3‐8



 月のような顔だなと、あるいはムーンフェイス。

 タイヘイに対して初めて抱いた印象、あれは大病を患っていることの証拠だった。

 

 抱いた印象の通りのネーミングをした病的症状は、別名、満月様顔貌とも言い、副腎皮質からのステロイドホルモンの過剰分泌やステロイド剤を過剰摂取することが原因で顔が浮腫んで丸くなってしまった状態のことを指す。タイヘイの場合、おそらく後者であろう。その証拠にタイヘイは肺がんを患っていた。

 肺がんというものは厄介なことに最初はほとんど無症状である。それにより、タイヘイは音を立てて忍び寄る魔物を間近に感じるまで姿さえわからなかった。そして気づいた時にはもうステージⅣ。つまりは末期だ。

 それでも心残りが解消されるまでは生き残りたかったらしく、美代子さんには「パチンコに行く」とだけ告げ、通院を繰り返し、今まで抗がん剤を摂取しなんとか怪物の機嫌をとっていたらしい。死ぬのを何とか伸ばそうとしたが故にステロイド剤を体に投与し、足掻いた爪痕がタイヘイの顔には刻まれることになった。

 しかし、必死に足掻いても、病魔というのはそういった頑張りに関係なく終わりを告げに来る。もう彼には時間がほんの僅かしかない。


 薄花色の空に太陽が輝く真昼は通り過ぎ、傾いた陽から茜色が差し込み、リノリウムの床に反射する。

 魂が抜けたような二人の顔が光の中で浮き彫りになっていた。

「『もう長くない、そう言われてよく持ってる方だったね』お医者さんにね、そう言われたわ」

 歓談室から出てきて美代子さんは俺たちを前にしてそう告げた。力が抜け落ちていくように美代子さんの身体は長椅子に沈む。

「『いろいろと』ってこのことだったの? 」

 力なき声は上ずっていた。シュンは何を発することもできなく俯き、メグミは顔を覆ったまま動かない。

 誰よりも先に知っていて、覚悟もあったはずなのにいざ起きてみるとそれらすべてはキレイに消え、残るのは霞む頭と抉られたような鈍痛だけだ。またアイツの時と同じだ。引き受けるんじ ゃなかった。どこまでも落ちていくそんな予感がして、堪らず、席を立とうとした時、俺たちの目の前にタイヘイが現れた。

「母ちゃんごめんな。もう時間―――ねぇみたいだ」からからと抜け殻みたいに体を震わせて、タイヘイは笑っている。

「あなたを許さない」

 今度は仕返しでも悪戯でもない美代子さんの深い傷みがタイヘイに放たれて、取り繕ったような笑みを固まらせた。

「美代子―――すまない」

 万の言葉を費やしても足りない弁明の代わりにタイヘイは精一杯土下座をした。

「そんで、お願いがある。明日からまた店を再開させて欲しい」

 声はひどく脆い。でも伝えた意志は何にも負けない頑固さで塗り固めた悲願が込められていた。

「なんで? だって立っているのだって苦しいはずでしょ? 」

「大丈夫だ。もう少し病院で寝てそしたらいつも通りさ」

 立ち上がったタイヘイの身体には今、点滴や抗がん剤などあらゆる薬品が投与され続けている。病衣に身を包んだ姿がただでさえ儚く見えるのに、張り巡らされたチューブがその姿さえ覆い隠している。

「嘘つかないで」

 大切な人の死がもう目の前に来ている。そんな事実を前にして、今まで日常を保とうと努力してきた均衡が美代子さんの中で崩れ去った。

「嘘つき。唐変木。分からずや」

「ごめん」

「鈍感男。何で先に行くのよ。あなたいつだってそうじゃない。後ろをついてくる私の気持ち考えたことあんの? 」

 今までの引っ掛かりや我慢がぼろぼろと涙とともに剥がれ落ちる。

「ごめん」

 美代子さんが降らした土砂降りの雨を真正面から受け、びしょ濡れになったタイヘイも雨に同調するように、瞼から涙を溢していった。

「でも、やらなきゃならない」

「なんで―――」

「俺には先がない。でも母ちゃんには先がある」

「そんな先なんていらない」

 廊下にか細く響いていたタイヘイの声がそこで怒号に変わる。

「―――ふざけるな」

 美代子さんの上擦った泣き声がそこで引っ込んだ。数瞬の沈黙が流れる。そして美代子さんを脅したことに対して申し訳なく思いながらタイヘイは口を開いた。

「ごめん。でも母ちゃんはまだ死なせない。あなたにはまだ続きがある」

「でも……」

「でもじゃないよ。これから生きる母ちゃんのその先には影があっちゃあいけねぇ。なんて伝えればいいか……うーんと……俺は、愛した人にはこれからも生きていてほしい。そんであわよくばその中で幸せであってほしいんだよ」

 血色の悪い肌に熱りが浮かんだ。

 言いきった後どこを見ることもなくタイヘイは床に目を落とした。美代子さんはそんな姿を見て、諦めたように笑った。そして力なくぶら下がったタイヘイの手を握った。

「馬鹿だよ父ちゃん。私の先なんて考えなくてもいいのよ」

「相手の未来を心配するのは夫として当然のことだろ」

 膝から崩れ落ちた美代子さんは繋ぎ止めるようにタイヘイの手を両手で握りしめていた。


 それからタイヘイは宣言通り、店を復活させ、客足の少ない露店に立ち続けた。

 刻々と病魔に襲い掛かられているにもかかわらず、誰よりも五月蝿く笑い、誰よりも機敏に働いた。そこにかけ合わせられる美代子さんの明るさ。もうじき夜は来る―――そう分かりつつも己を燃やしながら二人の太陽は輝いていた。

 そんな陽気につられて遠のいていた客足も次第に回復しつつあった。でもそこで、タイヘイの人生は終わった。

 新規の客は増えたが、とうとう昔の仲間もその店を訪れることはなかった。


「冴島くん。一人か? 」

 首を動かす気力もない身体が真っ白な病室に横たわっている。陽の光に包まれて霞んでいるように見える姿。

ああくそ、嫌でも思い出してしまう。

「みんな、売店でお昼買ってくるそうで」

 そっけなくそう告げる病室の入口を見やる。そうか 、と安堵を纏った溜め息がタイヘイの口から吐き出された。

 灯を使い果たすようにタイヘイは口を開く。

「『美代子を守ってくれ』文太に本当はそう伝えたかったんだ。でも伝えるどころかどんどんとこじらせちまって……昔みたいに喧嘩して仲直り、そうなるには溝が深すぎたんかな。あいつとの仲が戻れば、昔の仲間も集まってきただろう。そうすれば美代子もこの先安心できたのにな。結局だめだったかー。あーあ、全部空回りしてやがる―――」

 言葉は途絶えて、

 後悔のままその先を語ることなく、

 タイヘイの命が終わった。


 死に行く人をこの眼で見送るのはもう三度目か―――

 だけど、いつになってもこの瞬間だけは慣れない。目の前を認めたくなくて、視界を両手で思わず覆った。

「なんなんだよ……クソ」

 何もかも壊して、自分さえも壊してしまいたくなる衝動が、俺の胸の中でざわついた。


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