Last.青を抱いて飛べ

5-1



 夏の風に揺らぐカーテンは差し込む陽光に照らされ、白く光っている。その光は病室全体を包むように照らす。

 静かで穏やかな病室内。彼が嫌いな場所。

 メグミやシュンは能面のような彼の顔を覗きこんでいる。青白くして俯く二人の姿は他人から見たら、どちらが病人か比べがつかないほどだ。


 彼、冴島聡は肩口、それに脇腹に銃弾を受けて倒れた。そして搬送されてから時が経ち今日になっても起き上がって来ない。


 弾の摘出手術が終わり、次いで止血措置が施され、サトシの鳩尾あたりには傷痕が刻まれた。医者の見解では手術によって一命をとりとめたが、出血量が多かったため予断は許されないとのことだ。

 それを聞いたメグミとシュンは手術後運ばれてきたサトシの身体を必死に揺すぶった。離れてください、と看護師に忠告を受けても止めることはなかった。周りにいた人達全員が二人の乱心からサトシを引き剥がした。

 激しく揺すぶられても、サトシは痛がることもなく、声をあげることもない。

 二人の頭の中ではタカシが病院に運ばれた時のことがデジャブになっていた。

 タカシは助かったけど、次はないかもしれない。

 待人達の頭の中は焦燥でいっぱいになる。


 二人の目の周りに隈が棲みついてからもう三日が経つ。

 二人以外の高校生たちは夏休みが終わりに近づき、そろそろ宿題やらに焦って取り組む時期だ。

 だが二人はこうして毎日、何をするわけでもなくサトシの寝ているベッド脇に並んで座る。

「帰ってきますよね……」

「当たり前じゃん」

 返事はすぐ帰ってきたが、メグミの顔は依然として沈んだままだ。

「でもさ……怖いよ」

 涙は枯れ果てたはずなのに、また流れて、ぎゅっと握りしめた手の甲に落ちて滴が弾ける。

 シュンは微かに震えるメグミの手を握った。

 驚いたメグミがシュンの方を見る。

「僕もです。何かに触れていないと、此処にいられなくて―――その、ごめんなさい」

 たどたどしくそう言った後、彼は小さく頭を下げた。

 縋るようにもう一つの手を伸ばし、シュンは固くメグミの手を握った。

「そうだね……」

 メグミはそう言いながらまた涙を流す。


「こんちはー」

 病室のドアを開けるのはサユリだ。

 シフォンブラウスにスキニーのラフな姿。右手に半透明な袋を提げている。

 サユリの姿に気づき、二人は慌てて手を離す。

「あれ、邪魔しちゃった」

 いえ、と二人はお互いぎごちない視線を交わす。

「まだ寝てるの? 」

 そう問いかけるサユリの声や表情には影がない。

 その態度だけを見ると、まるでサトシがただ居眠りしているだけのようにも思える。

 2人が頷き、その旋毛に対して向けられたサユリの笑みは既に覚悟しているからなのか、それとも楽観的にとらえていたいという気持ちからくるのか。それがメグミ達には理解できなかった。

「さっさんのこと、心配じゃないんですか? 」

 失礼だと分かりつつも訊いてしまう。

 メグミはサユリを問いただしたいという自我を押さえつけられなかった。するとサユリは笑顔のまま―――

「本当はね、このまま一緒に消えちゃいたいくらい心配だよ。でもさ、あの時よりはまし、いくらかだけど」

 言葉の暗さとは対照にサユリの顔は差し込む陽光に溶け込んでいる。

 メグミはまた湧き上がってしまった欲求のまま、サユリに質問をぶつけた。

「ああ、それはね……」


 * * *


 三十歳を迎えた初夏、病院の屋上にサトシは座っていた。

 土砂降りの雨の中、傘の柄を肩に乗せてフェンスを越えた縁に腰を下ろす。

 覚えたての煙草の味に咳きこみながら、投げ出した足をふらふらと揺らして、眼下に見える車の流れを彼はじっと眺めていた。

「これからどうしようか」

 とんだ奇人や曲芸師でない限り、そこに腰を下ろす者の考えは大概一緒だ。

「いや……どうでもいいか」

 咳きこみながらまた煙草を吸う。

 サトシが煙草を始めた理由は、吸えば吸うほど自分が終わりに近づくからだ。

 緩やかに身体を傷める日々は最初は苦しかったが、すぐに心地よくなった。だが、その行為は早々に終わりを告げる。

「なんだよ。『頼むぞ』って―――言い逃げしやがって」

 緩やかに終わりに向かっていく日々。生抜く力さえ失くしてしまったサトシは手っ取り早く自分の人生に区切りを付けたかった。

 吸い終わった一本を宙に放り投げる。

 放られた吸い殻は放物線を描いたかと思えば、地面に吸い寄せられていく。

 ちっぽけな輪郭は雨粒に霞み、すぐに見えなくなる。

「ちょっと―――」

「あぁ、沙友里か」

 声を掛けてきたのが他人であれば取り繕おうかとも思ったが、サユリとわかって素のまま応じる。サトシの態度にサユリが顔を歪めた。

「『あぁ』じゃないよ。いきなり一週間もいなくなってさ」

 土砂降りの中、傘もささずサユリはサトシの前に立っている。肩で息をしているサユリの顔に苛立ちがより深まっていく。

「なんでここだって分かったわけ? 」

「最近様子が変だったから、浮気でもしてるんじゃないかと思って尾行したの。そしたらこの病院に通ってるのを知って、もしかしてここなんじゃないかなって思ったの」

「あ、そう」

 平然と、尾行したと言い放つサユリに一瞬違和感を覚えたが、それはサトシの中ですぐにどうでもよくなった。

「俺に構っても、この先何もないから、捨ててくれてよかったのに」

「嫌だよ」

 驟雨を貫く一声が屋上に響く。

「もう俺には夢も、生きる気力も、家族も、親友もなんもない。ないない尽くしなんだからこうなるのは仕方ないんだよ」

 サユリの声はサトシのダラダラとした否定の言葉と雨音に搔き消された。

 言いきると同時にサトシはサユリから興味を背けた。

「仕方ないってなにそれ? まだ三十歳でしょ」

「沙友里には分かんないよ」

「そう。なら同じ立場で話すことにするよ」

「は? なにが言いたいわけ? 」

 意味の解らない返答につい振り返る。

 サユリはびしょ濡れになったジーパンのポケットに手を突っ込み中で何かを掴んだ。取り出したのは預金通帳だった。

「なにそれ」

「通帳だよ」

「なにすんの? 」

「燃やすの」

 サユリはもう片方のポケットに手を突っ込んでライターを取り出す。足早に屋根の下に駆け込んで火をつけようとする。

 おぼつかない手付きでヤスリとフリントを擦り合わせている。空気も通帳も湿気っているせいでなかなか火は燃え移らない。

「貯金なんて対して入ってないし。勝手にしなよ」

 言い終わると同時に再び目線を眼下の景色に戻す。

 後ろで「燃えちゃった」と聞こえ、自分で火を付けたのにもかかわらずサユリは悔やんでいるように声を漏らす。

 熱っ、というサユリの声が聞こえるのと同時に地面に通帳が落ちる音がする。

 残高なんてほとんどなかったが、サユリの行動で本当に区切りがついた。

 サトシは頃合いを見計らっていたように腰を浮かせる。

 その時、声が聞こえた。

 その声にサトシは三度振り返ることになった。

「これ、サトシくんのじゃない、から」

「は―――? 」

「これね―――わたしの」

 躊躇いがちにそう告げたサユリ。

「お前……馬鹿か?」

 真実味の帯びたそのトーンにサトシは立ち上がって踵を返し、フェンスに手をかけていた。

 頭に押し寄せるのは理解不能から来る困惑で、それでいっぱいになったサトシは無我夢中でフェンスを超える。

 前のめりになりながら雨に足を滑らせ顔面が地面に打ち付けられた。

「なんでそんなこと……」

「ああ、馬鹿だよ。わたしは大馬鹿者だ」

「え、なに開き直ってんの」

 小刻みな鼓動は雨音よりうるさい。

「え、何? サユリ何がしたいの?」

「一人で死ねると思うな」

「え―――」

「だから、1人で死ねると思うなよ!」

 床をなめるようにやっと顔をあげると燃え盛るサユリの預金通帳が彼女の足元にあった。後悔で歪む顔がサトシに向いている。

「身勝手に死ぬのなら、自分の行動で、ひと一人の人生を台無しにしたって言う罪悪感を背負って死ね―――」

 泣き叫ぶサユリには有無を言わせない気迫があって、自分の財産を自分で塵にしたという行動は言葉の本気さを裏付けるには十分過ぎた。

 サトシの灰になりかけた心が芽吹く。

 一瞬の鮮烈な言葉に自分の今まで抱えていた淀みや、価値観が飛んでいく。ほとんど脅迫に近い言葉の中でサトシは微かに温かみと許しを感じ取っていた。

「それを背負うのはもうちょっと大きくなってからでもいい? 」

 立ち上がり申し訳なさそうに頭を搔くサトシにサユリは「しょうがないな」と呟き、微笑んだ。

 駆け寄り隣り合う二人。

 新たなスタートを切ろうとするふたりの前には消し炭となった預金通帳。

「もう少し、早く決断してよね。驚かすつもりだけだったのに、本当に燃やしちゃったじゃんか」

「ごめん」

 そう言ってサユリは笑う。つられてサトシも笑った。

 張り付いていた憂鬱が剥がれ落ち、何年も心の底から笑うことのなかったサトシはサユリのバカらしさ、そして何より自分のバカらしさに笑いが止まらなくなった。

 雨曝しの中、雨音に負けないくらい二人の笑い声が屋上に響いた。


 * * *


 結局、惚気話になったサユリの話のおかげで、病室の空気は少し緩んでいた。やっと外から差し込んだ暖かい陽気と二人の気持ちが少しずつ歩み寄っていく。

「事故とかそういうのは抜きにしてさ。多分さ、生きようとすれば―――生きれるんだよ」

 字面だけ見れば当たり前のことかもしれない。だがサユリの表情を含めてみると、言葉に重みが生まれる。

 サユリの微笑んだ顔には厚みが在った。

「サトシくんが最近『少しでも変われるように頑張るよ』って言ったの。そう言うってことは少なくとも死のうとしているわけじゃないってことでしょ。だったら―――生きてるよ。誰が何を言おうと、大丈夫なの。絶対」

 スキニーのポケットから財布をとりだす。

「お昼食べましょう。わたし最近お腹すぐすいちゃうのよ。サトシくんが起き上がってきたらそれも相談しなきゃ」

 サユリは二人の元まで行き、それぞれの肩に手を置く。

「付き合って」

 後ろ髪を引かれながら二人は立ち上がる。

 サユリは二人の肩に手を置いたかと思うとすぐに踵を返し、すたすたと病室を出た。

 ドアの隙間から顔を覗かせて二人を急かせる。

「寝てる人ずっと見ててもつまらないでしょ? 美味しいもの食べ―――」

「どうしました? 」二人は不思議そうにサユリの顔を窺う。


「いや―――何でもない、かな」



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