4‐7




 男たちを縛り上げている途中、黒い影が隣を横切った気がした。

 慌てて過ぎ去った方角に首を振ると、気のせいじゃないことに気づいた。でももう手遅れだった。影は掴もうとした俺の手を置き去りにして車内へと駆けてゆく。


 発砲音が車内に響く。


 モデルガンにはない殺傷能力のこもった重い音。

 俺たちはその場を動けなくなった。

 ロクロウは走るというより跳ぶような動きで男に追いつき、車の中に突っ込んでいって、力のままに男を放り投げた。

 男は第二射を放つことなく、アスファルトに叩きつけられそこで気を失った。

 縛り上げた男たちを置き去りにし車へ戻ると、そこには横たわる姿が、その光景を見た時、俺は―――声が出なくなった。


 腹部には弾丸が減り込み、その周りの毛並みは弾痕を中心に渦巻いている。

 浅い息を吐きだす口からは臓器の損傷に伴って血がポンプのように溢れ出る。破壊された腹部から流れ出す血と口から漏れる血。血の動きに伴ってどんどんと低下していく体温。

 秒針が一度動くたびにソウゴの状態は悪化していく。それでも未だナナスケを包もうとする姿は、一人の親として子供のことは守り切る。そんな覚悟と姿勢を感じた。

「おい、しっかりしろ」

 ロクロウが叫ぶが返事はない。

「おい、ソ――」

 そう言い掛けたところで、あの制約を思い出して口を噤んだ。

 駆け寄って触れると、生きていた時の温かみはともし火程度になっていて、ここにソウゴが生きているという気配はもう残り香程度になっていた。

『どうだ聡、これがドラマってやつだよ。お決まりの展開だ』

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。陸朗さん救急車!いやこの場合は動物病院か。動物病院って迎えに来てくれるんだっけ。あれ―――」

 鳴りやまない動悸に視界が歪む。

 ロクロウが、慌ててスマートフォンを取り出そうとすると、血反吐を吐き出すとともにソウゴが吠えた。

 救助の準備に慌てふためいた一同の手が止まった。

『そんなことするな。これでいい。呼んだら陸朗さんが捕まってしまう。そしたらお嬢さんの夢だって途絶えてしまうだろ』

 白濁していく視界の中にはきっと娘の姿が映っているのだろう。もうじき遠く離れてしまうことをソウゴはもう悟っているのか―――

「そんなことどうでもいいよ」

 取り乱すメグミは激しく頭を掻き毟って、瞼から溢れる涙を飛沫させる。

『お嬢さんにとって夢がどれくらいのものかは知らないけど、俺にとってはどうでもよくないんだ。頼む、責任を果たさせてくれ』

 ソウゴはどんなことがあろうとも娘の姿と生きていた日々だけは心の中で保ち続けていられるように、瞳を通してメグミの姿を頭の中に刻み込んでいる。一心にメグミを見続ける瞳が濁ってゆく。

「嫌だよ。死なないでよ―――」

 ソウゴの葬式の日、親せきに引きはがされても彼の棺にしがみついていた恵みの姿がフラッシュバックする。

『ごめんな』

 死に際に俺に想いを託したあの顔が老犬の顔で再び甦る。

 俺はその瞬間、親友の最期を覚ってしまった。

『あと少しで空港だ。頼むぞ、聡。それと、またなメグ』

 その時あの条件の通り、ソウゴの魂は老犬の器から強制的に追い出された。テレビの電源を切ったようにソウゴの言葉が途切れ、やがて老犬の身体は生命活動を辞めた。

「お―――お父さん? 」

 戻ってきて、と膝を落としたメグミの哭き声が車内の静けさの中で響いた。



 追っ手と老犬の遺体を路地に置き去りにして、再びインターを潜りハイエースは空港を目指す。

 薄花色の空には茜色の雲が浮かんでいて、その雲の上を旅客機が横切っていく。定規で退いたような白線を眺めながら、何もかもを終えてあれを見送るのはいつだろうか、と思う。

「なんで、お父さん……」

 逃走劇のフィナーレを一緒に向かえるはずだった仲間が一人消えた。誰一人欠けることはないと思っていたのに。

 車内は静まり返っていた。口を開くのはシュンとロクロウくらいで、会話はソウゴを失ったことに対する空白を必死で埋めようと交わされている。それが余計に空しさを際立たせていた。

 ソウゴに守られ命が助かったナナスケは、まだ頭の中で整理がついていないのか、放心状態なままで虚ろな目をして景色に意識を没頭させている。

 メグミは腫らした瞼をぐりぐりと擦り、それを辞めさせようとするシュンに反発している。

 俺はといえば―――どうだろう? 

 正直よくわからない。


 死後再び現れたソウゴは元々存在自体が幻想のようだった。だからというわけではないがまだ喪失の実感はやってこない。

 与えられた猶予には限りがあり、時間の経過とともに俺の心もへし折れるのはわかっている。でもこの猶予ですら今は惜しい。

 やり遂げなければ。

 混沌にまみれた心の中でただ感じるのは義務感が混ざった闘志だった。


 俺は再びソウゴがいなくなった先のこと、そしてメグミを託されたんだ。だったら、やり切ってやる―――


『頼むぞ―――聡』

 最初にその言葉を告げられた時、これから喪失を抱えて生きていく重荷を背負うのが辛くて逃げてしまったが、今はそうじゃない。

 俺は意志を固めるために拳を強く握った。




「黙ってたって目的地には向かうんだ。だったらやりきろうぜ」

 返事は帰ってこない。だけど構わず続けた。

「俺さ、お前が保育士になりたいって言った夢を守りたいんだよ。だから協力してくれないか? 」

 相変らずメグミは黙ったまま、床とにらめっこしている。

 それまで穴埋めのように続けていた二人の会話も俺が喋り出したことで役目を終えたみたいにぱたりと止んだ。

「もういいよ」

 メグミの声は弱々しかったたが、突き放す意思だけはしっかりと伝わってくる。

「よくない。たしかに意外だったけど、お前が子供と遊んでいるの、楽しそうに見えたぞ」

「いいって。うちにはそんなお金無いし、それに貰おうとしているお金はコツコツ働いて貯めたお金じゃない」

「貰えるなら貰おうぜ。それにコツコツじゃないけどな、こうして騒動に巻き込まれて苦労してることには変わりないだろ」

「すまねぇ」

 ロクロウが力なく頭を下げる。

「いえ、別にそう言ったつもりはなかったんですけど、でもそう聞こえてしまったのならすみません」慌てた俺の声が沈黙した車内の中で響く。

「ねぇ、前から思ってたんだけどさ。さっさんってなんであたしの世話焼いてくれんの? ストーカーの護衛から始まったけどさ、断わろうと思えばできたわけじゃん」

「そうだな」

「でもさっさんは結局断わらなかった。それにストーカーの護衛が終わってもこうしてあたしの近くにいる」

「あれ、これじゃ俺がストーカーか」

「こんな時にふざけないで。ちゃんと答えてよ。なんであたしの近くにいてくれるの? 」

 心の隅にはケースに詰め込んでビニールテープでぐるぐる巻きにしておいた記憶がある。未だに青臭く鬱陶しいその記憶の蓋を開けるのは厄介であるけれど、純真な瞳が求めるなら、メグミの将来を照らす灯りの一つになるのなら、それもいいか。


「岩田総悟に託されたんだよ」

「なんで―――お父さんが出てくるの」

 言葉はそこで途切れたまま、その後に続くのは声にならない息だけ。

「ほら、前に俺さアルビノだって言ったろ? これも前言ったけどさ、アルビノは母さんからもらったもので、当然親ってのは俺より血が色濃いわけよ。だから大学入る時アルビノが原因で母さん皮膚がんで倒れたんだ。その時にさ、ソウゴと知り合ったんだよ」


 もう一つの別れの記憶。


 心の中にいつもあったけど、ずっとないものとして扱ってきた思い出。

 この別れと向き合うことを長らくサボっていたから、蓋を開ければきっと発酵した臭いに鼻を摘みたくなるかもしれない。

 だけど、仕方がない。ゆっくり向き合ってみようか。

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