に車椅子を押させる少女は、色あせた写真の世界に居ながらその景色を楽しんでさえいるように見えた。


「……どうして」

 菜奈夏は言葉を漏らしていた。その言葉が聞こえたのか、四肢のない少女は菜奈夏に気づき視線を向けた。

「ごきげんよう」

 四肢のない少女は艶のある声で菜奈夏に言葉を向けた。

 色あせた世界で、彼女だけが強烈なまでに鮮やかだった。


「——っ!か、帰ります。あたし病室に帰ります!」

「あ、えっ?虹村さん?」

 看護師を急かし、菜奈夏は四肢のない少女から必死に目を反らした。

 四肢のない少女はそんな菜奈夏を微笑みを讃えながら見つめていた。

 菜奈夏は自分で車椅子の車輪を持ち、一目散に中庭を後にした。

 いつまでも、あの少女の視線が追ってきている気がして怖かった。


 そう、怖かった。

 どうして?


 看護師を振り切りエレベーターに駆け込んだ。叩きつけるように五階のボタンを押すと、跳ねた呼吸を整えた。

 肩で息をしながら菜奈夏は必死にかぶりを振った。

 そうでもしていなければ、さっきの少女の顔が頭から離れないのだ。

 菜奈夏は絞り出すように呟いた。

「あたしより持ってないのに……なんであたしより満たされてるのよ」


 エレベーターの扉が開く。ナースステーションの看護師たちはそれに気づかずめいめい私語に興じている。

「二宮さん、遅刻なの?たるんでるわね」

「それが、携帯にも出ないらしいの」

「またあのお嬢様がきたのね」

「いつもいつも物々しいのよね」

「ねえ、506号室の虹村さん、相変わらずなの?」

「ええ。誰もお見舞いに来ないのよ。あんな風になったら仕方ないかもしれないけど」

「それにしたってねえ、一人も……」

 噂話をする看護師たちは車椅子を駆る奈夏の姿を認めると、ばつが悪そうに口をつぐんだ。


 部屋に飛び込んだ菜奈夏は脇目も振らずにベッドに戻ると、外界を拒絶するように車椅子から這うようにベッドに降りた菜奈夏は、そのまま枕に突っ伏した。

 自分でも、どうしてここまで強い感情が生まれたのかわからなかった。

 ひたすらにさっきの少女が脳裏にこびりついて離れない。

 ひたすらにさっきの少女が妬ましくて仕方がない。


 がたがたとカートが転がる音が近づいてくる。何人かの足音。

 それらは菜奈夏の病室に入ってくると、向かいの無人だったベッドの前で止まった。

 菜奈夏は枕に突っ伏したまま、顔を上げない。

「それでは水無月さん、入院の説明を……」

「ああ、ごめんなさい。私、少し疲れたの。お話は柘植にしておいてくださらない?」

 声だけが聞こえてくる。透き通るような艶やかな声が。


「申し訳ございませんが、お嬢様の要望をお聞きくださいませ」

 老紳士の声と共に足音が幾つか通り過ぎていく。

 にわかに騒がしくなった病室は、再び静寂を取り戻した。

 否、その静けさは、少女の声を際立たせる装飾に過ぎなかった。


「ねえ、お話しましょう?」


 それは菜奈夏を誘う、悪魔の声のように思えた。

 菜奈夏は誘惑に抗えず、枕から顔を上げた。

 色あせたいつもの病室に、色彩が戻った。

 空っぽだったベッドの上には、四肢のない少女がいた。

 両脚の無い菜奈夏よりも、人間らしい表情をしていた。


「私、水無月みなづきりんというの。お友達になりましょう?」

 四肢のない少女は――凜は起こしたベッドに深くもたれかかっていた。

 菜奈夏は、ベッドの上で手をつきになった。逃げ出したい。逃げ出すことはできない。そのための脚は無いのだから。

「どうして?あたしはべつに」

 菜奈夏は震えそうになる声を抑えながら凜に問うた。


「どうしてって、せっかく同じお部屋になったんですもの。仲良くしたいでしょう?ねえ、貴女のお名前は?」

「虹村……菜奈夏……」

「菜奈夏……素敵なお名前ね?」

「どうして……」

 どうして?菜奈夏は出かかった言葉を飲み込んだ。

(今あたしは、何を聞こうとしたの?)


「どうして?……ええ、なのよ」

 凜は、何でもないことのように笑顔のままそう言った。

「私は生まれつき、手足が無いの。貴女はどうやら違うみたいね?」

 菜奈夏は体を動かし、下半身を隠そうとした。

「気にすることじゃないわ。私にとっては自然なことなの。だから貴女が感じている事も、間違いではないのよ?」


「あ、あたしは」

 凜はただ穏やかに菜奈夏を見つめている。

「自分に素直になって、いいと思うの。きっとそうすれば、貴女は居られるわ」

「それじゃ」

 それじゃまるで。


 このままのあたしは人間じゃないってことじゃない。


 菜奈夏は反射的にカーテンを掴むと一気に引いた。

 視界から消えるまで、凜は変わらず微笑み続けていた。

 菜奈夏は再び逃げるように枕に突っ伏すと、それきり一言も喋らなかった。

 凜もまた、それきり菜奈夏に話しかけてくることはなかった。



 ――――――――――――――――――――




 聖サントレア療院、町から離れた山あいに建つ、5階建ての療養を主目的とする病院である。

 美しく整備された中庭や、白を基調としたエントランスは少しでも療養する人の心を癒して欲しいと、初代院長が整備させたものであるという。


 たしかに病院は清潔で過ごしやすい。町の喧騒も届くことはない。

 穏やかに、静かに時は流れていく。

 しかし、裏を返せばここは陸の孤島。

 麓の町までは車で30分、歩いていくには困難な勾配が続く。

 ここへ入院したならば、それは俗世との隔離を意味する。


 重い病の患者ばかりではない。むしろ症状の軽い、老人が目立つ。

 つまるところ、ここは姥捨山なのだ。

 一度置いて行かれれば、自分から帰る事も叶わない。

 決して不便ではない。暖かい、優しい暮らし。

 しかし、社会から切り離されたそれは、人間らしい暮らしと呼んで良いのだろうか。


 処置室の前の廊下に後ろ手に手を組み直立する老紳士は、通り過ぎていく入院患者達に軽く会釈をしつつ、姿勢を崩す事なくじっと主人の帰りを待っていた。

 ガチャリと扉が開き、看護師が扉を押さえる。

 電動車椅子を器用に操作しつつ、凛は彼女の付き人に笑顔で声をかけた。


「柘植、いつも言ってるでしょう?座ってお待ちなさいな」

「それはできませんよ。お体はもうよろしいですか?」

「どうということはありません。いつもの点滴ですから」

 会話を交わしながら、柘植と呼ばれた老紳士は彼女の車椅子の後ろへ回り、推し始めた。


「では本日は予定通り一日入院し、翌朝退院となります。本日はゆっくりお休みください」

「柘植、それは無理」

 凛の口調が、少し険を帯びた。

「お嬢様、今日くらいは」

「無理。だって、そばにいるもの」

 柘植は眉をひそめた。

「今晩、きっとここに来るわ。お出迎えしてあげなきゃ」


「かしこまりました……無理はなさらぬよう」

「ええ、いつものとおり、後始末だけ頼むわ」

「はい」

 柘植はそれ以上主人を諫めることは無く、それきり口を閉じた。

 凜は車椅子に伝わる小刻みな振動を楽しみながら、口元を緩めた。

「それに……今日はきっと特別な日になると思うわ」




 ―――――――――――――――――――




 病棟の夜は、意外と騒がしい。

 夜を見回る看護師の足音。入院患者の咳音。吸入器の立てる風音。

 あるいは病床という環境が感覚を過敏にし、それらの小さな音すら拾い上げてしまうのかもしれない。

 菜奈夏は三か月の入院生活でその事実を知った。


 だがその夜はあまりにも静かすぎた。

 正確には、完全なる無音ではない。いつも聞こえてくる雑音が、耳に入らない、とでもいうべきだろうか。

 消灯後、ぼんやりと天井を見つめる菜奈夏の耳は、向かいのベッドに眠る凜の息遣いが、すぐそばで聞こえるように感じていた。

 菜奈夏は何度目かのため息をつくと、今度こそ眠ろうと目を閉じた。


 規則正しく音を立てていた凜の呼吸音が、不意に途切れた。

 ぎい、とベッドのきしむ音がする。四肢が無くとも寝返りは打てるのだろうか。ぼんやりととりとめもない事を考えてしまう。

 その時、向かい側の病床に光が灯った。瞼を閉じていてもぼんやりと、薄紅い光が感じられる。

 菜奈夏は光から逃れるように顔を背け、そして気が付いた。誰が明かりをつけたのだ?


 誰かが入ってくる気配は感じなかった。看護師がつけた明かりではない。では誰が?凜が?四肢の無い体でどうやって?

 菜奈夏が困惑していると向かいのカーテンが開く音がし、そして何かが部屋を横切っていく気配があった。

 その気配は足音もなく通り過ぎ、病室から出て行った。同時にぼんやりと感じられていた薄紅い光もまた無くなった。

 菜奈夏は恐る恐る起き上がり、ベッドを囲うカーテンを開いた。


 向かいのベッドはもぬけの殻だった。

 傍らの電動車椅子は主なく放置され、どこにも凜の姿は無かった。

「は……?なんで……?」

 菜奈夏は放心していた。どこへも行けないはずの凜は、あたしとおんなじでどこへも行けるはずのない凜は。不意にどこかへと消えてしまった。

 カチッ。サイドテーブルの時計の針が音を立てる。深夜二時。辺りはさっきよりも静まり返っている。……否。


 ポーン。エレベーターの到着音。遠くから聞こえてきたのは深夜に動く機械音。

 菜奈夏は自分でも説明のつかない衝動に駆られた。確かめなければ。

 凜はどこへ行ったのか。どうやって凜は。

 菜奈夏は非常灯の薄明かりで車椅子を探り当てると、重い体を動かし何とか乗り込んだ。

 ガタガタと、無様に何度も体をあちこちにぶつけながら車椅子に乗り込んだ菜奈夏はゆっくりとタイヤを漕ぎ始めた。

 キィキィ。病棟の廊下に車椅子のきしむ音が響く。ぽつぽつと灯る非常灯に照らされるのは、誰もいない静まり返った空間だけだ。


 菜奈夏はナースステーションの前を通り過ぎる。ちらりと横目で見るが、なぜか無人であった。

 そのまま車椅子を進める菜奈夏はエレベーターホールにたどり着いた。

 ここも無人。静寂だけが支配している。

 菜奈夏はエレベーターの階数表示を見上げた。

「屋上……」

 エレベーターの案内表示は【R】を示し、動かない。

 さっきのエレベーターを動かしたものは、今屋上にいる。


 菜奈夏は意を決して身障者用の呼び出しボタンを押す。

 ポーン。エレベーターの扉が開く。菜奈夏の背中に、汗が伝った。

 とても嫌な予感がする。言いようのない不安感が襲ってきていた。

 この扉をくぐればもう二度と帰ってこられないような。この扉をくぐればもう二度と元に戻れないような。

「だからなんだってのよ」


 菜奈夏は車椅子を動かし、エレベーターに乗り込むと、屋上階のボタンを押す。

 もう戻れないから何だというのだ。すでに菜奈夏の体からは、いろんなものが欠けているのだ。いまさらそれが。

 エレベーターの扉が閉じる。ほんの一階上がるだけの時間が、永遠にも感じられた。

 ポーン。再び扉が開く。屋上への出入り口は、大きく開け放たれていた。

 菜奈夏は車椅子を動かし、外へと出た。


 聖サントレア療院の屋上は、中庭には及ばないもののそれなりの規模の庭園となっている。昼間であれば日光浴をする患者たちがちらほらと見かけられただろう。

 だが丑三つ時の今、屋上庭園はがらんとしている。月明かりもなく、非常灯の心もとない光に照らされた庭園は、まさに異界であった。

 キィキィ。菜奈夏の動かす車椅子の音だけが聞こえる。星も見えず、風も吹かない。飲み込まれそうな深い闇が口を開けていた。


「ねえ、水無月……さん?いるんでしょう?」

 菜奈夏は暗闇に向かって呼びかける。声は闇に吸い込まれ、反響音すらなく消えていく。

 暗闇の中でまんじりともせず動けない菜奈夏は、不意に視線を感じ空を見上げた。

 ふわふわ。ゆらゆら。

 星のない空に、白いわたぐもが浮かんでいた。風もないのに、まるで遊ぶように空を踊っていた。


 菜奈夏はそれから視線を動かすことができない。まるで金縛りにあってしまったかのようだった。

 視線は、白いわたぐもから感じられた。

 背中に汗が伝う。全身に鳥肌が立ち、心臓の鼓動が早くなる。ここから立ち去らなくては。一刻も、早く。

 しかし、菜奈夏の体は縫い付けられたようにその場にて硬直していた。


 やがて空を舞うわたぐもは徐々にその高度を落とし始め……不意に糸が切れた人形のように庭園へと落下した。

 べしゃり。生理的な嫌悪感を駆り立てるような水音が鳴り、庭園の地面にわたぐもがぶちまけられる。

 地面に山のように横たわるわたぐもから、いくつかの球体がころころと転がり出た。

 その一つが菜奈夏の車椅子の車輪にぶつかり、停止する。菜奈夏は目を凝らし、その正体を確かめようとした。


 錆のような赤い何かにまみれた白い球体は、不意にぐるりと回転すると、菜奈夏を

 それは赤く血走った眼球であった。

「ひっ……!」

 菜奈夏は声にならない悲鳴を上げ、車椅子の上で身をよじった。

 ぐるり。菜奈夏の声に反応し、わたぐもがもぞもぞと蠢く。

 それは、眼球の山だった。気の遠くなるような数の眼球が積み重なった、白い塊だった。その塊が、一斉に菜奈夏を見つめたのだった。


「嫌ぁああああ!」

 菜奈夏は金切り声を上げ、車椅子を回転させようとする。しかし。

「なんで!動かない!?」

 車椅子のタイヤはびくともしなかった。菜奈夏は見てしまった。白い塊からこぼれ出た眼球が菜奈夏の周りに集まっているところを。眼球たちから垂れさがる視神経が、タイヤをがんじがらめに縛り付けているのを!

「嫌ぁあああああああああ!」


 ぐずり。白い塊が持ち上がる。視神経から眼球が垂れ下がり、簾のように揺れる。

 妖しく揺らめく眼球の向こうに、幼い少女らしき腕や足が垣間見えた。

『アハハハハハハハハハハハ!!』

 眼球の塊は哄笑する。くぐもったようなおぞましい声と、残虐な金切り声が重なって聞こえる、地獄のような笑い声だった。

「い……っ!!」

 菜奈夏は必死に車椅子を動かそうとし、バランスを崩して転倒した。

 庭園の地面に投げ出された菜奈夏は必死に起き上がろうとし、失敗した。彼女の両脚はすでに無かったからだ。


『アハハッハハハッ!!』

 眼球のバケモノはゆっくりと菜奈夏ににじり寄り始めた。その眼球の一つ

 ひとつ全てが獲物を決して逃がすまいと菜奈夏を凝視していた。

「い、嫌だ、来ないで!」

 菜奈夏は動けないまま、眼球のバケモノが自分に覆いかぶさるろうとするのに必死に抵抗した。

 ぐにゃり。ぐちゃり。

 菜奈夏の手が眼球に触れる度、気持ちの悪い感触と水気があった。


 抵抗する菜奈夏の腕を、眼球の間から出てきた小さな手が掴んだ。

「ひぃっ!」

『アハハ、ウゴカナイデ?』

 両手を掴まれた菜奈夏は、恐怖に目を閉じる。

 血なまぐさい空気が鼻をくすぐる。

 眼球に飲み込まれて死ぬ。菜奈夏はそう思った。


「そう、動かないでね?」

 その声は、透き通るような美しさを持っていた。

 菜奈夏が目を開けると、薄紅い燐光を発する半透明の不可思議な手がバケモノの体を突き抜け菜奈夏の頬を撫でていた。

 薄紅い手は、菜奈夏から離れると、彼女の腕を握るバケモノの腕を掴み……


 握りつぶした。


『アアアアア!』

 バケモノは苦悶の声を上げ菜奈夏の手を離した。

「ハッ!」

 気勢の良い掛け声とともに水平に伸びる紅い光がバケモノを薙ぎ、吹き飛ばした。

 それは、薄紅く透明に光るすらりと伸びた脚であった。

「な……何?」

 菜奈夏は混乱し、その人物を見つめた。彼女は、昼間見た時とはまるで別人であった。


「下がっていた方がいいわ。這ってでもね。命が惜しいとまだ感じられるのなら」

 昼間見た時と同じ、すべてを見透かすような表情。昼間に聞いた時と同じ、艶のある美しい声。

 しかし彼女は決定的にそれまでと違っていた。


 屋上庭園に現れた水無月凜には、


 薄紅い燐光を放つ、超常の半透明の手足を輝かせていた。


「み、なづき……さん?」

「そうよ、菜奈夏さん。見違えたかしら?」

 凜はいたずらっぽく笑うと、つかつかとバケモノの元へ歩みを進めた。

 バケモノはゆらりと起き上がると、凜目掛けて飛びかかった。

 凜は舞うようにバケモノの側面に回り込み、回避する。光る彼女の脚が地面を捕らえ、ダンスを踊るようにステップを刻んでいく。奇妙なことに、彼女の足音は無かった。


 凜はバケモノの背後に回り込み、光る腕を眼球の簾に突き立てる。

 まるで幽霊のように一切の抵抗なくバケモノの体に入った凜の腕は、輝きを強くすると突如物質化しバケモノの体を引き裂いた。

『アアアアアアアアアアアア!!』

 血と体液をまき散らし、バケモノは真っ二つになった。

 凜は夜空に右手をかざす。彼女の腕は少しずつ形を変え始め、やがてそこには身の丈ほどの巨大な光る大鎌が現れた。


「さようなら。今度こそいい夢を」

 ぶん。一気に振り下ろされた大鎌は屋上庭園の地面へと入り込み、バケモノだけを斬殺した。

『アハハハハハハ!』

 バケモノの上半身は斬断される刹那ひと際大きく笑い、そのまま動かなくなった。

 それを見下ろしす凜の腕は、鎌から人間の腕へと戻り始めていた。


 菜奈夏は、その光景を瞬きもせず見つめていた。

 美しかった。凜の四肢の放つ光の軌跡は、どんな絵画よりも綺麗だった。

 美しかった。返り血を浴びた髪を手櫛で梳く凜は、天使のようであり悪魔のようだった。

 美しかった。昼間とはまるで違う、軽やかに舞う凜は何者よりも強かった。

 美しかった。だから……妬ましかった。


「どうして、あたしとおんなじはずなのに、あたしより何もないはずなのに」

 菜奈夏は唇を噛んだ。血が出そうなほど拳を握りこんだ。事故から目覚めたあの日よりも強く、両脚が無いことを呪った。

「どうして、どうして?どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」


 菜奈夏のつぶやきに呼応するように、両断されたはずのバケモノの下半身が、ぶるぶると震えだした。

 がぼがぼと血を吐きながら、バケモノの眼球はそれでも菜奈夏を見つめていた。

 凜はその光景を見て尚、動こうとはしない。その眼は何かを期待するように菜奈夏を見つめている。

「あたしも欲しい……あたしに頂戴……あたしに、あたしに!」


『ア・アア・ア・・アアア!』

 眼球のバケモノが菜奈夏に襲い掛かった。

 菜奈夏は――

「あたしに全部、頂戴!」

 その時、菜奈夏は空中に飛び上がっていた。

 キラキラと光る、ガラスの輝きが空に軌跡を描く。

 獲物を見失ったバケモノの眼球が、ぐるりと空中の菜奈夏に向きなおる。


 その眼が捕らえた菜奈夏には、


 キラキラと輝く、ガラスの義足だった。


「邪魔……するなぁっ!」

 菜奈夏は空中でバケモノを見据えると、くるくると舞うように降下し、ガラスのピンヒールでバケモノの胴体を貫いた。

『ア・ア・アアア・・ア・アア・アアア!』

 断末魔の悲鳴が響き渡り、闇に吸い込まれていった。

 菜奈夏が義足を引き抜くと、ぐずぐずとバケモノの眼球は溶け出していった。

 やがて中からやせ細った少女の下半身が姿を現したが、それもぐずぐずに崩れ去り、後には気味の悪い黒い液体だけが残された。


「はぁ……はぁ……」

 急な運動をしたために上がってしまった息を、菜奈夏は必死に整えようとした。

 その肩を、凜の光る腕がそっと抱いた。

「えっ?あっ?」

 戸惑う菜奈夏の耳元で、凜はそっと囁いた。


「おめでとう、貴女は手にしたのよ。私たちが人間でいられるたった一つの奇跡――」

 凜は菜奈夏の正面に回ると光る手を差し出し、微笑んだ。

「魔法を、ね」

 菜奈夏は凜の超常の四肢を、突如現れた自分の義足を見た。


 菜奈夏は、まだ何も理解していなかった。

 自分を襲ったあのバケモノは何だったのか。

 自分の身に起きた出来事は現実なのか。

 自分の目の前の少女、凜は一体何を言っているのか。


 夜はまだ深く、闇はどこまでも広がっていた。

 ようやく現れた月明かりは、二人の少女と輝く手足を照らし出した。


 少女たちのからだは、魔法で出来ていた。




 続く

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