第7話 わかば

 美村が妊娠したという知らせが小峰の耳に届いたのは、彼女がちょうど安定期に入った頃のことだった。

 その頃には、すでに美村の妊娠は報道され、


『世界初の動物園生まれの喫煙者サラブレッド誕生なるか!?』


 というフレーズで、世界中の至る所を騒がせた。

 だが、精子の提供者であり、父親となる小峰は然程驚いた様子も、嫌がる素振りも見せなかった。すでに自分の運命を上野動物園の職員、喫煙者研究所、そして国に、世界に預けてしまっているからだろう。

 自分と元上司との間に子供が生まれようとなっていても、彼はどうでもいいのだろう。


「子供の名前はどうなるんだ?」


 小峰は飼育員に問いかける。


「募集して決めるらしいですよ。でも流石に、まだ募集は始めてません」


 何だかパンダみたいだな。小峰は思った。だが、口にはしない。言ってしまえば、が色々と起きる気がしたからだった。だが彼のそのはどれも、確証のないものだった。ほとんどがドラマや映画、小説からの影響で想像しているものだ。


「小峰さん。小峰さんも募集してみます?」


 小峰が子供と交流を持てるのかは不明だが、生まれてこようとする子は、確かに遺伝子上は小峰の子だ。そして自分の子であろうと、名付けることができないことに、やはり小峰はどこか違和感を覚えたのだった。

 だが、それは国が決めたことであり、動物園に生体展示された喫煙者の小峰一人に、どうにかできるような物ではなかった。国家の決定事項を社会的弱者が変更することは不可能だ。


 小峰は口をつぐみ、しばらく考え込んだ。

 飼育員の青年が小峰の衣服を畳み終えた頃、小峰はぽつりと呟いた。


「わかば」

「え? いま何か言いましたか?」

「わかば。子供の名前だよ」

「へえ、なんかカッコいい名前ですね」


 青年は名前の案を聞いたのに、大して興味がなかったのだろう。社交辞令のようなものだったのかもしれない。彼は感心した様子も見せず、畳まれた衣類を抱えた。小峰なりの社会への反抗にも、気付かなかった。

 だがそれでも、小峰は満足したようで、檻の中に置かれたちゃぶ台の上にあるビール一瓶を手に持ち、ジョッキに注いだ。そして生温いビールを呷る。


「名前の由来は何ですか?」

「酒に付き合ってくれるなら、教えてあげちゃう♪」

「あ、結構です」


 青年は素早く小峰の誘いを断ると、衣服を柵の間から檻の中へ入れ、施設を出て行った。

 そっけない態度をとった飼育員に、小峰は少しばかり傷ついたが、傷心を癒すため、成人した生徒たちと共に楽しんでいると思い込みながら、またビールを呷ったのだった。彼はその妄想が、他人から見れば悲しく寂しいものだという自覚が少しもなかった。


 空想に浸り、現実逃避をしていた小峰だが、ふと我に返る。


 最近、飼育員がやけに冷たくなっていることを思い出したのだ。初めは礼儀正しく、生体展示物であった自分にも親身になって接していた青年が、この所、冷めた目を向け、距離を置くようになった。


 自分の身に、何かが起こる。小峰は直感した。今まで警察の目を逃れるように喫煙を続けていた小峰の鍛えられた第六感が、そう叫んでいた。

 パタリと急に、あの威圧的な女性警察官が訪れなくなったのも、小峰が疑う理由の一つだった。

 ただ単に、彼らが小峰を軽蔑し、呆れている可能性も考えられる。だが小峰は、呆れとは違う別の事情が絡んでいると感じていた。それが明らかに『良くない』予感だった。

 自分が苦しむことなく、幸せに、安らかに死ねることを願いながら、小峰は新しいビールのプルタブに指をかけた。

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