第8話 肺癌
「お前は今、肺癌を患っている」
翌朝、仕事を始める前の一服をしていた小峰に、突然現れた警官が告げた。警官の言葉に困惑した小峰は、元から血色の悪い唇をわなわなと震わせた。
「肺癌? 本当なのか?」
「ああ。前回の検診で発覚した」
淡々と警官は言う。その姿は、まさにロボットのようだった。国の命令に従い、異論を発することなく使命を果たす。明らかにおかしい今の事態にも、顔色一つ変えずに応対している。
「明日から詳しい検査と治療を始める。この書類に合意のサインを書け」
そして警官は懐から一枚の用紙を取り出す。
やたらと漢字が使われ、小難しく長々と書かれていたが、要約すれば「癌治療のリスクを理解した上で、治療に臨むのか」という旨が記されていた。
小峰は紙と共に渡されたペンを受け取ると、すぐにサインをした。
彼が例え自分の意思でサインを拒否しても、強制的に書かされると分かっていたからだ。檻の外から、鋭く冷たい目で自分を見下ろす姿を見れば、抵抗する意思も失われる。
この頃、小峰には何に対しても、反抗したり、深く考察することがなくなった。現在、彼が置かれている状況も起因するのだろうが、一番の原因は彼の年齢に連なって低下した体力と精神力だった。徐々に加齢と共に弱まっていく心と体は、小峰に反抗する意思を失わせた。
「自分が死んだら、どうなるのだろう」
小峰は考えた。
死後の世界とか、そういう類のものではない。彼の親は仏教徒であったが、彼自身は無神論者だった。だから彼は、人は死ねば死に、それ以上はないと考えていた。死後の世界に関して、不安など一ミリもなかった。
彼が疑問に感じていたのは、死後の自分の体についてだった。火葬され、すでに鬼籍に入った父親や先祖たちと同じ墓に入るのか。それとも───
小峰は思考を止める。
これ以上考えてはいけないと、彼の本能が叫んでいた。それに、体外受精やら生体展示を強制してきた国が、まともな方法で遺体を扱ってくれるとは、到底思えない。
きっと手術前に、死後の自身の体を国に任せるとか、そういう風な書類にサインをされるのだろう───小峰は布団にうずくまり、ため息をついた。
表面上は与えられた人権。自分で己の道を選択したように見えて、実際はそうではない。
身勝手な国や世界に対して、小峰はいまいち怒りと不満を募らせることができずにいた。彼にとって、今の生活が人権を持っていない以外に、不満がないことが原因だろう。
衣食住と煙草を無償で与えられ、人権と思考力を奪われた喫煙者は、のうのうと眠り落ちる。明日にはなんとかなると、能天気に考えながら。
翌日、彼が予想していた通り、自分の遺体を管理する許可を国が得るための書類を小峰はサインすることになった。
彼はもちろん、同意のサインを書く。それが、例え自分の意思ではなかったとしても。
白い雪の結晶が、アスファルトに落ちて溶ける、平和な冬の日のことであった。
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