4‐9



 母さんは皮膚がんだった。


 強烈な日光を浴びたことが要因で起こる皮膚がんは、まず前触れとして日光角化症というものが起こる。これは顔や首、手背、前腕などのよく日光のあたる部分に小さい紅褐色の皮疹ができるというものだ。

 その前兆を母さんはシミと勘違いし、化粧で誤魔化していた。この間違いは母さんだけではなく、患った多くの人達が陥りやすい盲点らしく、例によって母さんも嵌ってしまったのだ。こうしてがんの前兆を見過ごした母さんに膨れ上がった病魔が襲う。

 皮膚がんの中でも母さんが患ったメラノーマは悪性が高く、症状は黒色または黒褐色の軽く盛り上がった皮疹が身体にできるのが症状の主だ。

 皮膚がんの症状は内臓などと違って、目に見えて異常が分かるという面があり、早期発見につながりやすい。その反面、目に見えるだけに黒子などと勘違いしやすいこともある。これも多くの人々が陥りやすい例で、母さんはこの盲点にも例に漏れず引っ掛かった。


「母さん、自分がアルビノだってわかっているよね? 」

「うん」

 俺の叱責が病室に響く。

 親子関係がひっくり返った病室内で俺は叱咤を続け、母さんはそれに反論せずただ頷いていた。

 そもそも何故、皮膚がんになるほど日光を浴び続けたのかを問うと、それは夜の仕事以外に昼間スーパーの品出しをしていたことが原因だった。

「レジ係がやりたい」

 母さんはそう言ったらしい。オーナーは頭髪を整えるなら、という条件で母さんを雇った。

 だが昼間の仕事を選べばその分日光を多く浴びるようになる。

 普通の人であればそんなことは些末なことだろうが、アルビノである母さんにはひどく堪えた。


「最初はよかったんだけどさぁ、でもだんだん辛くなってぇ」

 母さんは一言ずつ語尾を伸ばして喋る癖がある。

 別にそれが嫌というわけではないし、話し方の癖に母さんの穏やかさが表れているみたいで、俺はむしろそんなのんびりさが好きだった。

 だが病床に伏せる母さんを見ていると、語尾のを伸ばす口癖がまるで重荷を引き摺っているように聞こえた。

「なんでそんなことしたのさ。大学は奨学金とバイトで何とかなっているし、それに将来に向けて貯金だってしてる。だからこっちは問題ないのに」

「それでもねぇ……心配だったの。今はいいかもしれないけど聡が急に病気にかかったら、大怪我で入院したら、そう思うと働かなきゃ、って思うのよぉ」

「いや、母さんの気持ちはわかるよ。でも、人のことを心配している場合じゃないでしょ、入院してるのは俺じゃなくて母さんなんだから」

「うん。そうねぇ」

 霞のような顔がわずかに火照る。口元に手を当て照れ笑う母さん。その手背には真黒な腫瘤があった。

 真っ白な肌に差す蟲のようなそれは、強烈に自己主張を放っていて、身体の全体からしたら浸食されているのは極僅かな面積でしかないのに、全身を支配しているような不気味さがある。

「笑い事じゃないから」

 臨床心理士になろうとしたのはもともと母さんの悩みを聞いて楽にしてあげたかったからなのに。俺は母さんを救いたかっただけなのに。

 だけど母さんは今病院のベットにいて、異物の侵食に必死で抵抗している。俺は結局こうして顔を見に来るぐらいしかできないのか、そう思うとまた憤りが込み上げてきた。


「聡―――母さんは大丈夫だからね」


 次続けようとした言葉が喉の奥に引っ込んだ。

 その言葉が今一番言われたくないんだよ。

 今まで何となくやり過ごせていた言葉がこの時、心の中で引っ掛かって、俺はつい表情を強張らせてしまった。

「聡、具合悪いの? 」

「何でもないよ。母さんこそ辛いならもう喋んなくていいから」

 威圧的な態度に母さんは肩を竦め、席を立って背を向けた俺を引き留めようとはせずただ見ていた。

「そうだねぇ。ごめん……」

 ベッドの背もたれに体重を預けて項垂れる母さんの姿がちらっと見えたが、また来た時に謝ろうなんて思っていた。


 また来る機会はあった。だけどその機会には限りがあって、母さんはもう助からない。

 分かったのは翌日のことだ。


 皮膚がんというのは早期発見につながりやすいがんということもあって、内臓への転移がないのが大概の患者に共通する。

 今までの母さんは兆候の見逃しといい、大概の人の例に嵌るという法則通りに来ていたのに―――そこだけは外れた。


 余命三年―――。


 心配をかけないように一人暮らしをし始めた仇がこれだ。

 手背部に見えたあの腫瘤は服で隠れているだけで実は幾つも存在していて、それらは母さんの命をゆっくりと食い荒らしていった。時間は燥ぐ子供のように無邪気に俺を置き去りにして走っていく。


 一年目。

 大学と病院を行き来する日々が始まった。同じ県内だとはいえ、離れていることには変わりなく、最初は電車で通っていた。

 だが運賃は積もり、また積もっていく。困り果てていたところでソウゴが車を出してくれることになり、見舞いに行くついでに彼を紹介すると、母さんは「友達が出来てよかったねぇ」と大袈裟に泣いて喜んでいた。


 二年目。

 大学二年の後半には無事資金がたまり、車をローンで買った俺はもうソウゴに送ってもらわなくてもよくなった。

 ソウゴは講義や外せない用事でない限り、必ず俺と一緒に母さんの見舞いに来てくれた。その頃にはカズキも一緒に行くことが多くなり、三人でのお見舞いはやがて日常になった。


 そして三年目。

 医者に宣告された年、母さんは必死に病魔と闘っていた。抗がん剤で髪は抜け落ち、坊主となってしまった母さんは「一休さんみたいでしょ」なんておどけていたが、毎日苦しみに抗っている痕は体の至る箇所残っていた。

 その頃から降り始めの雨のように面会謝絶の日が増えていった。

 それでも面会できるときに母さんは俺が見舞いに行くといつも笑っていた。

 それが必死に強がっている姿だとは分かってはいたけど、俺はそこに甘えてしまって繕い続けられるその表情に腹を立て、一方的に母さんを攻めることもあった。でも母さんはそれを黙って聞いてくれた。

 病院へは行くが病室に入れない日が増えた。それは変わり果てた母さんの姿を見るのが怖くなったからだ。

 俺の不甲斐なさや小ささはどんどんと浮き彫りになっていく。気づけば俺は、自分で自分の首を絞めるような日々が続く。

 俺は母さんが悩んでいる姿が見たかった。話を聞いて力になってあげたかった。

 母さんの力に―――

 それは最初、純粋な願いだったはずだった。だけどいつの間にか濁ってしまい、あの時の願いはただの自己満足だったんじゃないか、そんな気がした。

 がらがらと足元が崩れていく日々に目を逸らしながらも、俺は生きることをなんとかやり過ごしていた。


 開花宣言をテレビが知らせてから、何度か母さんは俺を花見に誘った。だが俺はその誘いを断り続けていた。断わり続けたのは拒絶ではなく、待っていたからだった。

 母さんの言う花見は病院の正面口に、所在なさそうに咲く桜を見ることだった。

 それはあまりにも味気なく、それにあのみすぼらしい散り際を見ているは母さんの一生までもがみすぼらしく終わってしまう気がして、俺は嫌だった。どうせなら見上げた視界いっぱいに覆い尽くすような桜を母さんには見てほしかった。

 そう思えたのは、ソウゴやカズキが目を離すと死に向かって行ってしまう俺を必死に引き止めてくれたからだ。

 外出許可が出たらソウゴやカズキも連れて花見に出かけよう、俺はやっと上を見あげられるようになった頃そう思った。

 だがその瞬間を迎えることはなかった。病魔が毎日母さんを襲うようになり、精神が不安定になってしまったため面会所ではなくなってしまった。

 そして大学四年目の春―――母さんは死んだ。

 ちょうどその頃、桜が散り始めた。


 穏やかな風に舞った桜の花弁が病室のベッドにぽつりと落ちた。

「聡、見て。小っちゃくてかわいいわぁ」

 その日の母さんは赤子を見るように瞳を躍らせた。拘束帯が今日は外れている。

 俺には舞い落ちた花弁が死神からの知らせの気がして、それが嫌でベッドの脇からずっと花弁を睨んでいた。

「銀蔵さんみたいな眼つきねぇ。素敵よ」

「知らない人の話なんて聞きたくないよ」

 もっというべき言葉があるはずなのに。髭が生え、声も低くなったけど、俺の中身は全く成長していない。母さんに甘えたいだけのガキのままの精神性に死にたくなる。

 連れて行くのはその人じゃないだろと、心で思うたびに苛立ちが表情に出て、傷つけたくはないのに、母さんと楽しく話すことも出来なくなっていた。

「あらぁ、知らない人なんて言わないでよ。お父さんなんだから」

「戸籍上はでしょ」

「それはそうだけどもさぁ……」困ったように笑う母さん。本当はそんな表情してほしくないのに、ああ何でこうなる。

「最近、外出許可って出た? 」

 母さんは首を横に振り「上手くいかないねぇ」そう言ってまた笑う。これ以上会話をしていても母さんを傷つけるだけだ。

 そう思った俺は、丸椅子から腰を浮かそうとした。

「最近思ってたんだけどさぁ。聡、彼女出来た? 」

「え? 」

「だって、髭整えるようになったし、それに片幅も広くなったんじゃない? 」

 顎をさすり、自分の肩を交互に見る。


 確かにその時、彼女、そう呼べるかもしれない間に合わせがいた。

 俺は母さんのこと、カズキは自分の夢のことでお互い悩んでいた。カズキはその頃、女優という華やかではあるが、いつ落ちるかもわからない不安定な道のりに向き合うことを恐れていた。その悩みに俺が相談に乗ったのが、始まりだった。

 傷の舐めあいは実に心地よくて、カズキといる時は確かに楽しかった。だけど今考えてみれば、ただ現実を見るのが怖くて溺れていたかっただけなのかもしれない。


「いつの間にか、大きくなったんだねぇ」

「それは、どうかな……」

「自信持ちなよぉ。お店のママが『子供は知らない間にどんどん成長する』って言ってたけど本当ねぇ。思えば、母さんはいっつも聡に心配かけてばかりだったよねぇ」

「そんなことない」

「シングルマザーだからってお店の子に聡を預けっきりだったし」

「あれはしょうがないだろ」

「お客さんともめた時だって、母さんが不注意じゃなければ聡にあんなことさせることなっかったし」

「あれは、俺が好きでやったことだから」

「それに今だって、こうやってほぼ毎日見舞いに来てもらってる」

 二十二年暮してきて初めて見た母さんが落ち込む顔。

 母さんはつらいはずなのに、歪んだ俺の感性は歓喜している。

 やっと力になれる。やっと居場所を見つけたんだ。

 そう思った時―――


「今までごめんねぇ。聡―――」

 やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめ―――

「母さんはもう大丈夫だから」

 大嫌いな言葉が、また繰り返された。

「母さん―――? 」

 不意に握られた手から母さんの肌のやわらかさが伝わってくる。ただ体温は伝わってこなかった。

 俺の大嫌いな言葉。

 それは「母さんだけじゃなく、自分を大事に生きなさい」という母さんの優しさから来ている。そんなのは子供の頃から分かっていた。でもその言葉は俺が心配することに対しての母さんの拒絶でもあった。


 ―――俺は母さんにとって、必要だったのか?


 そう思った時、握られている手の感触が硬くなっていることが分かって、母さんの命に終わりが来たと自覚した。

 そこで俺の芯は根元から折れた。


 とはいえ、今まで歩き続けてきた道のりはそれなりに長かったため、今さら戻るのは億劫で俺は大学院に進んだ。

 活力の七割は惰性。あとの三割はあの言葉に対する復讐。

 人の心に触れる仕事がしたいからなんて綺麗事を抱いて周りの院生が前を進む中、俺はひたすら足元だけを見続けていた。明日が埋まればいい、それだけを考えて日々を彷徨った。

 汚れて霞んだ動機でよく試験に受かったと思う。合格発表会場では歓喜や悲しみが混在する中、俺はフラットのままだった。

 もっとなるべき人はいたんだろう。でもまぁ、これで面倒な勉強からも解放か。その時の俺はテスト勉強が終わった後の学生のような解放感しかなく、これからの将来に想いを馳せるなんてことはまるでなかった。

 そこからはなんとなく病院に勤めて、わがままな患者に辟易として、人間の傲慢さばかりに目が行くようになって、一年でそこを辞めて、無職になって、「生きろ」と口うるさく言われてとりあえず生きてみた。

 だがもう二度と病院には行きたくなくて、楽そうだし、それに女子高生がいるし。


 なんてひどく軽薄な理由で俺はスクールカウンセラーになった。



 * * *


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