3‐7



 今朝、美代子さんは店を開けようと家を出た。その時玄関扉には「あなたを許さない」そう書かれた脅迫文が貼られていた。

「あいつに違いない」

 怒り狂ったタイヘイは怒号と共に美代子さんの制止を振り切って家を飛び出たらしい。

話をまとめればこんな感じだった。


「とにかく、店に来て。なんか変なんだ」

「変? 」

「後で話すよ」

「ダッシュで」

 ほら、時間ないよと電話口の相手がメグミに変わる。さも当たり前のように言いますが、今日は休日なんですよね。助手とか宣言しながらこき使ってるのはどっちなんだか。心の中で色々とぼやきながら、急いで着替えを済ませる。

「何よ、朝からうるさいな」

 起こされて不機嫌そうに顔を歪めるサユリに「いってきます」とだけ告げて飛び出た。


 急いで駆けつけると、てっきり店の前で美代子さんと2人は途方に暮れているのかと思いきや、中でモーニングをとっていた。

「あら、おはよう。冴島くんとりあえず座って、ご飯でも食べましょう」

「は、はぁ」

 落ち着き払った様子の美代子さんが空席に手のひらを向け、俺の着席を促す。即座に俺は違和感を覚えた。「変なんだ」てのは、おそらくこのことだろう。その証拠にメグミとシュンは首を傾げながらパンを齧っている。

「太平さん、追いかけなくてもいいんですか? 」

「大丈夫よ。昔は当たり前だったし、さすがに毎日のように喧嘩していれば、このくらいのことは焦らなくもなるわ。今頃、文太さん奥さんに『喧嘩なら外でやってちょうだい』なんてあしらわれてるんじゃないかしら」

 含み笑いを浮かべる美代子さんにやっぱり違和感が拭えない。

「でも、脅されてるのは確かなんですよね? 」シュンがやっと口を挟む。

「うん。そうね」

 美代子さんはテーブル席を立ち上がり、姿を消した。

 何事かと思いつつも混乱したままの俺たちはただモーニングの目玉焼きを口に運ぶしかなく、数分後再び美代子さんがテーブルに戻る。

「じゃーん。これが我が家に貼られた脅迫文です」

「『じゃーん』って……」

 まるで自慢するような口ぶりに呆れながらメグミがツッコむ。コピー用紙には確かに「あなたを許さない」と書かれている。


「あなた―――」

 シュンがそこで首を傾げた。言われてみれば、ブンタが書くには二人称に柔らかさがある。そしてこれはおっさんが走り書きしたにしては綺麗すぎる。頭の片隅で可能性がひとつ浮かんだ。


「それ、私が作ったの」


「は? 」三人が口を揃えた。

 反応に対して美代子さんは、悪戯がバレてしまった子供のように笑った。ばれたというより、自分でばらしたのだけれども。

「なぜそんなことを……」

 未だアルコールの残る頭はまだ本調子というわけでもなく、俺は回らない頭を抱えた。

「私もね、喧嘩ばかりのお父ちゃん達のお守りには手を焼いたのよ。だから細やかな仕返し」歯を見せながら美代子さんは笑う。

 人間には必ず抱えているストレスがあり、個々人ごとにそれ相応のガス抜きというものがある。もし「そんなことしなくても大丈夫」と言う奴がいたらそいつは大法螺吹きか、聖人だろう。俺はてっきり美代子さんは聖人に近い存在なのだろうと思っていたが、それは見当違いだったようだ。


 美代子さんは自作自演の脅迫文を作成し、夫の友達になんの迷いもなく濡れ衣を着させた。

冷静になって事実を振りかえれば、なかなかに罪深いし、この人怖いな。

多分これは美代子さんが貯め続けていたガスが抜けたのだろう。だから彼女はこんな突飛な行動に移った。理屈は通らなくもないがこの人がもし陰の方向にエネルギーを向けたらと考えると背筋が震える。

「でも、ここまですることは……」

 シュンは首を傾げ、俺もメグミもそれに続く。

「まぁ話を聞いて頂戴よ」

 美代子さんは食後のコーヒをとってくるわねといって厨房へ消えていった。トレイの上にはコーヒーだけでなくマドレーヌの山がさらに鎮座していた。長い話になるみたいだ。



「息子の弔い合戦に俺たちの生活を巻きこむなよ」

 そう言ってデモ隊の多くがタイヘイの元を去っていったそうだ。


 美代子さんはぼやく。

「そう言って離れていった人達の生活をお父ちゃんは守ろうとしていたのに、やりきれないわよね」と。

いつも明るくがモットーであるかのような美代子さんの雰囲気に呟いた一言が帳を指している。

 確かに皮肉だ。

 結局、他人というものは目的を見失えば、各々の意見を振りかざす。そして纏まっていたはずの集団はあっという間に烏合の衆となる。よくある話だ。


 次々と脱退者が増える中、タイヘイは幼馴染でもあるブンタに縋ったそうだ。

「お前は一緒にいてくれるよな? 」

 期待していたはずの「当たり前だろ」は一向に返ってこなかった。沈黙を貫き続け、意志は言葉に現れないがブンタの表情がすべてを物語っていた。

「なんでだよ」

 叫びながらタイヘイはブンタの胸座を掴んだ。

 いつもならここで怒り、二人は取っ組み合いになる。そして拳をさんざ交した後、彼らはヤンキー漫画みたいにお互いを許す。美代子さんが言うには「お父ちゃんたちは口より手の方がよく喋る」らしい。

その日も美代子さんは今日もどうせいつも通りだろう。と思っていた。

二人はデモ隊のリーダー同士という枠ではなく、もっと深く通じ合っていたはずだったのに喧嘩、というより太平の一人相撲は一向に終わらなかった。

 裏切られたタイヘイは拳に失意を籠らせてブンタの身体にそれを何度も打ち込んだ。抵抗することなくブンタはタイヘイの想いを受け入れ続けた。

「すまない」文太は何度もそう言ったらしい。その度にタイヘイは失意に沈んでいく。

 美代子さん、それにブンタの奥さんも男の殴り合いに入ることは出来なく、ただ「もうやめて」としか言えなかったらしい。結局、半狂乱になったタイヘイが殴り終えるまでその惨状は続いた。

「もう認めよう。俺たち負けたんだよ」

 両瞼とも腫らし、顔は痣だらけ、歯茎からは地が流れ、見るに堪えない顔になってしまったブンタがタイヘイにそういった。

「そんなことない。お前さえ居れば何とかなるかもしれない」

「それは無理なお願いだ」

「なんでだ」

「先の見えない道を進むのに疲れたんだよ。俺たちの祭りは終わりだ」

「そんなことない」

 お互い平行線のままの会話を続けることにブンタの方は疲れてしまったのか、奥さんを連れて、背を丸めたまま去っていった。

「お父ちゃん。ここまでしたら元樹も『おつかれ』って言ってくれるわよ」美代子さんはそう、諭したつもりだったが、タイヘイは聞く耳を持たなかった。


 それからタイヘイは興信所に連絡してブンタの身辺調査をしてもらった。多分この時もタイヘイは自分が納得のできる理由が欲しかったのだろう。でもその足掻きがより深く二人の溝を深めることになった。

 

―――ブンタの家は、自治体から裏金をもらっていた。


 興信所の調査結果によると、地上げ屋が町内会長であるブンタの家に圧力をかけてきたらしく、それでブンタの家の生活は脅かされた。そして彼は家庭を守るために仕方なく握手代わりに出処不明の小遣いを貰い、代わりに誰に言われても揺らぐことのなかった心を自分の手で折った。


 タイヘイは裏切られた事実、そして親友としてなぜトラブルがあった時に相談されなかったんだ、と無力感に襲われ、話の全てを理解する前に短絡的な考えで家を飛び出した。そしてタイヘイは「三池文太は裏切り者だ」と街中に言いふらしたのだ。

 しかし、街中の人々はブンタを頭ごなしに責めることは出来なかった。何故なら、ブンタのような目にあった家庭は少なくなかったからだ。よって自治体の闇を表舞台に晒し上げることもできなく、タイヘイはデモ活動から離れるしかなかった。

「振りかえれば呆気ない。まさに徒労だ。唯一の成果といえば、親友を箔の付いた椅子から引き摺り下ろしたぐらいだ」

太平がでも活動を辞めた夜美代子さんにそうこぼしたらしい。


 すべての活力を街に落としてきてしまった姿に美代子さんは掛ける言葉が見つからず、ただいつものようにと「おかえり」そう微笑んだ。タイヘイが荒れたのはそのあとすぐのことだ。

 口数が減る代わりに手をあげる回数が増え、それでも美代子さんは日常を取り繕うとする。すると手を上げる回数は減った。だが今度は家に帰る回数が減っていく。

 美代子さんは、「いつものように―――いつものように―――」と何度も反芻してタイヘイが帰れば出迎え、一緒に食べられないんだろうと分かりつつも、食卓に料理を並べ続けた。

「気の利いた言葉なんて知らないのよ。だからいつもを何度も繰り返すしかなかった」

 美代子さんは自嘲を顔に浮かべた。

「でもね、雨が降ればいつか上がる。最近ね、お父ちゃん少しずつだけど昔の元気を取り戻している気がするのよ」

 沈んでいた顔の頬に美代子さんは二度喝を入れた。切り替え上手の美代子さんの表情にすぐに晴れ間が戻る。部屋の空気が少し軽くなった気がする。

「さーてと、迎えに行くかね」

 まるで子供のお迎えでも行くかのように立ち上がる美代子さんを見て、俺は再び彼女に対する印象を変えた。

 美代子さんは聖人君子などではなく、人並みに悩んで苦しんで、それでも歩き続けられる強さをつかんだ女性なんだ。そう思った。

「そうですね」

 二人の声が揃う。先を行く晴れやかさは外の陽気と相まって俺には眩しく映った。


 正午前の太陽は絶好調に輝いていて、街を熱気で覆い尽くす。耳の中で響く蜩が倦怠感を加速させる。そんな中で相対し、睨みあう二人がいた。その熱気にうんざりする。ここにも倦怠感を加速させる原因が―――

「馬鹿はおめぇだって言ってんだ。馬鹿野郎」

「なんだと馬鹿野郎」

「ぁんだとこの野郎」

「馬鹿っていった奴が馬鹿なんだ。馬鹿野郎」

「お前、今、三回『馬鹿』っていったから馬鹿決定だ」

「なんだと、この馬鹿」

「うるせぇ馬鹿、バカ、ばか」

 まともな会話じゃない。この前の方が、ヤクザ同士の啖呵の切り合いみたいで迫力があったが、この光景にはもう幼稚さすら感じる。


「あら、関さん。今日はギャラリーが多いわね」

 振り返るとそこには、うんざりを顔にべったりと貼り付けた女性が立っていた。

「あら、三池さん。それに誠くん」

 プールバックを握りしめた子供が頭を下げた。

「誠くん今日はどうしたの」親しそうに美代子さんは子供の前でしゃがみ込んだ。

「なんかね。しゃかいべんきょーだってさ」

 口を尖らせた子供の視線は美代子さんと遠くを行き来している。

「社会勉強? 」メグミが首を傾げた。

「そう。『お父さんみたいになっちゃダメよ』って教えに来たのよ」

 呆れた顔で三池さんは笑った。そうして、空き地で喧嘩する男たちを生活音の一つとして、二人は談笑を始める。


え―――この二人仲いいの?

 

「聡さん。もしかして、この依頼っていろいろ回り道しているけど、もう半分解決しているんじゃ……」

「あたしもそう思った。てか半分じゃなくてほとんどでしょ。もう当人同士の意地の張り合いじゃん」

 楽しそうに子供をあやしながらメグミがまた核心を突く。

「まぁ、あの時はいろいろあったわよね」

 俺たちの耳打ちは聞こえたらしく、二人は目を合わせ笑い合った。

「でも今は親友」

 美代子さんと三池さんは肩を組み合う。

「頑固おやじを持つ被害者同盟の間違いじゃない? 」

「そうね」また笑い合って、二人は談笑に戻った。

 肩を組む二人、かたや取っ組み合う二人。揶揄された頑固親父たちの溝が未だ埋まらないのはプライドのせいなのかもしれない。


「お父ちゃん。お昼ご飯」

 二人が叫ぶと、取っ組み合っていた二人が振り返った。そして殴り合う手を止め、素直に此方へ向かってくる。

「子供かよ……」

「本人曰く『腹が減ったら喧嘩ができない』らしいわよ」


 もう言葉も出ない。茶番が終わり、そうしてそれぞれの家へ戻る。


「なぁ、母ちゃん。あいつ『俺はやってねぇ』そう言い張るんだ」

 流れで俺たちも昼飯のカレーにありつけることになった。カウンターに横並びになり、黙々とカレーを口に運びながら美代子さんにタイヘイは問いかける。

 すると、あっさり美代子さんはネタばらしをして、タイヘイは手に持ったスプーンを器の中に落とした。俺たちのスプーンも口元寸前で止まる。

「嘘じゃないよな」

「本当のことよ」

「なんでそんなことを……」

 頭を抱えるタイヘイに向かって美代子さんは「少しは痛い目にあってもらいたかったのよ」そう言った。拗ねているのか、あどけない少女のように口を尖らせている。

 その顔を見て、タイヘイは怒ることなく、涙ぐんだ。

 付き合いたてのカップルなら、相手の理解できない行動には説明と折り合いをつけるだけのキャッチボールが必要となる。でも、タイヘイたちは楽しい時も辛く、苦しい時も一緒に歩んできた夫婦だ。そういった時の累が互いの心を通わせるのに瞬発性を与えていた。

「母ちゃんごめん。いろいろと」

「それは違う人に伝えなさいよ」

「……わかった」

 ぱっと出されたこのカレーは何時間も煮込まれて作られているのだろう。一口運べば肉の旨み、玉葱などの野菜の甘味、香辛料のアクセント様々な彩を感じる。それと同じように二人の短い会話の中には膨大な年月が集約されているのだろう。

「素敵だね。あの二人」

 俺の横に座るメグミが、端に座ったシュンに問いかけていた。

 するとシュンは声を震わせて「そうだね」と同意した。相思相愛なんだから、早くくっつきゃいいのに。今までのじれったさも初々しくてよかったが、そろそろ飽きてきた。目の前の二人を見てそんなことを思いながら微睡みのような穏やかな時間を洋食屋で過ごしていた。


 スプーンが床に落ちた音が聞こえた。振り向くと落とし主は、動揺したシュンではないことがわかって―――

「お父ちゃん? 」

 椅子から転げ落ちたタイヘイが蹲っていた。頭の中ではこの依頼を受けた日のことが思い浮かんだ。


―――この愛に対して感謝を返せないと、俺は人間じゃなくなる。


 そう言ったタイヘイに対し俺はなお意志を通そうとしていた。そんな俺に向かってタイヘイは、


「人間のまま死なせてくれ―――」と確かにそう言った。

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