第3話 喫煙者、煙草を吸う
いよいよ、上野動物園で小峰が公開される日が訪れた。
外を出る前から、壁越しに聞こえる大勢の人の話し声が、小峰に外にたくさんの人がいることを知らせていた。
「そう言えば、もう一人の喫煙者はどうなってるんだ?」
小峰は檻を開け、外に出す準備をする飼育員の青年に問いかけると、彼は思い出そうとする仕草をしてから答えた。
「彼女は確か、まだ妊娠できるのかの検査をするために、まだ公開されないらしいですよ」
小峰の人間としての尊厳を保つためだろうか。飼育員たちはいつも小峰に敬語で話していた。タメ口でも小峰は大して気にしない人間であったが、飼育員たちは敬語を使うことを頑なに辞めなかった。
「妊娠? なんでそんな検査をしなきゃいけないんだ?」
「さあ、僕もよく知りません。仲のいい看護師のハナちゃんから聞いた話なんです」
その飼育員の青年は、かなりしっかりとした美麗な顔立ちをしており、女性の職員たちから人気があった。
それを妬ましく思わない程度に、小峰は自分が異性にも同性にもモテないことを自覚していた。小峰は自分の頭に生えた残り少ない髪をいじり、皮脂でてかる頭皮を撫でた。目の前に立つ青年の豊かでまっすぐな黒髪とは大違いだ。
「じゃあ、小峰さん。そろそろ時間なので、準備してください」
青年は小峰の方を振り返り、伝えた。外からは大々的なアナウンスが流れているのが小峰の耳まで届いていた。
「では、ご覧ください。日本最後の喫煙者───小峰!!」
「小峰さん、行きますよ!!」
青年は勢いよく、扉を開けた。外の眩しい人工的な光が、小峰の目に焼き付いた。ゆっくりと、だがしっかりとした足取りで、小峰は檻の外から自分の意思で出た。
彼の肌には、自分を見るガラスの外に立つ人々の目線が突き刺さった。
「小峰だ!! 早くタバコ吸ってー」
ガラスに張り付くように前のめりに立つ、小学二年生ぐらいの少年が目を爛々とさせて、小峰を食い入るように見つめた。
「あ、小峰さん。タバコ忘れてますよ」
檻の近くにいた飼育員の青年は、小峰に駆け寄ると、小さな紙袋を渡した。中には煙草の『わかば』とマッチが入っていた。ライターではなくマッチを入れたのは、彼らが喫煙者のことをよく知らないのが原因なのだろう。
喫煙者らしく、煙草を吸えということだと小峰は理解し、箱から一本、煙草を取り出した。
ガラス張りの部屋に、換気扇が付く。あの青年が付けたものだった。
こんなことをして、一体なんの意味があるのだろうと小峰が思ったが、国がそれを望んでいるのだから、そうするしかない。煙草に火を付け、吸った。
煙草の煙が、小峰の肺を満たす。
「吸った!! 吸ったよ、お母さん!!」
先ほどの少年が、ひどく興奮してその場でピョンピョンと飛び跳ね、母親に伝えた。だがとうの母親は興味がないようで、迷惑そうに頷くだけだった。
───煙草でこれだけ注目されるとは、思ってもいなかった。
小峰は驚愕する。今まで隠れて喫煙していたのに、今では一服するだけで、少年が大喜びする。時代というものは、いとも簡単に変わるようだ。
小峰は、また煙草を吸う。
ガラスの前に並ぶ大勢の人々は、右から左へと流されていた。そして人々は、流されながらもじっくりと喫煙をする小峰の姿を観察した。小峰は自分がパンダになったように錯覚する。
笹を食い、寝転がるだけで可愛い可愛いと叫ばれ、チヤホヤされるパンダ。自分もそれに近い存在となっているのだろう。小峰は感慨深く、また感傷に浸りながら、もう一度、煙草を吸う。
こんなに堂々と煙草を吸える日が来るとは、思ってもいなかったのだ。
久しぶりの一服をよく味わいながら、小峰はその日はただ、流れて行く人々を眺めて過ごしたのだった。
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