5‐2
真夜中、陽は沈んでも、まだ風は生ぬるい。この季節特有の湿った空気が顔を撫でる。
目を開けても、目を閉じてもどうにも真っ暗だ。
自分がどこにいるのか、どうなっているのか。生きているのか、死んでいるのかすら曖昧だ。
一つ確かなのは意識が覚醒していること。身体の受容器は平常時通り、暑さや寒さ、厚さや薄さ様々な感触を脳に送っている。
試しに指先を動かしてみると、鈍いが動いた。
寝返りをうつと激痛が身体を一直線に走り抜けた。
「うっ……」
「おはよう」
短い呻きの後、身に覚えのある声がした。つぶっていた瞼をゆっくりと開くと、ベッドの横には、
サユリがいた。
「お、おはよ」
怒る顔や呆れる顔は幾度となく見てきたが、泣き顔を見たのはあの屋上以来で、反応に困った。
「『おはよ』じゃないよ。倒れたって病院から連絡が入って、いきなり3日も寝たまんまだったんだよ」
ふと昔のことを思い出した。
そう言えば、あの時俺は死のうとしていたんだよな。でも今はこんなにも生きててよかったと思っている。
「俺、生きてるんだよな? 」
「当たり前じゃん」
意志の強さと頑丈な体に俺は心の中で感謝を告げた。
「そ、そうだよな」
ははっと笑うと脇腹に激痛が走る。痛みで顔を顰めるとサユリが俺を見ていた。
「―――おかえり」
「うん。ただいま」
頬を滑り流れる涙が夜空に浮かぶ月の明かりを吸いこんで輝いている。
「バカ……」
寝醒めに見るにしてはあまりにもその光景は鮮烈で、その瞬間を頭の中で保存するように俺は瞼を普段の何倍も見開いた。
「ごめんなさい」
声を押し殺して泣くサユリの姿を見ながらゆっくりと体に力が戻っていくのを感じる。ああ、ほんとに俺生きてんだ。
「あ、そうだ。新聞ないか? ここ最近のやつ」
間の抜けた顔でサユリが俺を見上げて、寝台に置いてあった新聞を俺の手元に置いた。サユリは席を立ち上がり、病室の明かりをつけた。
無我夢中で新聞をめくる、までもなく、第一面に「暴力団組織八鷹組幹部、猪澤幹夫逮捕」と載っていた。
「あ、その記事ね。なんかワイドショーとかも毎日そのニュースばっかりでさ。幹夫っていうヤクザの人が自分で警察に自首したらしいよ。逮捕されたその日はおとなしく供述に応じていたんだけど、次の日になると人が変わったように暴れ出したんだって。性格があまりにも違うから警察は精神鑑定を受けさせるとかなんとか。お化けが憑依したんじゃないかなんていう意味のわからない憶測も広がってるみたい」
「お化けって」
「だよね」
突拍子のない話に思わず笑うと、サユリが続いた。お化けってなんだよ。
お化け―――
打たれた直後の記憶がフラッシュバックする。
何故か今にも泣きだしそうな幹夫の表情。
傷みに痛み。それと懐かしい声。
そして、『こんどこそ本当にお別れだ。じゃあな』という言葉。
―――そうだった。俺はあの時、あいつに救われたんだった。
途端に涙が溢れる。
柔い風が吹く日の波打ち際のように穏やかに感情が寄せては引いていく。
「どうしたの? 」
サユリは心配そうに俺の顔を覗く。言われて瞼を病衣の袖で拭うが、また涙は生まれ、流れていく。
「その噂さ、案外間違ってないかも……」
「噂? 」
「その……お化けなんじゃないか……って話」
「なにそれ」
心配して損したとばかりに俺を笑うサユリに一つ提案をした。
「ちょっと長い話なんだけど聞いてくれるか? そうすれば俺の言ったことの意味が分かるから」
「はいはい。夜は長いし、聞かせてもらいますかね」
とっくに消灯時間は過ぎているため、サユリは病室の電気を消して振り返る。再び、月の光だけが病室の明かりとなる。
ベッドの淵に腰を下ろして、そのままサユリは倒れた。その衝撃でベッドが弾むとともに微かに傷口が痛む。
声を漏らすと、サユリは「いい気味だ」と言いながら笑った。
長話の後、眠ってしまった俺たちはそのまま朝を迎えた。
検診で来た看護師さんが一緒のベッドで眠ってしまった俺たちを見つけた。
それによってとっくに面会時間を過ぎた後サユリが俺の病室に忍び込んだことがバレてこってりと看護師さんに絞られた。
それから、味の薄い朝食を口に運び、朝の情報番組を呆然と眺めた。テレビはサユリの言った通り暴力団幹部の逮捕劇ばかり流れている。
チャンネルを回しているうちに「シャワー浴びてくる」と言ってサユリは一度家に帰った。
一人きりの病室には漫画や文庫本も何もない。サユリによると「さーくんはすぐ起きてくると思ったから何も用意しなかった」そうだ。
俺が生きていると信じてくれたのはありがたいが、今だけはその善意が要らないものに感じる。手持無沙汰で、何となしにペンギンのぬいぐるみを手にとり、抱いた。
ぬいぐるみを抱くと、ふっと嗅ぎ覚えのある匂いが、鼻先を包んだ。
ああ、これ。あのゲームセンターの―――寝台を見ると、たくさんのお見舞い品があった。
ブランド名の入った名札の付いた果物の詰め合わせには「早く、戻って来い」とだけ書かれた書置きがセロテープで雑に張り付けられていた。
見舞い品なのかは解らないが、額が飾られている。そこに収まっているのは商店街の人達の集合写真。誰一人漏れなく笑っていて、手にとると額の裏には「私達は元気です」と端正な字で書かれていた。
無事だったんだと安堵し、同時に巻き込んでしまったことに対しての罪悪感が薄く心を覆った。
まぁこの埋め合わせはオムライスでも食べながら考えようか。
冷静に見れば、たくさんの人達からの見舞い品が来ていた。
一升瓶はスナックの面々から。
洋菓子の詰まったアルミの箱はきっと学校関係者からだろう。中を開けるとほとんど空っぽで、俺は数少ない洋菓子のラインナップの中でフィナンシェを手にとり口の中に放る。
軽やかな甘みが口の中で広がるのと同時に走り抜けてきた今までと、これからに思いを馳せていた時、ドアが開いた。
「ただいまぁー」
「おう。おかえり」
自分の家同然に病室に入るサユリを同じような面持ちで出迎える。
サユリはベッド脇の丸椅子に座った。
緩く巻かれた紙の先が椅子に座るとともに弾み、部屋の中に風が吹いて、シャンプーの匂いが鼻を掠める。なんだか無性に抱きしめたくなった。
「あのさ、相談事があるの」
「なにさ」と訊くと躊躇いながらもたどたどしく言葉は続く。
「貴士くんのご両親がさーくんの家に来た時のこと覚えている? 」
「ああ、覚えてる」
確か、あの時はサユリに泣きながらせがまれて、事に及んだはず。
え、待てよ相談事って……
「えぇっ? いやまさか……」
「できちゃったみたい―――」
サユリは妊娠検査薬を俺の目の前に突き出す。突き出されたそれの小窓にははっきりと線が一本刻まれていた。
「ふぁ? うぁ、えぇぇぇぇぇぇ!? 」
思わず、大声をあげると、すぐに看護師さんが、病室に駆け込んできた。焦りで顔をはりつめらせた看護師さんに俺達はすぐに平謝りして、何とか帰ってもらう。
「沙友里さん、それ相談事じゃなくて報告でしょ。しかも事後報告って」
顔を覆う。
やっぱりこの人怖い。
外で仕事している時は面倒見のいいお姉さんを演じてはいるが、サユリは間違いなく世間でいうヤンデレって奴だろう。
てか、挿れる前いつ外したんだよ。ほんと、恐ろしい子。
「そう、だね」
申し訳なさそうに頭を下げる。ああ一応、罪悪感はあるのか。
「ごめん。あの時、さーくん五年前みたいな顔してたからなんか怖くて」
「怖いからって子供つくらせますかね……」
「だってさ、また死にそうな顔してたんだ。私さ、もう二度とその顔見るの嫌だったの。だからわたしなりに考えたんだよ。そしたらさ、通帳燃やした時のこと思い出してさ。ああ、またこの人を生きざるをえない状況に引きずり込んでやろうと思ったの」
訴えかける瞳は微かに潤んでいて純粋な思いは伝わってくる。
けど、言葉の端々に闇が見えるのは俺だけだろうか―――
「もう死なない、よね? 」
確認するようにもう一度求められ、それに頷きで答える。
サユリは顔をわずかに熱らせて少女のように笑う。
「よかったぁ―――」噛みしめるように、一息つくように反芻する。
そんな姿を見ていると、さっきまでの驚きや恐れ、それらのことがどうでもよくなった。
ただ、この人のために少しでも自分を変えよう。
今はそう想う―――
「手始めに禁煙にチャレンジしてみるか」
腕を天井に向かってぐぅーっと伸ばすと、身体の関節音が弾んだ。
「本当にできるの? 」
「さぁ」
「なにそれ。三日で終わりそうだね」
「かもしれないなぁ」
「じゃあ、やる意味ないじゃん」
サユリはたははと笑いながら瞼を拭う。拭った後太ももの上に置いた手を俺は握った。
「まぁやってみるよ。じゃないと―――どうなるかなんて、分からないでしょ? 」
「―――そっか」
はっと目を見開いた後、サユリは真っ直ぐ俺を見た。
子育てか。また面倒なことが増えたな。
なんて思うことは、もうない。
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