4‐8
* * *
アルビノを持つ人々は皆、日光が苦手だ。それは太陽光から放射される紫外線に耐性がほとんどないからだ。
そう言えば、小さい頃、夏でも冬でもパーカーを着ていた俺は、よく学校でドラキュラなんて揶揄われたっけか―――
今では記憶の一つでしかないが、小さい頃、そのことは俺にとってものすごくストレスだった。
クリスマス間近、降る雪に街中が浮かれていたあの日。その日も確かそうやって揶揄われて学校を途中で抜け出してきた。
「ただいま」
ランドセルを放って、寄りかかった壁は俺と母さんが入居する頃にもうところどころ凹んでいた。築二十年以上経つアパートに隙間風は容赦なく入り込む。
寒さで体が震え、居間にある炬燵に潜り込もうとした。すると母さんが重たい体を引き摺るようにして寝室からでてきた。
「あれ、学校早かったねぇ」
母さんは老婆のように腰を曲げたまま、緩慢な動作で台所に移動して、コップいっぱいに注いだ水を飲み干す。ネグリジェの肩ひもは片方だけ外れ、髪は乱れ、化粧は落ちていないままだ。
「うん。今日は気分悪いから早退」
本当は学校でのことを話したかった。でも苦しいのはお互い様。母さんだってどこかで俺みたいなことを受けているかもしれない。だったら、男なら、我慢すべきだ。
「そっかぁ。あれ? どうしたのここ」
母さんは自分の頬を指さして、俺の頬の傷について尋ねる。
早退に対しての追求は特になく、あっさりしてんな、なんて思いながら「喧嘩だよ」と伝えると怪我の心配より先に勝敗を聞いてきた。
「うん。ぶちのめしてやった」
「そっかぁ。さすが銀蔵さんの息子ね」
そこ褒めるとこじゃないでしょ。と思いながら、
「強いね。サトシは、」
母さんの温かみを頭で受ける。
仏壇に飾られている遺影の中には俺の人相を数百倍悪くしたような男の写真が収まっている。うんと小さい頃は遺影を直視することが出来なくいつも仏壇の前を通り過ぎる時は早足だった。
喧嘩の強い男っていうのは大概、女子にチヤホヤされるものだけど、遺伝によってそんなことはまるでない。全く迷惑な話だ。
「母さん、今日はお店のクリスマスパーティーがあるから遅くなるね」
「今日もでしょ」
「はいはい。そうですね」
特売のコロッケを温め、それを半分に割り皿に置く。付け合わせの炒めもやしを添えて
、我が家のご馳走が炬燵の天板の上に並べられた。
父親は幸い借金を抱えていなかったため、返済のことは考えなくても済んだが、やはり母さんだけで俺を養っていくってのは楽にいかない。そのため節約兼、食いつなぐために家の暮らしは他の家と比べて質素なものだった。
遅めの昼食を終えた後、何をするでもなく、炬燵でずっと寝転がっている間に睡魔が来て、再び目を開ければ夜が来ていた。
母さんは店へ向かうためにシャワーを浴びている。足の裏もまともに拭かずせわしなく着替えを済ませ、化粧で気持ちを切り替えて、ヒールに足を通す。
「聡―――母さん頑張ってくるからね」
「分かってるよ。行ってらっしゃい」
「いってきます」
いってきますの前には毎度この言葉がつく。俺の頭をわしゃわしゃと撫でると母さんの顔が切り替わる。
「母さん、大丈夫だから」
振り返った母さんの顔は大人の女性になっていて、その顔を崩したくなくて俺は大嫌いな言葉を黙って今日も聞き流す。
女手一つで俺を育てようとする母さんには仕事が必要で、でもアルビノの体質のせいで、時間帯は夜に限られた。そうなると飲食店の深夜帯か、水商売しかなかった。だけど、飲食店は生まれつきの白髪のせいで悉くはじかれ、結局母さんは水商売の道を選ぶしかなかった。
幸い店のママや他のキャスト達は苦労している母さんのことを知っていて、支えになろうと動いてくれる温かい人達だった。
それに母さんにつく客も常連ばかりで客もまた、母さんの事情を汲んでくれていた。
小さい頃は託児所のように俺も店に預けられたことがあるけれど、アルビノの子供にも分け隔てなく接してくれる人達がこの店のほとんどだ。
でも、ほとんどだった。希に質の悪い客もいる。その日の夜も母さんは運悪く質の悪い客に捕まった。
「いいじゃんか。蓮ちゃんの家に上げてよ」
蓮という本名の冴島春香にちなんで春に香る花の木蓮の一文字をとってママが名付けてくれた源氏名が家の外から聞こえる。
壁は障子紙同然に杜撰であるため、外の会話の一言一句がはっきりと聞こえ、牛蛙みたいな男の声で俺は目を覚ました。
「それは困りますよぉ。お客さん明日家族サービスするんでしょ。だったら早く帰って明日に備えないと、ね? ほらクリスマスですし……」
やんわりと母さんは男に断わりを入れる。だが男は引こうとはしない。俺は窓を開けて外の様子を窺った。
「カミさんなんて今はどうでもいいんだよ。ねぇ、相手してくれたらまた来るからさ、次はもっとお金使っちゃうよ」
「ちょっと」
下衆の手が母さんの肩から胸へ伸びていく。母さんはやんわりとその手をのけるが、また伸びてくる。下衆が浮かべた爬虫類じみた視線に俺は吐き気を覚えた。ああ、まただ―――
うんざりしながらバットを持ってドアを開ける。
アルコール漬けで理性がほとんどない下衆は母さんの露出した胸元にくぎ付けになっている。母さんは下衆に怯えてしまい、声を上げることができない。
さてと―――
視線が谷間にしか向いていなかったから、近づくのは容易かった。俺はゆっくりと階段を下り、下衆の背後に立つ。
「退いて」
顔が硬直した母さんがとっさに下衆から飛び退いた。
バットを振り上げ、腕の力だけじゃなく全身を撓らせて、その反発で得た力を下衆の背中目掛けて打ち込む。ドサリと倒れた。
衝撃は臓器を圧迫したらしく、下衆は唾液とともに今日食べたものも吐き出した。背中の激しい痛みに押し潰されて何もできないまま下衆は蹲る。
「……この糞ガキ」
「消えろ」
俺は構わずもう一度バットを振った。そしてまた振って、振って―――
母さんが俺を止めようとする声も置き去りにして、暴力に没頭した。
気づけば下衆は何も言わなくなった。やばい、殺しちゃった―――?
「おい!」
今更湧き上がった恐怖で熱暴走していた頭が急速に冷えた時、俺はたまたま通りかかった見知った警察官に羽交い絞めにされていた。
「何すんだ―――このガキ……」
暴力が止んでやっと男は口を開く。
声を聞いて、コイツの後始末をせずに済んだ。と、安堵する。
下衆の姿勢はいまだ蹲ったままで、おそらく背中に打ち込んだ痛みで身動き一つ取れないのだろう。ざまぁねぇ。
「お前こそ母さんに何しようとした」
口に出したら、肌が粟立ってまた頭が真っ白になりそうだったが、これ以上やったらほんとに死んじゃうなと手を出さずにおいた。なのに、下衆は余計にこちらを煽るように言葉を並べる。
「いや、お前んとこの母さん変わった見た目だろ? だから可哀想で相手してやったのさ。髪は婆みてぇなくせに体つきはそそられたしな。そしたら『寝ることは出来ません』なんてそりゃあねぇだろうよ。こっちは体癒しに来てんだから。だから店出るふりして尾けたのさ。そんで家近くで声かけたのよ。それは何でかって言うとな」
噛み締めた奥歯が破裂しそうだった。だがロックされた俺の体は前に飛び出せない。
「家の前で脅せば断わりづらくなるだろ?ご近所にこんな仕事してるなんてできれば知られたくねーしな。それに家知ってれば何度でも来れるしな。 でもこぶ付きだとはな。しかもとんだ馬鹿ガキ。おまけにガキまで髪真っ白じゃねぇか。気持ち悪いよなーお前たち。化物親子じゃん」
一言目ですぐに頭の中でナニカがはち切れて、紙切れ同然の理性は跡形もなく消える。
―――もういいかな? もういいよね?
でも、大人の力は強く、ましてや警察官の力に子供が抗うことなど叶わず、拘束を受けたまま黙って長い罵倒を聞いているしかなかった。
「言いたいことはそれだけか」
突然、警察官が下衆に問いかけた。
ロボットのように無表情なことで有名な警察官の男の声音は、いつも通りフラットのままだ。だけど突然、拘束が解けた。
「聡君、この男、あと一回だけならいいですよ。でもバットはなし。ビンタとかデコピンぐらいなら構いませんが」
「なんで―――? 」
普段の姿からは想像できない言動に俺も母さんも困惑した。
「その代わり、これっきりにすると俺と約束してくださいね」
いつの間にか冷静になっている自分に少し驚く。俺は下衆を膝立ちにさせるように警察官に指示した。
「約束ですからね」
警察官は男の襟首を引き千切る勢いで持ち上げ、膝立ちにさせる。
「わかった」
帰ったら手洗わなきゃ、と思いながら男の股間目がけて拳を減り込ませた。まだ少年だった俺は拳も小さく、力も成人男性に比べればなかったため自分が想像している以上の威力は出せなかったが、拳が小さいため余計に鋭く下衆の股間の奥まで減り込んだ。
気を失った男を引き摺る警察官の背中に向かって呼びかける。無言のまま振り返る警察官に本来の雰囲気が戻り、少しぞっとしながらも「ありがとう」とだけ呟いた。
「聡君、出鱈目に暴れまわるだけが強さじゃないですよ。たくさん食べて、たくさん寝て、たくさん勉強して大きくなりなさい」
俺は昔から環の中に閉じこもる世間が嫌いだった。自分達と違っているからなんだ。よく見てもいないくせに。そう思い続けていた。
今思えば、喚くだけの少年時代を終わらせたのはあの時の警察官の言葉だったのかも知れない。
「出鱈目に暴れまわるだけが強さじゃない」そう警察官は言った。
じゃあ、あの人の言った強さって何なんだ。俺は疑問を抱き、すぐには出ない問に壁を感じた。
ある時、俺は母さんと母さんの友達に誘われてふらっと映画館に行った。その時見た映画が俺に答えをくれた気がした。
昔のことなのでタイトルまでは思いだせないが、確かプロの殺し屋が拾った娘を全力で守りきる話だった気がする。
今では大女優になった女優が当時その娘役として出ていたはずだ。
結末を話すとその殺し屋は娘を逃がすために死んでしまった。取り残された娘は親しい情報屋兼、仲介役に「わたしも殺し屋になりたい」と頼むが断られる。そして娘は学校に戻り殺し屋が大切に育てていた観葉植物を植えて映画はエンドロールを迎える。
俺はその映画を見ている時、殺し屋の強さに憧れていた。気づけば娘と同じ気持ちになっていて殺し屋が死んだときには涙した。俺も、娘と同じ考えだった。
「自分が弱かったから男は死んだ」
頭の中にはその言葉があって、でもその想いは情報屋の台詞によって否定される。そして娘は学校に通う。
その時に思った。力だけがすべてじゃないんだと。だから俺は知恵を付けることにした。
中学に上がると同時に今まで面倒になったらすぐに抜け出していた学校に毎日通うようになった。誰よりも真面目に学ぶことに打ち込んだ。
すると小学校時代俺を揶揄っていたクラスの連中もいつの間にか気にならなくなっていた。
それに道徳の時間に描いた絵本を母さんが店のままに見せたおかげで俺は舞台の脚本を書く手伝いのをすることになり、本を読むようになり、人の感情を深く理解することに楽しみを覚えた。
高校に上がり俺はクラスの演劇で脚本を手掛けた。それが成功してそのうち友達が出来た。
輪は広がっていき、友達や他の人々と接している間に俺は今まで敵としか感じていなかった人達を一個人として見られるようになり、彼らの話に耳を傾けると発見があった。人それぞれ違う悩みを聞いてああでもないこうでもないと考えるのがいつの間にか俺の日常になっていた。
例えば彼氏と上手くいかない、親と上手くしゃべれない、コンプレックスが気になるなどをはじめ、借金の肩代わりにさせられたとか、お店の子に貢ぎ過ぎて自己破産したとか当時の俺では理解しきれないことまで悩みは様々。客観的に見た深刻度は大なり小なりあるが、どんな悩みだって抱えている人はいつも真剣に悩んでいた。その辛さや苦しみに大小なんてないことを俺は思い知った。
その時やっと、あの警察官の言葉が自分の中で紐解けた気がして―――だったらその悩みをとり除けるような人になろうと思った。
そうすれば、俺と同じように「普通じゃない」と言われている人達の力になれるかもしれない。
そしたら母さんだって―――幸せにできるかもしれない。
本気でそう思って、俺は臨床心理士になるという目標を掲げて歩き始めた。
必死で勉強し、国公立の大学の心理学部を志望してその目標に打ち込む日々を送った。卒業する年になる頃には成績も学年で最上位争いに食い込めるほど良くなり、第一種の奨学生にも選ばれた。こうして最後の戦とばかりに意気込んだ受験も終わり、俺は目標通りの結果を勝ち取った。何もかもがそこまで上手くいっていて、その頃の俺は努力さえ怠らなければ、この先も安心だ、そう思っていた。
無事大学に入り、バイトをしながら心理士へ向かって突き進んでいた一年目―――母さんが倒れた。
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